「14歳からの哲学」のつづきです。
先のブログで
中学2年の頃から
「私とはなにか」
を探す旅にでたものの
未だにその途上にいると書きました。
生まれたからには何か意味があるはずで
年齢を重ね経験を積む中で
意義ある生き方に努めてきたつもりです。
仕事の中にやりがいをもとめ
人間関係の円滑化をすすめますが
いつになっても
安堵感や満足感は得られない。
つねに何かに追われている感じがします。
潜在能力開発セミナーや
数々のスピリチュアルイベントに参加しましたが
その時はなんとなくわかった気になるも
しばらくすると
また元の不安や不満が噴出してきます。
これはもう
降参
するしかないと感じたのは約10年前。
どうしたって
自分の思い通りにはならないことを
認めるしかない経験から
サラリーマンを辞めることに。
降参は文字通り
参加しているところから降りるということ。
社会的な地位から降り
誰でもない農的生活をはじめ
様々な導きから今があります。
導きとは人を介した不思議なご縁です。
その都度
自分の進む先は自分で決めていたと
思っていましたがよくよく観察してみるとすべて
ご縁
から始まっている。
そしてあるときふと
物心ついてから今日まで
すべてが縁で出来ている
ことに気づきました。
そして今この瞬間も
縁のチカラによって生かされています。
では
「生まれたからには何か意味がある」
という問いは縁によって
解決されるでしょうか。
カラダという物体がある限り
苦しみから脱出することはできません。
ココロという見えない存在も
悲しみの呪縛から逃れられない。
つまり
ワタシというこの存在は
苦しみと悲しみに囲まれているということを
まず認めることではないでしょうか。
つまり
苦しみを味わうことこそが生まれた意味です。
命は即ち苦の中にある
なんと荒唐無稽な回答でしょうか。
しかし
だからこそまずそのことを認める。
今ここの苦を認めてしまえば、それは
ワタシの責任じゃない!
ことが分かります。
そして叫んでみる。
「誰が率先して苦を望むものか!」
そこから
本当のワタシに出会う旅が始まります。
▲「100分de名著」14歳からの哲学