犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

中立的な表現を装ったオピニオン

2007-02-21 21:03:35 | 国家・政治・刑罰
罪刑法定主義を大原則とする近代刑法の思想からは、裁判所が厳罰化の世論に押されて重い刑を言い渡すならば、裁判の安定性・客観的で公正な裁判が害されることになる。これに対して、逆に裁判官が被告人の情状や将来性を考慮して、通常よりも軽い刑を言い渡す場合には、罪刑法定主義からは問題がないとされる。

結局、裁判の安定性・客観的で公正な裁判というイデオロギーは、刑を軽くするという方向性に一方的に結び付けられる。しかし、論理的に言葉の意味を考えるならば、裁判の安定性・客観的で公正な裁判という中立的な価値は、重すぎる刑のみならず、軽すぎる刑によっても害されるはずである。

戦後60年、「罪刑の均衡」という一見すれば価値中立的な表現は、国家権力の濫用を抑制するという文脈でのみ捉えられてきた。裁判の実務もこの文脈を前提に動いてきた。ここで割を食ってきたのが被害者である。「罪刑の均衡」とは、刑が重すぎても軽すぎても問題であるという意味ではなく、重すぎる場合だけが許されないという意味に読み替えられていた。ここに表現と実質の乖離が生ずる。

人権活動家は様々な人権問題において国家権力と戦うときに、「法律を杓子定規に適用するだけではなく、超法規的措置によって人道的に柔軟な解決を図るべきである」と主張する。しかし同じ人権活動家は、被害者からの厳罰化の要求に対しては、「法律には客観的明確性が必要であり、安定した法の適用が要求されるので、その場の感情で個別的な解決を図るべきではない」と主張する。これは対照的である。答えが先にあって、それに合わせて後から正反対の理屈の形式を持ち出しているからである。

法律学の世界では、何よりも客観的で中立的な条文解釈の態度が求められるという建前がある。しかし、被害者にとっては中立でない時代が長く続いたことを見ても、そのような建前はもとより不可能であることがわかる。中立的な表現を装いつつ「裏の意味」を主張するオピニオンが幅を利かせるならば、中立性など放棄したほうがましである。