エコでピースな市民のひろば

『ひとりの百歩より百人の一歩』をスローガンにライフスタイルやスピリチュアル系情報を交換するWebひろばです

はなさそふ

2021年12月14日 | 歴史日誌

▲忠臣蔵 櫻花の巻/(C)東映



今から319年前の今日は
所謂「忠臣蔵」と呼ばれることになった
赤穂浪士の討ち入りの日です。
当時より
主君を想う忠臣たちのことを
暴力集団と罵ることはなかったようですが
事件の表面だけをみると
明らかに軍事力を持ったテロ集団であると
いわざるを得ません。


しかしながら
当時の統治者は彼らを
「打ち首」ではなく「切腹」に処した。
騒乱の当事者を罪人としてではなく
名誉の死として称えたわけです。
それはなぜなのか?



少し前までは
この時期になると
忠臣蔵の映画や舞台がかならず
テレビで放映されていましたが
最近は見なくなりましたね。
時代はテレビからネットへ。



そんなわけで
忠臣蔵に思いを馳せながら
「ねずさん」の結美大学の講義に
おじゃましてみました。
歴史には裏と表があるんですね。

どうぞ
お時間あるときに。


▲結美大学 33分12秒




▲学校では教えない忠臣蔵の真実 赤穂浪士が討ち入りをした本当の理由|小名木善行



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憂国忌

2020年11月26日 | 歴史日誌

▲三島由紀夫氏


昭和45年(1970年)11月25日から
数えて今年で50年。
実に半世紀の時間が流れました。
憂国忌
として全国では
様々な催しが開かれたようです。


高校生の頃
古文の先生から薦められて
三島由紀夫を読み始めました。
最初の作品は
豊穣の海
でした。
当時は難解な文章を読むために
左手で辞典を引きながら
1ページを読むのに多くの時間を
費やしました。
作品内には仏教に関する記述が多く
おかげて宗教に興味を持つ
きっかけにもなりました。



▲「豊穣の海」全4巻


多感な頃に読んだ作品は
その後の人生に大きな影響を
あたえると思いきや
保守系の論客と呼ばれた三島の思想とは異なる
「左派」の牙城と呼ばれる大学に進み
革新政党系と呼ばれるサークルに入り
反戦平和運動にも関わるようになりました。



それが
今となってみれば
「右派」と呼ばれる三島の思想は
あくまでも印象や
思い込みによる錯誤であって
極めて中道な
むしろ歴史的な視点からみると
実にナチュラルな立ち位置であることが
わかります。
「左派」と呼ばれる活動に
浸かっていた大学時代も結局は
日本の行く末を案じるが余りのことであり
視座を変えてみると
イデオロギーではなく
一致点を数多く見つけることができると
気づきました。
同時に偏った情報に寄ってもたらされる
洗脳
の恐ろしさも知りました。



つまり
敗戦を生んだそれ以前の歴史
たとえば維新や幕末の動乱
さらには江戸時代の統治機構について
知る必要があり、何よりも
天皇の存在なしには
分かりようのない我が国の
リアルな歴史を学ばなくてはなりません。
竹田恒泰さんの作品は
そのことを実にわかりやすく
面白く解説してくれています。



▲amazon「天皇の国史」



我が国にとって
天皇とは何なのか?
為政者?統治者?権威者?
憲法でうたわれている象徴(シンボル)?
恐れながら自分なりの
天皇観を持つことが歴史を知り
日本を知ることに繋がります。
一見
タブー視されているテーマですが
ここは避けて通れない。
先祖を含めた今の自分を支える
背骨の存在は脈々と受け継がれていきます。


憂国忌を迎え
思想信条を超え
改めてそのことを肚に尋ねる
良い機会だと感じます。
「はじめての日本国史」
こちらもオススメの一冊です。


▲赤塚高仁「お父さん、日本のこと教えて」




▲YouTube「三島由紀夫 入門! 没後五十年 を迎える今改めて 三島 文学 の魅力にせまる」



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昭和の日

2020年04月29日 | 歴史日誌
昭和天皇が御隠れになったのち
世界中で様々な出来事が発生します。


昭和の終わりは
ベルリンの壁の崩壊、天安門事件など
戦後体制の大きな転換点になりました。


今日は「昭和の日」
いまだに「みどりの日」
と言ってしまうこの日ですが
平成19年の祝日法改正で
現在の名称に代わりました。


祝日法によると昭和の日とは

激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす

という趣旨で設定されたようです。


さて
平成2年(1990年)のこの日
結婚式を行いました。
ついこのあいだのことのようで
しかしもうすでに30年も経過しました。


思い出すに
家内と出会ったのが前年の8月。
12月に結婚を決めて約4か月で
結婚式にむけての準備を行いました。
式場選びや打ち合わせ
メッセージ集の編纂など
短いながらも充実した時間を
共有することができたと思います。




年が明けてすぐ
カトリック教会での結婚式が決まりました。
聖書の読み合わせと式典の打ち合わせのため
2人で毎週通いました。


たしか3回目が終わった頃だったかと
予約されていたはずの会場が使えない
と教会近くの披露宴会場から連絡がありました。
どうやら
ダブルブッキングだったようです。


すでに2月に入り
これから会場を探すにも祝日のため
どこもいっぱい。
しかしのこの頃
不思議と焦りや心配はありませんでした。


これまでもなんとかなってきたし
これからも絶対になんとかなる
という確信のようなモノがありました。


すると案の定
駅前のホテルの披露宴会場が
一件見つかりました。


当日は県外からの参列者も多かったので
結果的に駅前の利便性が喜ばれる結果に
なりました。


披露宴の司会進行についても
民放ラジオの有名なパーソナリティに
お願いすることができました。


家内との出会いは友人の紹介でしたが
結婚を決めたのは闘病中の母を見舞った時の
「結婚してもらいんさい!」
の一言でした。
平成元年の暮に亡くなりました。


2010年
サラリーマンを辞め農業へ。
前年から体調を崩していた父の
療養を兼ねての転身でした。


まったくのシロウトがいきなり
米づくりを始めたんですが
この時も
移り住む家や農地などを決める際に
予期せぬドラマがたくさんありました。


▲YouTube「イセヒカリ田の様子」


「イセヒカリ」から
伊勢の神宮とのご縁を頂き
毎年、月次祭や神嘗祭には神宮に
参拝させてもらうことにも繋がります。


考えても焦っても
結局は不思議なご縁で生かされている。
ご縁が繋がると
自然とうまく転がり始めることを
ひきよせ
と呼んだりしているのでしょう。


いま
この時も常に働いている
ご縁のチカラ。
人知を超えたこのチカラを
あらためて感じる昭和の日です。



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チベット寺院

2019年12月20日 | 歴史日誌
デプン・ゴマン学堂日本別院は
日本ではじめての正式な
「チベット仏教僧院」です。
チベット仏教の総本山
デプン・ゴマン学堂の
別院として創設されました。
その目的は主にチベット仏教とその文化を
日本に紹介するためです。
そのあたりのことは
過去ブログで紹介しています。



▲過去ブログ「龍が奔る杜7」




頻繁に見かけていた紅色の法衣を
最近見かけなくなったなあと
思っていましたら東区牛田から
西区庚午へ移転したことを
つい先日知りました。
ホームページには“諸般の事情”
と記載がありましたが
宮島の大聖院が支援されるとのこと。
真光院という真言宗のお寺へ移転しました。



▲移転のお知らせ



ところで
東京大学大学院博士課程を修了し
曹洞宗の僧侶でもある島根県出身の
和田賢宗さんがこのたび
本山デプン・ゴマン学堂へ
日本からの初の留学僧として
チベットに向かうことが決まりました。



▲和田さん(左)「留学にむけて」




昨今の香港情勢をめぐり
チベットを取り巻く周辺の情勢も
俄かに慌ただしくなってきた
感があります。
過去の歴史を振り返るにあたり
香港とチベットは切り離せない
関係にあります。
軍事大国による第二次世界大戦後の秩序が
ここにきて大きく変化しようとしています。
引き続き軍事力という「暴力」を
背景とした秩序を維持する時代は終わり
新たな秩序を模索する時代に
なったと思います。


今まさにものごとを
対立的(二元的)にとらえるところから
内面的(全体的)にとらえるという
価値観の大転換の時代です。
そのためには取りも直さず
ひとり一人の覚醒がその前提となる
と思えてなりません。



▲映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」

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ちはやふる

2019年12月04日 | 歴史日誌


千早(ちはや)ぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがは) からくれなゐに水くくるとは

現代語訳:さまざまな不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえも、こんなことは聞いたことがない。龍田川が(一面に紅葉が浮いて)真っ赤な紅色に、水をしぼり染めにしているとは。


ご存知「百人一首」の17番目
在原業平朝臣(あそん)の和歌です。
鮮やかな秋の情景を詠んだ華麗な歌ですが
実は業平の切ない気持ちが表現された
イミシンな作品です。


ちなみに
3年前に公開された映画
「ちはやふる」は
高校生の競技かるたの世界を描いた
末次由紀さんの少女コミックスを
実写化したもので主人公千早(ちはや)を
広瀬すずさんが演じています。
1200年ほど前に詠まれた和歌が
映画のテーマになるあたりが
とても日本的ですね。



▲映画「ちはやふる」予告編



在原業平は
いまでいうところの
「プレイボーイ」として生涯に
3733人もの女性と関係したとか。
いわゆる「スキャンダル男」として
当時は大変有名だったでしょうね。
在原業平がモデルとされる
「伊勢物語」では女を盗み出して
二人で駆け落ちをする和歌があります。


白玉か なにぞと人の 問ひし時 露とこたへて 消なましものを



実際の駆け落ちでは追っ手につかまり
あえなく引き離されたのが
実話のようです。
いっそ露のように
消えてしまえればよかった
という嘆きの声が聞こえてきます。


ちなみに
在原業平を題材にしたとされる
「井筒」は世阿弥の最高傑作とされ
伊勢物語の23段「筒井筒」を元に
構成された能の代表作です。


▲能「井筒」YouTube(39:41)



師走の折
伊勢物語を読み返しながら
久々に百人一首をめくってみようかな。

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大嘗宮

2019年08月08日 | 歴史日誌

▲皇居東御苑での大嘗宮地鎮祭。写真は主基院献饌を終えた場面(7月26日午前)


先月末、皇居東御苑において
大嘗宮の地鎮祭が終わったという
ニュース報道がありました。
今年11月に予定されている大嘗祭にむけて
大嘗宮(だいじょうきゅう)
を建設する準備が整いました。


▲平成の大嘗宮


上皇陛下が即位された際は
平成2年(1990年)11月12日に即位の礼
11月22日から23日に大嘗祭が行われています。
ちなみに大嘗祭は国事行為ではありません。
皇室(天皇家)の公的な行事です。
大嘗祭が国事行為とされない理由は
憲法上のそれは
「内閣の助言と承認」を必要とするもので
皇室の伝統祭祀である大嘗祭は
「国事行為に当たらない」
という理由からです。


では大嘗祭とは何なのでしょうか?


竹田恒泰さん曰くそれは
「極めて宗教的、霊的な行事」
だそうです。
天皇が天皇となる瞬間、つまり
霊的な存在になる
訳です。
従って、三種の神器の継承が天皇の証ではなく
大嘗祭を執り行って初めて天皇になるという
宗教儀式の中心的存在がそれにあたります。


ところが
大嘗祭への国費支出や大嘗祭への
都道府県知事の参列が日本国憲法の
政教分離原則の観点から違憲である
という意見もあります。
これに関しては戦後色々な意見がありました。
しかしその前に
そもそも
天皇とはなにか
宗教とはなにか

ということを考えてみる必要が
あるのではないでしょうか。


ちなみに
11月14・15の大嘗祭に先立ち
10月22日(火)は
「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」
にあたり、即位を国内外に宣言する儀式が
執り行われます。
今年に限り祝日となります。


皇室に関する報道には
引き続き注目していきます。

▼令和元年6月6日読売新聞











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井本勝幸

2019年07月20日 | 歴史日誌


インパールはインド北東部のマニプル州の州都で
2011年現在の人口は約26万人の都市です。
昭和19年(1944年)3月から7月にかけて
「インパール作戦」
として多くの日本人が派遣された地です。
作戦に参加した殆どの日本兵が死亡したため
現在では
史上最悪の作戦
と言われています。


大戦後
ミャンマー(旧ビルマ)では
少数民族による内戦が勃発し
多くの犠牲者がでます。


そんななか
対等な権利や自治権を求め
60年余にわたる内戦を続けてきた
少数民族武装勢力各派を連合体として
ひとつに纏めることに成功します。


纏めた方は日本人の
井本勝幸さん
です。



▲井本勝幸さん(左)と竹田恒泰さん


少数民族武装勢力各派からの恩返しとして
提案されたのが日本兵遺骨収集への協力でした。
70有余年の過去にミャンマーの地で
戦病死された日本兵の方々は
大戦後も継続してきた内戦のために
祖国日本に戻れぬまま今現在も
約4万5千人
が未帰還のままなのです。



過去に向かい未来に繋ぐ美しい日本でありたい。
美しい日本人でありたい。
美しい未来は今を生きる私達に掛かっているのだから。

日本ミャンマー未来会議
代表 井本勝幸 拝



現地では
多くのご遺骨が収集されていますが
日本の国内事情によってその多くが
未帰還のままです。
法律はできたけど予算がつかない。
なぜそんなことになるのか。
今ここで平和に暮らせているのは
先祖先達の皆様のご苦労があってのこと。


詳しくは
日本ミャンマー未来会議の
ホームページをご覧ください。
支援の輪を拡げたい。
ご協力、よろしくお願い致します。

▼日本ミャンマー未来会議




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みたままつり

2019年07月17日 | 歴史日誌


令和元年
靖國神社は御創立150年の節目を迎えました。


靖國神社は
明治2年(1869)6月29日
明治天皇の思し召しによって建てられた
招魂社(しょうこんしゃ)がはじまりです。
明治天皇が命名された「靖國」という社号は
「国を靖(安)んずる」という意味で
靖國神社には「祖国を平安にする」
「平和な国家を建設する」という願いが込められています。


7月16日
靖國神社のみたままつりが終わりました。
昭和22年に始まったみたままつりは
境内に数多くの献灯(みあかし)を掲げて
戦歿者のみたまを慰める夏まつりです。
今年は献灯をさせていただきました。





折しも
京都では祇園祭りの真っ最中。
夏祭りの季節になりましたね。
わたしたちはご神事を
労働
としてではなく
祭り
に昇華した稀有な民族。
ご先祖様、ご英霊の皆様に感謝致します。





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吉田の市入祭

2018年05月05日 | 歴史日誌

▲安芸高田観光ナビ


広島市内から北北東へ
車で約1時間ほどの場所に
安芸高田市吉田町があります。

歴史ファンにはお馴染みの
毛利元就が居城した郡山城が
ここ吉田町にあります。


今年も「吉田の市入祭」が
5月5日に開催されました。
毛利元就の必勝祈願の場所
として知られる清神社。


冒頭の画像のように
京都祇園祭の山鉾をかたちどった
2台のだんじり屋台が吉田の街に繰り出し
子供歌舞伎を上演します。
子供歌舞伎は350年の歴史があり
地域の中学生たちが毎年
その伝統を紡ぐ担い手として活躍します。






ところで
上記地図内にある
「郡山合戦 大内氏本陣跡 其の二 天神山城址」は
「吉田郡山城の戦い」の一角で
こちららも歴史ファンには
割と知られた合戦のひとつです。


天文9年(1540年)から
天文10年(1541年)まで
大内氏に従属していた毛利氏当主
毛利元就と尼子詮久との戦いです。


実は
親戚のお墓が
清神社の裏山にあたる
ここ天神山城址の近くにあり
本日お墓参りに行ってきました。


市入祭で
町は賑やかでしたが
お墓の周辺は静かで
清らかな風が流れていました。


ふと
なにかしら強いエネルギーを
感じましたので思わずスマホで
天神山城址方向を撮影しました。
画像を以下に貼付します。







印象的な光の柱から
祝福のメッセージをいただきました。
5月に入ってから
空気感の変化を頻繁に感じます。

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埃宮(えのみや)続

2018年01月16日 | 歴史日誌
埃宮(えのみや)は
このブログ内で
何度かご紹介しました。


▲link:2015年過去ブログ◎龍が奔る杜−其の八



▲link:2013年過去ブログ◎春の神社めぐり



先日
久しぶりに参拝させて
いただきました。


写真をいくつか
紹介させていただきますね。


その前に
広島市と府中町の位置関係
並びに
埃宮(えのみや)の位置を
確認しておきましょう。



▲府中町は広島市の東北東



▲府中町住宅地の中央に埃宮(えのみや)があります


府中町役場から
埃宮(えのみや)まで
松並木の道を進みます。







進んで行くと
正面から日章旗が
目に飛び込んできます。




日章旗は
境内からみると
こんな感じで
二の鳥居の正面に位置しています。




ちなみに
車の中から撮影した
森にそびえる日章旗の画像は
停まっての撮影が難しかったので
繰り返し4回ほど走って
やっとこさ撮影できました。


さて
二の鳥居から
一の鳥居をみてみます。
階段は結構急なんです。




過去ブログにおいても
境内の清々しさと
神々しい光が降り注ぐ画像を
アップしました。


いつ訪れても
やはりその神々しさを
体感することができます。














今回は
複数の画像をアップしましたが
埃宮については今後
ちょっと違う角度から
紹介させて頂こうと
思っています。

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埃宮(えのみや)

2018年01月12日 | 歴史日誌

▲サン・ピエトロ広場と大聖堂


バチカンは
イタリアに国境を接する
国土面積0.44㎢の
世界最小の国家です。



人口は819人(2014年現在)で
国土は狭いながらも
人口密度は1865人/km2と
日本の都市では
熊本市と同じ規模の密度です。



ちなみに
自治体別の人口密度調査では
1位は東京都豊島区で、実に
22,887人/km2です。(2017年現在)



▲第266代ローマ教皇フランシスコ(2013年~現在)


バチカンは
ローマ教皇庁によって統治される
カトリック教会の中心地
つまり「総本山」
ということになりますね。


なお
バチカンの位置関係ですが
ローマ市内にポツンと浮かぶ
点のような存在です。


▲バチカンの位置


▲バチカン地図



ところで
広島県内には
広島のバチカン
と呼ばれる町があることを
ご存じでしょうか。



▲Link:「広島のバチカン」こと府中町が広島市との合併を拒む理由(2015年Jタウンネット広島県)



▲広島県安芸郡府中町の位置


バチカン、府中町とも
正確には
包領(ほうりょう)
と呼ばれる、ある1つの別の領域に
四方を完全に囲まれた領域で
ウィキペディアによると
日本では1991年以降
府中町のみの
表記になっています。



▲Link:包領(ほうりょう)ウィキペディアより




ちなみに
先の人口密度について言えば
府中町は4905人/km2で
全国第2位の
高密度の町です。





さて
バチカンに
サン・ピエトロ大聖堂があるように
府中町には
霊験あらたかな
埃宮(えのみや)
があります。



▲Link:埃宮(えのみや)ホームページ



埃宮(えのみや)については
これから数回にわけて
紹介いたします。





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皇居

2018年01月10日 | 歴史日誌


1月2日
皇居で行われる
お正月の一般参賀。


午前3回、午後2回の計5回で
12万7千人が参賀に訪れました。
平成に入って最多だそうです。
譲位まで1年4カ月。
陛下に対する
国民の感謝の念が伝わってきます。


ところで
現在の皇居ですが
徳川幕府の居城(江戸城)であったものが
明治元年に皇居となりました。


しかし
明治21年からは
宮城(キュウジョウ)
と称されました。
それは
取りも直さず皇居は
京都御所
であったからです。



▲京都御所全図



ちなみに
昭和23年、宮城の名称が廃止されて
現在の場所が
皇居と呼ばれるようになりました。


さて
その京都御所ですが
宮内庁のホームページによると
下記の日程で一般に
公開されています。



▲link:宮内庁ホームページ


堀や櫓のない
極めて脆弱な防衛状態で
なぜ1200年余りもの歳月を
京都の地で
刻むことができたのか。


国民として
そのことを
考えずには
おれません。


京都に行かれる際
お訪ねになってみては
いかがでしょうか。



▲堀や櫓のない宮殿「京都御所」






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春日移し

2018年01月09日 | 歴史日誌

▼Link:春日大社HP


春日大社は
中臣氏(のちの藤原氏)の
氏神を祀るために
西暦768年に創設された
奈良県奈良市にある神社です。


いわゆる
「奈良時代」
を象徴する建物のひとつで
今年は創建1250年の
節目の年にあたります。


全国に約1000社ある
春日神社の総本社で
武甕槌命(タケミカヅチノカミ)が
白鹿に乗ってきたとされることから
鹿を神使としています。


ユネスコの世界遺産に
「古都奈良の文化財」
の1つとして登録されていて
近年海外からの観光客が
増えているようです。




▲神戸六甲八幡神社境内:1

ところで
先日、神戸市灘区にある
六甲八幡神社にご縁をいただき
お詣りをさせていただきました。


その境内の清々しさと
隣接する森から立ち上る
深淵なエネルギーを感じ
しばし絶句!


感謝の念を捧げつつ
失礼ながらスマホで
撮影をさせていただきました。


当日は
降雨の曇天にもかかわらず
境内はとても明るく
その清らかさが
伝わると思います。



▲神戸六甲八幡神社:2


▲神戸六甲八幡神社:3



調べてみると
どうやら
このお宮さんの本殿は
「春日移し」
によるものとわかりました。



春日移し(かすがうつし)とは

“春日大社の20年に一度の
式年造替において
建て替えられた旧社殿を近隣や
関係の深い神社に下賜し
移築していた習わしのこと”

とウィキペディアに
記載されています。



ちなみに
神戸六甲八幡神社は
天明6年(1786年)移築
嘉永6年(1853年)修復
されています。
兵庫県では唯一の
春日移しによる神社です。



▲Link:春日移し(ウィキペディア)



同じ近畿圏とはいえ
奈良県から兵庫県まで
今日でもずいぶんと
時間が掛かります。


どれくらいの
人と時間と費用をかけて
この地まで運んだのか?
移設にかけた
その思いとは
如何なるものであったのか?


ご先祖
皆々様のご苦労は
はかり知れませんね。


◎感謝
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元号

2018年01月06日 | 歴史日誌

▲link:真相深入り虎ノ門ニュース


インタネットニュース
「真相深入り虎ノ門ニュース」の
1月2日新春特番は
明治天皇の玄孫である
竹田恒泰さんを講師に迎えて
天皇陛下に関する諸々の話題が
展開されました。



2時間に渡る番組の中で
最も興味深かったのは
「元号」
に関する場面でした。



日本の元号は
西暦645年
「大化」を初めとして
今日の平成まで
連綿と続いています。



従って
元号を制定するにあたっては
歴史と伝統があり
当然のことながら
いくつかのルールが
決められています。



たとえば

①一度使われた元号は×
②中国やベトナムで使われた元号は×
③音や響きが悪く、発音がしにくいものは×
④ローマ字表記の頭文字がダブらない


などなど
聞いてみればなるほどなぁと
感心させられます。


その上で
複数の中国古典文学者が
議論をして
絞られていきます。



ちなみに
「平成」については幕末
文久(ぶんきゅう)の
次の候補として
上がっていたようです。



さらに言うと
「昭和」については
過去一度も候補に上がっておらず
比較的順調に決まったとのこと。




以上のような経緯を踏まえ
竹田恒泰さんが
新元号について
以下、11の案を紹介されました。
竹田さん曰く
以下から選ばれる確率は

80%

だそうです。




安延/あんえん
永明/えいめい
安化/あんか
永光/えいこう
建和/けんわ
建安/けんあん
弘栄/こうえい
文承/ぶんしょう
安長/あんちょう
弘徳/こうとく
文弘/ぶんこう




個人的には
「建和」「弘徳」
の音の響きが良いと感じました。
頭文字はどちらも「K」です。


元号は
これから
ますます話題になるでしょうね。
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記念艦「三笠」

2017年01月04日 | 歴史日誌

▲戦艦「三笠」のブリッジで日本海海戦の指揮を執る東郷平八郎ほか。東城鉦太郎画『三笠艦橋之圖』



日本の近代史において

最も有名な史実のひとつに

日露戦争における

「日本海海戦」

があげられます。




日露戦争は

ロシア帝国の極東進出によって

始まりました。





明治37年(1904年)2月8日から

明治38年(1905年)9月5日のあいだ

朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と

日本海を主戦場として発生した戦争です。




アメリカ合衆国の仲介の下で

ポーツマス条約により講和が締結されました。

講和の結果

ロシア領の南樺太は日本領となり

樺太庁が設置され

ロシアの租借地があった関東州に

日本の関東都督府が設置されました。

歴史の教科書では

この戦争がロシア帝国の崩壊と

共産主義を加速させた原因になった

とも記載されています。



▼日露戦争後の日本領





ところで

5月27日から5月29日にまでわたった

日本海海戦では

ロシアはバルチック艦隊の艦艇の

ほとんどを失ったのみならず

司令長官が捕虜になるなど

壊滅的な打撃を受けました。





これに対して

日本の連合艦隊は喪失艦がわずかに

水雷艇3隻という

近代海戦史上においても例のない

一方的な圧勝に終わりました。





この事実は

トルコのようにロシアの脅威にさらされた国

ポーランドやフィンランドのように

ロシアに編入された地域のみならず

イギリスやフランス

アメリカやオランダなどの

白人国家による植民地支配に甘んじていた

アジア各地の民衆を熱狂させました。





さて

日本海海戦において

連合艦隊司令長官が座乗した

フラッグシップ(旗艦)「三笠」は

現在、横須賀市の三笠公園において

記念艦として保存されています。





1月2日の皇居一般参賀終了後

三笠公園まで足をのばし

乗艦してきましたので

以下に画像をご紹介します。







まずは

JR横須賀駅に隣接した

海上自衛艦の様子です。

波が穏やかで

広島県呉市の海上自衛隊基地を臨む

「アレイからすこじま」と

同じ印象を受けました。



▼海上自衛隊ヘリ空母「いずも」



▼海上自衛隊イージス艦






さて

JR横須賀駅から

「三笠」が保存されている三笠公園までは

京浜急行バスで約10分。(180円)

ただ

バス停から公園までは

徒歩10分以上かかるので

時間に余裕がない方は

タクシーの利用をおすすめします。


▼三笠公園正面の東郷元帥銅像




▼「三笠」全景




▼見学コース案内図


▼最上艦橋から艦首を臨む


艦首から最上艦橋を臨む


▼東郷司令長官の指揮所に埋まる最上艦橋の記念プレート


▼青天に浮かぶ「Z旗」


▼「Z旗」案内



下の画像は

日本海海戦後、凱旋帰国した際に

撮影されたとされる有名な写真です。




中央の東郷司令長官の胸には

長官位のバッジのみで

背中を少し丸め

意図的にカメラから

視線を外しています。





この写真から

多くのことが伝わってきますね。








見学当日

「三笠」の上空には

太陽の光を受けてキラキラと輝く

キレイな雲が浮かんでいるのが

とても印象的でした。





年初にあたり

偉大な先人の息吹に

触れることができました。






◎感謝
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