エコでピースな市民のひろば

『ひとりの百歩より百人の一歩』をスローガンにライフスタイルやスピリチュアル系情報を交換するWebひろばです

宇津神社/うつじんじゃ

2015年12月29日 | 歴史日誌



みかんの美味しい季節になりました。



この時期は

こたつでみかん

が定番ですね。






最近

広島県呉市倉橋町の

いしじみかん

が美味しいブランドとして

認知されてきました。




以前

広島のみかんといえば

大長(おおちょう)

といわれる時代がありました。



▼呉市豊町観光協会HP




ちなみに

大長は愛媛県の岡村島と

呉市豊島(とよしま)に挟まれた

大崎下島にあります。


▼地図内(1)が大長地区




八百屋さんやスーパーの果物棚は

かつては県内産のみかんが

ほとんどを占めていましたが

このところ他県産のものを

ずいぶんとみかけるようになりました。




それもそのはずで

広島みかんの全国シェアは3%あまりで

全国では8番目に位置しています。







さて

年末の慌しい時期にもかかわらず

あまりの天気の良さに

ドライブがてら大長まで行き

宇津神社
(うつじんじゃ)

に参拝させていただきました。




磁場の良い場所らしく

お日様の光がキレイに映り込みます。


▼参道



▼参道から撮影



▼宇津神社拝殿



▼拝殿に隣接する忠賢社



▼由緒




由緒によると

災難の源である罪やけがれを祓い

心身を清める神々を祭ると謳われています。




あわせて

武運長久・諸願成就の守護神として

各時代の武将により手厚く保護されても

いたようです。



愛媛県大三島の

大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)

の末社にあたり

また海上交通の要所でもあったため

かつては全国からかなりの参拝者が

いたようです。




ご鎮座は

2100年以上前と言われています。



▼境内にある「従軍戦功記念碑」




ところで

大崎下島には


御手洗
(みたらい)


という

昔ながらの古い町並みを保存している

特別な地区があります。




無料駐車場や

モデルコースもあり

江戸風情を味わうことができるようです。



▼御手洗マップ(クリックするとPDFファイルがダウンロードできる頁にアクセスします)





次回

こちらを訪れてみたいと思います。




◎感謝
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阿川弘之さんをしのぶ

2015年11月25日 | 歴史日誌

▲阿川弘之さんを「しのぶ会」(Youtube)





今年8月に94歳でお亡くなりになった小説家

阿川弘之さんを「しのぶ会」が

11月24日(火)に

東京帝国ホテルで営まれました。



「日本李登輝友の会」のホームページによると

会の正式名称は

阿川弘之氏お別れの会

とのこと。

その案内を以下にリンクしました。



▼日本李登輝友の会(Link)







ウィキペディアから

阿川さんの経歴を一部引用します。


**************************************
1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。
**************************************




経歴の中で

諜報作業担当

とありますがこれは主に

暗号の解読にあたる職務だったようです。



その際

中国の暗号のほとんどは

解読されていたものの

アメリカの情報については

不明なものが多かったようです。




しかしながら

アメリカ軍の爆撃情報の詳細は掴んでいたらしく

爆撃機B-29の機体識別番号や

それに伴う作戦情報は

海軍で把握していたそうです。



ところが

その機体識別番号の中で

不明なものが

3機

存在していました。




そのうちの1機は

広島に原爆を投下した

エノラゲイ

だったのです。




つまり

その作戦内容は不明なままでしたが

当時の海軍は

不明機が何らかの作戦行動に使用されることを

事前に掴んでいたということになります。







焼け野原になった地元の広島に戻り

その破壊力の凄まじさに

あらためて戦争の悲惨さを感じます。

焼け落ちた

白島九軒町(はくしまくけんちょう)

の実家から京橋川を隔てた隣町の牛田で

戦後のしばらくを過ごされました。




さて

阿川氏は

先の大戦でともに戦い

亡くなった同世代に対する思いが

とても深かったように感じます。



したがって

戦後の

“戦没者は無駄死”

とする風潮に強く反発されました。

そのことが

戦争を題材にした作品執筆の

原動力となったのでしょう。




海軍大将を描いた

「山本五十六」
「米内光政」
「井上成美」


の提督3部作は

伝記としても小説としても

読み応えのある作品です。




ちなみに

小説「米内光政」については

過去ブログ「ジパング2」で

紹介させていただきました。


▼過去ブログ「ジパング2」(Link)






「私は右翼も左翼も嫌い」と語り

イデオロギーに囚われない

中庸のバランス感覚と

ユーモアを愛した人。





日本人は今



なぜ戦争に突き進み

敗戦に至ったか


戦後の復興とは何であったか


祖国とは何か



など

一個人として考えなければならない命題を

阿川さんの作品から

突きつけられていると思います。




ご冥福をお祈りいたします。







◎合掌

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宮詣

2015年11月15日 | 歴史日誌

▲須佐之男命。歌川国芳作


出雲へドライブ旅行中のツレアイから

須佐神社

の画像が送られてきました。

出雲大社からの帰り際に

立ち寄ったとのこと。



須佐神社は

全国に数多くある

須佐之男命(すさのおのみこと)

ゆかりの神社の中で、唯一御魂を祭るとされる

由緒正しい古社です。

近年、テレビや雑誌などで

日本一のパワースポット


などと紹介されたため

にわかに注目を集め

参拝客が増えているようです。



▲須佐神社



ちなみに

広島県内には

三次市に「須佐神社」

福山市に「素盞雄神社」

があります。



須佐神社
*****************************************
住所◆島根県出雲市佐田町須佐730
電話◆0853-84-0605
URL◆http://www.susa-jinja.jp/index.html
アクセス◆JR出雲市駅から車で35分
一畑バスで40分「出雲須佐」下車、車で5分
*****************************************




さて

今日は

七五三

のお祝いをされた方もいらっしゃたのでは

ないでしょうか。






そもそもこの行事は

関東地方で行われていた

地方風俗だったらしいのですが

子供の成長を祝って神社・寺などに詣でる

全国的な年中行事になったようです。



起源は

天和元年11月15日(1681年12月24日)に

江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男の

徳松の健康を祈って始まったとされています。

330年余り前から行われていることに

なりますね。



氏神様の

牛田早稲田神社は日中

ご両親と小さな子どもたちで

賑やかでした。



▲早稲田神社表参道



▲いつもは閑散としている参道が今日は賑やか


▲鳥居から拝殿を臨む


▲拝殿


▲ハチくんはいつも御神木の前で待機



秋晴れに恵まれて

気持ちよい宮詣に

なったことでしょう。


◎感謝
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平家と剣山

2015年08月01日 | 歴史日誌

▲剣山



剣山は徳島県の

・三好市東祖谷
・美馬市木屋平
・那賀郡那賀町木沢

の間に位置する
標高1,955mの山です。

日本百名山の一つに選定され
西日本では石鎚山に次ぐ標高です。



▲剣山MAP



さて
徳島県三好市の祖谷(いや)には
幼い安徳天皇(あんとくてんのう)と
平教経(のりつね)
平国盛(くにもり)一行がこの地に逃れ
平家再興の望みをつないだという
『もうひとつの平家物語』
が語り伝えられています。



▲安徳天皇(1178年12月22日~1185年4月25日)



1184年の壇ノ浦の戦いに敗れ
幼い安徳天皇も祖母である二位尼に抱かれて
海に身を投げたといいます。


しかし、壇ノ浦で亡くなったといわれる
安徳天皇も平国盛も、実は影武者だったのでは
ないかとも言われています。


▲屋島の戦い絵図


屋島の戦いで敗れた後
平国盛・教経の一行は
ひそかに幼い安徳天皇をお守りしながら、
この祖谷の地にやって来ました。
そして
山深い祖谷の地で
平氏再興の望みをつないでいたといわれています。


ちなみに
源氏の討手が祖谷の地に迫ってきたとき
敵の侵入を防ぐために
いつでも切り落とせるように
蔓を束ねて橋を造ったのが
「かずら橋」
といわれています。
今は地元の観光資源になっています。



▲かずら橋



ところで
安徳天皇は平氏の再興を願って
三種の神器のひとつである
天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)
を山に納めに行きました。
このことが
山名「剣山」の基になっています。




剣山山頂近くにある
「平家の馬場」
と呼ばれる草原では、
平氏の武者たちが源氏との戦いに備えて
馬乗りや武術の稽古をした
といわれています。


▲平家の馬場


▲馬場に横たわる筆者


さて
剣山の麓に
落合集落
という町があります。


▲落合集落


集落の起源は明らかになっていませんが
平家の落人伝説や
開拓伝承などが祖谷地方には残っています。
集落内の高低差は約400mで
急傾斜地に集落を形成しています。
平成17年には
国の重要伝統的建造物群保存地区に
選定されています。



▲栗枝渡神社


実はこの集落に
安徳天皇を祀ったといわれる
『栗枝渡神社』
(くりしどじんじゃ)
があります。
安徳天皇は
御歳7歳までこの地で成長され
悪病で崩御されました。
遺体をこの神社で火葬にふし
ご遺骨をご神体として祀っています。
毎年
旧暦8月15日には秋祭りが行われています。



▲境内立看


▲栗枝渡神社MAP(Link)



なお
「日本とユダヤのハーモニー」さんブログに
剣山や栗枝渡神社のことが
詳しく書かれていますので
シェアさせてもらいます。


▲日本とユダヤのハーモニー(Link)




◎感謝
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いちょう小径

2015年06月21日 | 歴史日誌

▲安楽寺の大イチョウ


安楽寺は
天文2年(1533年)に現在の場所である
広島市東区牛田本町に建てられました。
宝歴8年(1758年)の広島城下の大火で
一度焼失しましたが、天明8年(1788年)
本堂が再建されています。


爆心地から2.19キロメートルで被爆。
本堂や山門は骨組みだけとなり、
庫裡も倒壊してしまいました。
同寺の
木造如意輪観音菩薩坐像
(もくぞうにょいりんかんのんぼざつざぞう)
は広島市の重要有形文化財に
指定されています。



安楽寺には
樹高20m、幹周4.55mのイチョウがあります。
爆心地から2160mで被爆した、被爆樹木です。
原爆により幹を残して焼失してしまった
イチョウですが、翌年、枝から芽吹き、
周囲の人々の勇気の源となりました。
大きく育つ老木の幹には
今でも焼け跡が残っており
当時の悲惨さを伝えています。





ところで
安楽寺前をはしる道路に
「いちょう小径」
という名称が与えられました。
由来に関する説明板も設置されています。







ちなみに
イチョウに関する話題では
過去ブログで安芸太田町筒賀(つつが)の
大歳神社の話題を紹介しています。


▼過去ブログ/龍が奔る杜-其の四(Click!)



あわせて
安楽寺の話題も
「二葉山の光」というタイトルで
過去に一度取り上げたことがありました。


▼過去ブログ/二葉山の光(Click!)



さて
夕方のハチくんとの散歩で安楽寺まで
足を伸ばしました。
いつもは大して気にならないものの
今日は以下の張り紙に
何かしらメッセージを感じてしまいました。





真実の私とは
私自身にはわからないものである



言い切ってしまわれると
ますます「私」に執着してしまう
今日この頃です。




◎感謝
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紫苑/sion

2015年05月13日 | 歴史日誌


広島市中区十日市に
昭和の香りが漂う
老舗の喫茶店があります。

「紫苑」
しえん


です。
ついこの間まで

シオン

とばかり思っていました。
少し古い町に行くと

「喫茶紫苑」
「ホテル紫苑」

を見かけることがありますが
店内はやはりレトロで懐かしく
何となく落ち着いてしまいます。


▼紫苑店内



さて
シオン(紫苑)は植物で
キク科シオン属
別名ジュウゴヤソウ(十五夜草)と呼ばれる
環境省レッドリスト
絶滅危惧II類(VU)の多年草です。






根や根茎に去痰作用、利尿作用があり
生薬名も植物名と同じく紫苑(しおん)で
漢方薬にも使われています。


ちなみに
花言葉は

「君の事を忘れない」
「遠方にある人を思う」


です。



ところで
エルサレムに
「シオン」と呼ばれる場所があります。
英語ではザイオンと発音するようです。

「シオニズム」
の意味するところは
“シオンの地に帰る”
という事です。

▼シオンの丘



「シオン」は違えど
イスラエルの人々は
まさに花言葉の
「君の事を忘れない」
を実現したんですね。


イスラエル建国の父
ダヴィド・ベン=グリオンが
テルアビブ美術館で独立宣言を読み上げました。


▼ダヴィド・ベン=グリオン(TIME誌表紙)


「エレツ・イスラエル(イスラエルの地)は
ユダヤ人誕生の地である」

という書き出しから始まる
この宣言が読み上げられた後
ユダヤ人国家
「イスラエル」の独立が宣言されたのは
今から
67年前の明日

1948年5月14日のことでした。


▼テルアビブ美術館(当時)



失った国家を
再び建国した例はイスラエル以外に
ありません。


国家とか何か
建国とは何か



5月14日は
大きな変化の予感とともに
それらをあらためて
考える日になるでしょう。


◎感謝
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ジパング-2

2015年05月11日 | 歴史日誌

▲米内光政(よないみつまさ)氏

米内光政氏
<明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日>は
日本の海軍軍人で政治家。
最終階級は海軍大将。
位階は従二位。勲等は勲一等。功級は功一級。
第23代連合艦隊司令長官。
第39・40・41・49・52代に海軍大臣を務め
第37代の内閣総理大臣でもあります。

この方を題材にした作品はたくさんあります。
オススメは地元出身の阿川弘之さんの小説です。




さて
重職を歴任された米内氏ですが
数々のエピソードを残して
いらっしゃるようです。

たとえば
戦後の日本の進路に関して
「科学技術を振興して行けば
日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが
出来ると思います」
と語る輩に

「国民思想は科学技術より大事だよ」

と大声をだしたといいます。

「日本が本当に復興するまで二百年かかる」

とも述べたとされています。



また米内氏は
長身で日本人離れした風貌と合わせ
非常に温厚な性格であったので
女性によくもてたようです。
特に花柳界では
山本五十六氏とともに圧倒的な人気があった
とのこと。


▲山本五十六氏


ちなみに
長男の剛政氏は父の死後、
愛人だったと称する女性にあちこちで会ったり
戦争中、主計士官として赴任中上官が
年老いた芸者を連れてきたかと思ったら

「こいつは貴様の父上の馴染み芸者だ」

などと言われたりして
困ったというエピソードもあります。

佐世保鎮守府長官退任の際
佐世保駅周辺には見送りに訪れた芸者で
黒山の人だかりができたといわれています。




ところで
アニメーション『ジパング』の第25話に
米内光政氏が登場するシーンがあります。
突如第26話で打ち切りとなりましたので
このシーンが何らかの影響を与えたのかも
と感じてしまいます。


イージス艦「みらい」の艦長・副艦長を前に
米内光政氏は以下のように語ります。


*********************************************
日本人が帝国主義などと100年早い。僕はそう思っている。山本(五十六)や日下という若い士官、それに陸軍の石原くんにも困ったものだ。僕も船乗りだ。船を愛する気持ちはわかるが貴艦にはこの横須賀のドックで朽ち果てて鉄屑になってほしい。
戦後日本国民は国の進路と舵取りを誤らなかった。あなたがたにお会いしてよくわかった。それだけで十分です。

日本国百年の計にとってこの戦争は勝ってはならんのです。どれほどの犠牲を払ってでも。古来戦に勝って国が衰亡した例は少なくない。逆に戦に敗れて興隆した国はあまだある。あなたがたに接しているとそのことがよく分かります。日本は今、蜃気楼をみている。身にあわぬ帝国主義という衣を着るために軍部独裁の流行に踊っているのだ。目が覚めねばいずれ滅びる。敗戦という現実でしかその目は覚めないと僕は思う。

残念ながら日本人はわが手でわが身を切り裂き、血を流してでも膿を出し切れるほど強くはない。だからこそ外圧という力をいつの時代も利用してきたのです。この戦争の犠牲、100年後の日本に活きる。
*********************************************



▼ジパング第25話/Youtube



昭和8年(1933年)
佐世保鎮守府司令長官時代
水雷艇「友鶴」の乗組員が犠牲になった転覆事故
「友鶴事件」が発生しました。

この時
査問委員会の一人である
森田貫一機関中将が米内を訪ねた際

「これは日本海軍の根幹に関わることだ。
僕はどうなってもいいから
本当のことをしっかりやってくれ」

と言われ感服したそうです。


▲竣工時の「友鶴」


「偉い人だ。米内さんが職を賭して
徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。
役人根性むき出しで責任回避をはかり
うやむやにしていたら
日本海軍は大変なことになっていただろう」

と話したといいます。

正義感と正しい歴史観を持った良識ある人物
米内光政。

今の時代
お手本にしたい
貴重な人物のおひとりですね。


◎感謝
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ジパング

2015年05月10日 | 歴史日誌


『ジパング』は
漫画家かわぐちかいじさんの作品。

平成12年(2000年)から平成21年(2009年)
にかけて講談社の『モーニング』に
連載されました。

平成14年(2002年)には
第26回講談社漫画賞一般部門を受賞されました。
また
平成16年(2004年)10月7日から
漫画を原作としたアニメーションが
TBSほかで放送開始されましたが
どういうわけか突如
全26話で放送を終了しました。

ちなみに
漫画家
かわぐち かいじさん
(本名:川口 開治、男性、1948年7月27日生まれ)は
広島県御調郡向東町(現・尾道市)のご出身です。



昭和43年(1968年)に『ヤングコミック』に
掲載された「夜が明けたら」でデビュー。
『ジパング』以外の代表作に
『アクター』『沈黙の艦隊』『太陽の黙示録』
などがあります。



さて
今日のブログテーマ『ジパング』のあらすじを
ウィキペディアより引用します。

*******************************************
西暦200X年の6月。日米新ガイドラインの下での海外派遣によりエクアドルへ向かう海上自衛隊の自衛艦隊のイージス艦みらいはミッドウェー沖合で突如嵐に巻き込まれ落雷を受ける。その直後からレーダーからの僚艦喪失、送受信機の故障ではない衛星通信の不通、突如の降雪という不可思議な現象に直面する。そして戦艦大和以下大日本帝国海軍連合艦隊に遭遇したことによりミッドウェー海戦直前の1942年6月4日の太平洋上にタイムスリップした事が判明する。

異常事態の中、みらい副長 角松洋介は、撃墜され水没しつつある零式水上観測機の後席から自ら救助した帝国海軍通信参謀 草加拓海少佐に未来世界の情報を公開したことから、みらいは徐々に変化してゆく歴史の流れに巻き込まれて行く……。
*******************************************



▲「みらい」のモデルとなったイージス艦


アニメーションは
漫画版とは一部のシーン・ストーリーが
変更になっています。
実は海上自衛隊の
現職自衛官が制作に携わっているため
不自然な場面や自衛官・自衛隊を軍人・軍隊と
称する台詞はアニメでは修正されています。
さらに
吹き替えにも現職自衛官が立会い
セリフなどの不具合を修正しています。

とにかく
ジパングは本格的な
“自衛隊アニメ”
と言っても過言ではないでしょう。

たとえば
戦闘シーンなどは
アニメーションといえども
緊迫感が伝わってきます。

▼第21話「1対40」


▼第23話「ワスプ撃沈」/Youtube



この
アニメーション作品の中で
未来の日本を示唆している
注目のシーンがあります。


憲法改正が叫ばれる昨今
日本にとって太平洋戦争とは何だったのか?
軍隊、自衛隊とはどうあるべきなのか?
考えるヒントが作品の中にあります。



次号につづきます。

◎感謝
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憲法週間

2015年05月07日 | 歴史日誌


5月1日から今日
5月7日までは
「憲法週間」
でした。

最高裁判所・法務省などが
昭和25年(1950年)に
「憲法記念週間」として制定。
その後
昭和31年(1956年)に
「憲法週間」に名称を変更しています。



冒頭の画像は
「あたらしい憲法のはなし」
の中の挿絵のひとつです。
戦争放棄を現したものです。

この中で
国際平和主義について
以下のような記述があります。
民主主義と平和主義は
等価であると謳っています。

********************************************
これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。
********************************************



また
「天皇陛下」
について書かれた章には
以下のような記載があります。




********************************************
これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。
********************************************



昨今
憲法改正論議が活発になっています。
最高法規である憲法を
時代の現状に合わせていくことは
とても大切なことです。

あわせて
憲法のもつ精神を
あらためて感じてみることも
大切にしたいと思います。


ところで
5月2日(土)にTBS系列で放送された
「報道特集」で
アメリカ人の歴史研究家
ジョン・ダワー氏が
戦後70年について
様々なコメントを発信しています。


▼TBS「報道特集」/ Youtube(23:41)



ちなみに
ロイヤルベビーや総選挙のニュースが
マスコミを賑わしているイギリスですが
実は
成文化された憲法を持っていません。
国によって
憲法に関する考え方は様々のようです。


今一度
日本国憲法を
読み返してみました。
憲法前文の一部を添付します。


********************************************
(前略)日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(後略)
********************************************



◎感謝
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五つ神社

2015年04月02日 | 歴史日誌

▲五つ神社本殿


由緒は不明ですが5つの祭神を持つことで
その名がついたとされる神社が
広島市佐伯区五日市にあります。

五つ神社です。




この神社の建つ場所は
旧西国街道沿いで
老松とともに古い街並みが残り
当時の風情が生きています。




現在の地名である五日市の
出自になったとも言われ
室町時代からの定期市の中心地に
なっていたようです。


境内は15坪ほどもあるかどうか。
車だとおそらく気付かず通り過ぎてしまいます。
たまたま自転車で通りかかったことで
ご縁をいただきました。





小さな境内に似つかわしくない老松からの
力強いエネルギーには驚かされました。



西国街道沿いには
知られていない古い遺跡が
案外とたくさん見つけることができます。

引き続き
ご案内させて頂きますね。


◎感謝
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己斐の歴史-3

2015年03月02日 | 歴史日誌


さて
「己斐の歴史」も
第3弾になりました。


前回のつづきから。。。。。



不思議なオーラを感じる山に向かって
自転車を漕いでいましたら
山中にそびえるクスノキの大木が
目に飛び込んできました。





クスノキを目印に
草が生い茂る
ヒト気のない階段を登りきると
セメントで固められた斜面の奥に

ちいさな祠(ほこら)

がありました。




調べてみて分かったことですが
ここは
先のブログ
「己斐の歴史」で紹介した
通玄山への入り口にあたる

「通玄山観音堂」
(つうげんやまかんのんどう)

と呼ばれている場所でした。

ここが
観音堂だとわかるような表示は
入り口周辺には何もありません。

当日は
曇り空で
あたりは暗くどんよりと
していましたが
観音堂のあるこの場所は
明るく空気も清浄でした。








五輪塔や石仏、手水鉢など
ヒトが管理している形跡があります。
頻繁ではないにせよ
心配りをされている方が
いらっしゃるようです。
由諸は定かではありませんが
歴史を感じる場所です。


▼上空から



祠のある一帯は
大規模な住宅開発のため
かつてここが
山であった雰囲気は消えています。

しかし
セメントや金網が使われていても
この場が残されていることに
己斐の歴史の深さを
感じてしまいます。


大切にしたい場所が
またひとつ増えました。



◎通玄山観音堂
*********************************************
住所:広島市西区己斐上1丁目3-26周辺
交通:広島電鉄(ボンバス)紅葉園バス停徒歩2分
JR西広島駅徒歩16分
*********************************************

◎感謝
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▼Click!!************************************
人生を変える講演会
「赤峰勝人循環農法」
平成27年3月14日(土)13時~16時
広島市中区ゲバントホール
*******************************************

己斐の歴史-2

2015年03月01日 | 歴史日誌


3月になりました。
春の予感ですね。

今日朔日は
大安の日曜日。

多くの高等学校で
卒業式が執り行われたようです。

ご卒業おめでとうございます。

さて
今回の話題は
「己斐の歴史」第2弾です。

▲八幡川トンネル放水路(赤線)

いつものように自転車で
己斐の町ナカを流していましたら
いつも通っている道路の東斜面に
大きな石碑を発見しました。

石碑には
“八幡川放水路”
(はちまんがわ ほうすいろ)
と刻まれていました。



広島で
放水路というと
まず
“太田川放水路”
(おおたがわ ほうすいろ)
が浮かびます。
トップ画像の右側の河川が
それにあたります。



昭和2年(1927年)
内務省により太田川全流域の
改修計画が作成され
国営工事として
山手川と福島川を利用した
放水路の開削が決定しました。



昭和9年(1934年)から
本格的な工事が着工されましたが
昭和20年(1945年)8月の
原爆の影響もあって完成は
昭和42年(1967年)になりました。
33年に渡った大事業です。


さて
広島は川の町です。
狭い平野部に流れ込む水で
しばしば水害に見舞われました。
己斐の八幡川においても同様で
石碑にはめこんである銅版には
以下のように記載されていました。



*****************************************
八幡川トンネル放水路事業経緯
当己斐地区はその昔地元民が神功皇后に
鯉を献上した折り皇后が「コイ・コイ」と
声を上げて喜ばれた事に
由来すると伝えられる。
また古くから植木・盆栽・花の町として
知られ栄えてきた。
しかし
近年住宅地として急激に開発が進み
その結果川口部に於いて
浸水等の被害が頻発してきた。
最近では1972(昭和47)年の台風で
西広島駅の西側一帯が浸水被害を受け
地域住民から同河川(八幡川)の改修について
つよく要望が出されていた。
しかしながら河口部付近には
市道・山陽本線及び私鉄(広電)等の
公共施設が集中するとともに
一般家屋も密集しており、その為広島県は
それらを浸水等の被害から守るため
上流部で流量を制限し
バイパストンネルで太田川放水路へ
直接放流することを決定し、1977年から着工
約11年の歳月と67億円の工事費を投じ
1989年(平成元)年に完成した。
事業に協力して頂いた地元関係者
及び工事関係者に対し深く感謝する。

1989(平成元)年6月吉日 広島県
*****************************************

▼放水路全景(正面建物はスーパー)


▼スーパー側から放水路方面を臨む


ところで
上記の画像を撮影した時
こんもりとした山が妙に
気になりました。
先のブログ
「己斐の歴史」で紹介した
通玄山の方向に何やら
不思議なオーラーを感じましたので
登ってみることにしました。

すると
クスノキの大木が見える場所が
すぐに目に飛び込んできました。
さて
ここが山への入り口でしょうか?








山登り
次回につづきます。

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己斐の歴史

2015年02月28日 | 歴史日誌
平成27年も
今日で2カ月が終了です。
明日から3月ですね。


さて
先のブログで
庚午(こうご)という町の
歴史を取り上げました。

60年に一度訪れるこの年回りには
色々なできごとがあったようです。

画像をClickすると記事に飛びます。
▼庚午の歴史


▼庚午の歴史その2


ところで
庚午の北側に位置する場所に

「己斐」
(こい)


という町があります。



広島の出身者以外で
この町を
「こい」
と読める方は少ないと思います。


歴史によると
己斐は
鎌倉時代以来の歴史ある地名で
その由来については
いくつかの説があります。


一つは
神功皇后が
長門の熊襲(くまそ)族征討に際して
この地に立ち寄ったとき
“大きな鯉”
を献上したので
「鯉村」(こいむら)と称したというもの



また
山間の村を意味する
「峡村」(かひむら)が
変化したというもの。

画像の赤丸が
己斐の町ですが
狭い谷に住宅が密集しているのが
わかりますね。


さらに
古くは「許斐」
とも書いたことから
筑前宗像の
「許斐神社」
(このみじんじゃ)
と何らかの関係を有するというもの。



(ウィキペディアより)


実は
昨年5月のブログ
「龍が奔る杜◎その参」
(↑Clickすると記事に飛びます)

においても己斐をご紹介しました。



その際は
旭山神社(あさひやまじんじゃ)
を取り上げましたが
今回は

「通玄山」
(つうげんやま)

をご紹介します。




通玄という言葉には
“禅の極地”
という意味があります。

晩年を己斐の地で過ごした
広島藩士、寺西織部信之が
黄檗宗
(おうばくしゅう)
の開祖である
隠元禅師
(いんげんぜんし)
の通玄山という書を
禅門の師を通じて得て
岩に彫刻したものであると
言われています。

黄檗宗は
日本における仏教の宗派であり
臨済宗、曹洞宗に次ぐ
禅宗の一つです。

▼隠元禅師


ちなみに
隠元禅師は
中南米原産のマメ科の作物を
日本に持ち込みました。
「インゲンマメ」
は彼の名前が基になっています。




さて
ある日の昼下がり
己斐の高台を
チャリンコで流していましたら
町並みに不釣合いな
岩が目にとまりました。



住宅地内にあるためか
一部コンクリートの壁で
補強してあるようですが
ここがかつて
山中であったことは
その容姿から伝わってきます。




岩を囲むフェンスには
随分前に掲示したと思える
己斐中学校名のパネルがあり
一部欠損していますが
以下のように記載されていました。

***********************************
1654年(承応3)年
隠元禅師が瀬戸内海から見える山を
通玄と名づけた。
その後、広島藩士の寺西織部信之が
その山の自然石に通玄山と刻んだ。
今ではその自然石を
通玄石と呼ぶようになった。
広島市立己斐中学校
***********************************





己斐の歴史
   つづきます


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歴史は夜つくられる

2015年02月15日 | 歴史日誌


“History Is Made At Night”
邦題「歴史は夜作られる」は
昭和12年(1937年)公開の
アメリカ映画です。

主演女優は
90歳の長寿を全うされた
ジーン・アーサーです。
(1900.10.17~1991.6.19)
キレイですね。




この映画は
ラブストーリーですが
邦題は現在でも
歴史の本質を現わすのに
使われることがあります。

実際のところ
歴史上の事件には
「夜」すなわち
大衆が気づかないうちに
秘密裏に
創造されているのではないかと
疑問を感じることがあります。


なかでも
戦争や紛争などの
歴史的な大事件においては
その
始まるきっかけが
いまでも

“不明なまま”

も多いようです。




たとえば
今日は2月15日ですが
アメリカとスペインが戦った
「米西戦争」が始まる
きっかけとなった事件

「メイン号事件」

が117年前の今日
(明治31年/1898年)
キューバのハバナ湾で
発生しています。




メイン号は
アメリカ海軍が
沿岸防衛のために建造した
外洋行動可能な主力艦です。



ハバナで発生した
暴動に対してアメリカの

権益を保護するため

に派遣されましたが
この日の夜、突然
艦の前部が大爆発し
260名の乗組員が
亡くなりました。




原因は

・スペインによる機雷説
・積載燃料である石炭の自然発火による引火説
・対スペイン開戦を狙った米国による自作自演説

などなど
色々と推測されていますが
今日に至るまで
特定されたものはありません。


つまり
原因が特定されなくても
すでに争いが始まってしまうのは
今も昔もかわらない。

さらに
原因が特定され
事実が明らかになっても
争いで亡くなった市民や兵士の
いのちは戻ってくることはありません。

そもそも
戦争の目的が
権益の保護であるとしても
その権益は国民ではなく
軍隊の為であったりするわけです。




事実
「メイン号事件」は

西部への拡張および
アメリカインディアンとの
大規模交戦の終了が
陸軍の任務を減少させ
軍の指導陣は
新しい任務を望んでいた
ことが背景にある

とも言われています。




テレビや新聞で
大きく取り上げられる
ニュースには必ず
「目的」
があることを
知っておく必要があります。




「夜」
知らないところでこっそりと計画され
「昼」
大衆にむけて大袈裟に放流される


“History Is Made At Night”


世界を駆け巡る
昨今の報道をみるにつけ
背後にある
大きな何かを
感じてしまいます。




愛にあふれた
平和な地球になりますように

◎感謝


















庚午の歴史・その2

2015年02月12日 | 歴史日誌


昨日
2月11日は

建国記念の日

でした。

この日は
初代天皇である
神武天皇が即位した日を
建国の日として
お祝いしています。


神武天皇は

『古事記』では
神倭伊波礼琵古命
(かむやまといわれひこのみこと)
と称され

『日本書紀』では
神日本磐余彦尊
(かむやまといわれひこのみこと)

始馭天下之天皇
(はつくにしらすすめらみこと)

若御毛沼命
(わかみけぬのみこと)

狹野尊
(さののみこと)

彦火火出見
(ひこほほでみ)

と称されています。


その
神武天皇が
お生まれになった年が

庚午年の1月1日

西暦で標記すると
紀元前711年2月13日
になります。

60年に一度訪れる
庚午という年回りには
いろいろなことが
起こっているようですね。


ところで
「2月11日」
という日の制定について
明治期には
いろいろと紆余曲折が
あったようです。


明治5年(1872年)
11月15日
明治政府は神武天皇の即位をもって
「紀元」と定め
同日には1月29日を神武天皇即位の
「相当日」
として祝日にすることを
定めました。


明治6年(1873年)3月7日には
神武天皇即位日を
「紀元節」
と称することを定め
あわせて
天皇誕生日を祝日とする
という布告も出されました。


しかし
1月29日は
孝明天皇の命日である
慶応2年12月25日
(1867年1月30日)と
前後するため
不都合になり
明治6年(1873年)
10月14日
新たに紀元節を
2月11日と改めました。

▼孝明天皇


紆余曲折があった
紀元節ですが
他国からの独立や解放
革命などではない
「即位」
を記念している国は
世界でも多くはありません。


あわせて
明治22年(1889年)の2月11日は
大日本帝国憲法の公布日でもあることも
覚えておきたいですね。



神話が生きる国


ちなみに
次に来る「庚午年」は
35年後の
2050年です。

◎感謝