犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

相対的な真実 ・絶対的な真実

2007-02-13 21:04:02 | 国家・政治・刑罰
罪刑法定主義がピンと来ない人のために、刑法学のテキストは、その沿革を丁寧に説明している。古くは1215年のマグナ・カルタに由来し、1628年の権利請願、1689年の権利章典において確立され、1789年のフランス人権宣言において結実し、近代市民法の原理として常識となったというのが一般的な説明である。

ここまで言われると、多くの学生はその通りだと納得してしまうが、伝統の長さでは哲学の理論も負けていない。罪刑法定主義を批判したヘーゲルの弁証法は、元はと言えば古代ギリシアの哲学者・ソクラテス(Sokrates、紀元前469頃-紀元前399)に由来する。マグナ・カルタよりも1600年も昔の理論である。

もっとも、古さを競っても仕方がない。哲学が目指すのは、時空を超える真実である。時間や場所、人間によって異なるものは、相対的な真実にすぎない。時代によってコロコロ変わるようなものが絶対的な真実であるわけがない。

罪刑法定主義を説明する刑法学のテキストは、独裁的権力者がその権力を維持するために恣意的に刑罰権を発動して、国民の基本的人権が踏みにじられたという苦難の歴史を詳しく説明している。しかし、このような歴史的な考察は、そのことによって自らの真理が相対的であることを示している。1215年のマグナ・カルタを絶対視するということは、その前年の1214年には、真実は未だ地球上に存在しなかったということを含意する。

このように真実が時代によって異なること、すなわち真実の相対性を認めるならば、現在において原理原則とされているものの絶対性も否定される。現在では被告人の黙秘権、無罪の推定などが近代刑法の大原則だと信じられているが、300年後、500年後に跡形もなく覆されていても何ら不思議ではない。

被害者が直面している問題は、「法律的」な問題ではあっても、「法律学的」な問題ではない。むしろ「哲学的」な問題である。人間が生きるということ、今ここで一度きりの人生を生きている人間としての根本的な問題である。権利章典やらフランス人権宣言やら、法律家の説明は何ら満足のいくものではない。被害者の人生にとっては、何も関係のない話である。

人間の生命は、どう頑張っても100年前後である。ここで300年前、500年前の理論を持ち出されても、説得力がない。一人の人間が生きるという身の丈を超えてしまい、地に足が着かないからである。そのような理論は、絶対的な真実として神格化されて、無理やり押し付けられるしかない。