犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

理性と感情

2007-02-16 19:43:33 | 国家・政治・刑罰
厳罰化に反対する立場からは、「国民やマスコミは安易に感情に流されている」と言われることがある。このような主張は、理性をプラスの価値とし、感情をマイナスの価値とした上で、法律はあくまでも理性に基づかねばならないという立場を前提としている。

しかし、国民やマスコミはそこまでバカではない。大上段の原理原則の立場に立つと、どうしても他者を無知として見下す危険性がある。現に被害者の感情を消極的に捉えている人権派弁護士は、逆に冤罪事件や刑務所の不祥事においては、自らの感情をあらわにすることが多い。何年にもわたって無罪を信じて裁判を戦い続けるのは、意地と感情以外の何物でもない。

哲学の視点は、このような人間の感情を直視する。感情に流されずに理性によって客観的に法律を解釈適用することなど、そもそも不可能であることを前提として受け入れる。人間は生きている限り、喜んだり怒ったり、悲しんだり楽しんだりして、自分の人生を形成していく。このような人間存在の中で、法律学の関わることができる場面は、ほんの一部に過ぎない。この一部分だけを取り出して、それを人間存在の全体の問題に戻そうとするとき、そのひずみが被害者を苦しめることになる。

細分化した学問は、人間が人生を生きているという端的な事実に対して、部分解を与えることしかできない。近代刑法の大原則というカテゴリーは、そもそも被害者の問題を掬い上げていない。それにもかかわらず、「国民やマスコミは安易に感情に流されている」と言って厳罰化に反対し、人間の抱える問題をすべて一点から説明してかかろうとするとき、それは原理主義となる。

理性と感情を対立させて捉える二元論は、人間の自然な行動を捉え損なう。ヘーゲルが述べた「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉は様々に解釈されるが、字義の通りに読めばよい。理性的でないならば、それは現実には起こっていないはずである。国民やマスコミによる厳罰化の意見は、それが感情的であることも含めて現実的であり、従ってそれは理性的である。

弁証法という逆説

2007-02-16 19:01:39 | 国家・政治・刑罰
従来の法律学の問題は、問いの立て方がはっきりしている。厳罰派の問いの立て方は、「なぜ犯罪が減らないのか」という形である。この背後には、「犯罪はあってはならない」という答えがあり、後はその方法を探ればいい。これに対して、人権派の問いの立て方は、「なぜ冤罪が減らないのか」という形である。この背後には、「冤罪は絶対に許されない」という答えがあり、後はその方法を探ればいい。内容は正反対だが、形式は同じである。

この両者が「犯罪被害者の問題をいかに考えるべきか」という問いに直面すれば、議論は混迷を極める。同じ問題文において、違う答えを前提としているからである。この論争は、いつまで経っても生産性のある結論をもたらさない。悲惨な凶悪事件が起きれば厳罰派に揺れ、無実の者が苦しむ冤罪事件が明らかとなれば人権派に揺れる。この繰り返しである。

このループから抜け出すのが、弁証法という逆説の視点である。弁証法では、問いそのものを問う。「そもそも『犯罪被害者の問題をいかに考えるべきか』という問題は、そもそもどのような問題なのか」という問いの視点を持つことである。これが自己言及のパラドックスと言われる弁証法の視点である。

法律学の従来の問いの立て方は、犯罪被害に遭うという人間の人生そのものに関わる深い問題を、浅い政治問題に矮小化してきた。何年経っても議論が行きつ戻りつして、先に進んでいないように見える原因はここにある。