のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、時代のターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのでした。
平安時代末期。
鎌倉の亀谷に館を構えた「源義朝」、引き継いだ嫡男「源義平」は関東にて地盤を拡大。
一方、天皇家は若くして亡くなった「近衛天皇」の後継者をめぐり、継いだ「後白河天皇」、息子に譲れなかった「崇徳院」という兄弟は反目しあっていました。
さらに、関白藤原家の確執も重なり、権力を握っていた「鳥羽院」の死後、朝廷は二派に分裂してしまうのです。
◆兄「崇徳院」方
藤原頼長
平忠正
源為義(河内源氏)
源親治(大和源氏)
◆弟「後白河天皇」方
藤原忠通
藤原(道憲)信西
平清盛(伊勢平氏)
源義朝
源頼政(摂津源氏)
まずは兄「崇徳院」方。
”鎮西八郎”との異名を持つ、豪弓で知られる「源為朝(※写真)」が夜襲を提案しております。
さて、こちらの「源為朝」は「源為義」の八男で、今回は敵対している「源義朝」の弟です。
身長七尺(2.3m)といいますから当時では相当な大男で、強弓を引けば”一矢で馬上の二人以上を鎧そのまま射通した”という、トンデモな方でした。
幼少期より剛勇として知られる為朝ですが、その反面”暴虐無人な問題児”で、十三歳の時に父から豊後へ追放されてしまうのです。
…しかし、そんなことではヘコたれない為朝くん。
九州に下った彼は各地の武士を従えるべく転戦、西の地にて大暴れしたのでした。
それがため、”検非違使(けびいし:治安維持の役職)”であった父為義は、戦を仕掛ける為朝に悩まされた九州の武士らが朝廷へ訴えた結果、久寿元年(1154)にはその役目を解任されてしまったのです。
それを知った為朝は手勢を率いて上洛したのでした。
…さすがにやり過ぎた、と思ったのかなぁ(笑)
こうして上洛したところ、ちょうと゜「保元の乱」の混乱に間に合ったという訳なのです。
そんな荒武者「源為朝」の作戦は”内裏高松殿に夜襲をかけ、三方から火を放った末に残ったもう一方より攻撃を仕掛ける”、というものでした。
この献策は父為義の推挙によってのことらしく、一度追放したとはいえ実力は認めていた様子なのです。
問題児ほど可愛い、ってやつでしょうか。
詳しくはよく分かんないけど。
しかし、そうした進言はことごとく「藤原頼長」によって退けられ、彼は憤然としたまま白河殿西門の防備にあたることとなってしまうのでした。
一方の「後白河天皇」方でも、「源義朝」が「藤原信西」へ夜襲を進言しておりました。
「崇徳院」方とは違い、この作戦は「後白河天皇」や「藤原信西」に認められ、機先を制する夜襲が決定されたのです。
様々な事情や思惑があるとはいえ、やはり戦は「勝つこと」が重要。
実戦のプロである彼らを信用したか、どれだけ巧く扱えたか、は後の勝敗を大きく左右することになったと思います。
⇒ つづく。
次回は「源平激突!白河殿西門」(6/10)
[関連記事] 【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[ 1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編
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※本当に買ってきました(笑)
当時の各武将(186名)が豊富な資料・写真付きで紹介されており、実に資料価値の高い一冊でした。
「平将門」から「北条泰時」くらいの源平武将が勢ぞろいです。
…光栄さんから「源平無双」とか発売されないかなぁ。
本日も、”武士の時代到来”したという、時代のターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのでした。
平安時代末期。
鎌倉の亀谷に館を構えた「源義朝」、引き継いだ嫡男「源義平」は関東にて地盤を拡大。
一方、天皇家は若くして亡くなった「近衛天皇」の後継者をめぐり、継いだ「後白河天皇」、息子に譲れなかった「崇徳院」という兄弟は反目しあっていました。
さらに、関白藤原家の確執も重なり、権力を握っていた「鳥羽院」の死後、朝廷は二派に分裂してしまうのです。
◆兄「崇徳院」方
藤原頼長
平忠正
源為義(河内源氏)
源親治(大和源氏)
◆弟「後白河天皇」方
藤原忠通
藤原(道憲)信西
平清盛(伊勢平氏)
源義朝
源頼政(摂津源氏)
まずは兄「崇徳院」方。
”鎮西八郎”との異名を持つ、豪弓で知られる「源為朝(※写真)」が夜襲を提案しております。
さて、こちらの「源為朝」は「源為義」の八男で、今回は敵対している「源義朝」の弟です。
身長七尺(2.3m)といいますから当時では相当な大男で、強弓を引けば”一矢で馬上の二人以上を鎧そのまま射通した”という、トンデモな方でした。
幼少期より剛勇として知られる為朝ですが、その反面”暴虐無人な問題児”で、十三歳の時に父から豊後へ追放されてしまうのです。
…しかし、そんなことではヘコたれない為朝くん。
九州に下った彼は各地の武士を従えるべく転戦、西の地にて大暴れしたのでした。
それがため、”検非違使(けびいし:治安維持の役職)”であった父為義は、戦を仕掛ける為朝に悩まされた九州の武士らが朝廷へ訴えた結果、久寿元年(1154)にはその役目を解任されてしまったのです。
それを知った為朝は手勢を率いて上洛したのでした。
…さすがにやり過ぎた、と思ったのかなぁ(笑)
こうして上洛したところ、ちょうと゜「保元の乱」の混乱に間に合ったという訳なのです。
そんな荒武者「源為朝」の作戦は”内裏高松殿に夜襲をかけ、三方から火を放った末に残ったもう一方より攻撃を仕掛ける”、というものでした。
この献策は父為義の推挙によってのことらしく、一度追放したとはいえ実力は認めていた様子なのです。
問題児ほど可愛い、ってやつでしょうか。
詳しくはよく分かんないけど。
しかし、そうした進言はことごとく「藤原頼長」によって退けられ、彼は憤然としたまま白河殿西門の防備にあたることとなってしまうのでした。
一方の「後白河天皇」方でも、「源義朝」が「藤原信西」へ夜襲を進言しておりました。
「崇徳院」方とは違い、この作戦は「後白河天皇」や「藤原信西」に認められ、機先を制する夜襲が決定されたのです。
様々な事情や思惑があるとはいえ、やはり戦は「勝つこと」が重要。
実戦のプロである彼らを信用したか、どれだけ巧く扱えたか、は後の勝敗を大きく左右することになったと思います。
⇒ つづく。
次回は「源平激突!白河殿西門」(6/10)
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⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
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⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編
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※本当に買ってきました(笑)
当時の各武将(186名)が豊富な資料・写真付きで紹介されており、実に資料価値の高い一冊でした。
「平将門」から「北条泰時」くらいの源平武将が勢ぞろいです。
…光栄さんから「源平無双」とか発売されないかなぁ。
⇒暴虐無比 ぼうぎゃくひするなし
⇒傍若無人 かたわらにひとなきがごとし