犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

「正しい」ということ

2007-02-20 20:52:19 | 国家・政治・刑罰
ソクラテスからヘーゲルに連なる弁証法が、西田幾多郎によって仏教の禅の思想に結び付けられているのも、「自己言及の矛盾」という根本の哲学において共通するからである。ソクラテスの「無知の知」という思想は、禅の「悟ろうと思うほど悟れなくなる」という二律背反に通じる。

弁証法の視点というものは、単なるこの世の円環運動の説明に過ぎない。実に当たり前のことを述べているだけである。そこからは何らの主義主張も導き出せない。すべては在るように在る。この地点から法律を論じたヘーゲルからすれば、現在の法律学の議論は底が浅い。

もし何かの命題が正しいものであるならば、それに対して理屈をつける必要はない。もともと正しいことが明らかであれば、今さらそれを正しくする必要がないからである。我々は、「太陽は西から昇る」「日本の首都は大阪である」と主張する人がいても、ムキになって反論したりはしない。笑いながら放っておくだけであろう。正しいことに自信がある事項については、わざわざ理屈を持ち出して正しさを主張する必要性を感じないからである。

これに対し、我々が人権活動家に対して「加害者ばかりが有利に扱われるのはおかしい」と主張すれば、烈火のごとくの反論に遭うだろう。そして、様々な理屈を持ち出されて、誤った認識を改めるように強制されるだろう。笑いながら放っておいてはくれない。正しい知識が不足していると非難され、間違った考え方は訂正するように迫られる。

しかしながら、弁証法の視点からは、このように熱くなる理由がない。もし「加害者は有利に扱われていない」という命題が正しいものであるならば、それに対して理屈をつける必要はなく、今さらそれを正しくする必要がないからである。「加害者ばかりが有利に扱われるのはおかしい」と言う人に対しては、「太陽は西から昇る」と言う人と同じで、笑いながら放っておけばいいだけの話である。それが正しいということの意味である。

様々なデータを持ち出して理論武装し、論拠を積み上げて反対派を論破しようとする姿勢は、そのことによって自らが正しくないことを示してしまっている。正しくないからこそ、それを正しくしなければならなくなる。かくして法律の議論は、往々にしてイデオロギー論争に堕する。

弁証法の正義は、Sein-Nicht-Werdenという円環運動それ自体である。これに対して法律は、あくまでもSollenという当為である。当為はあくまでも仮説であって、正義ではない。その仮説が正義として絶対化されるとき、SollenはWerdenを指向し始める。しかし、SollenはWerdenにはなれない。