先週の昼飯。弁当とマグロでビールを飲んだ。食のこだわりなんてものはない。
8月15日(日)終戦の日
長雨で3日続いてJOGできず。大雨で被害のあった地域は、少し雨足が弱まってきたとの報道も見て少しホッとするが、まだ安心できない模様。いつぶり返すかわからないとのこと。
雨の終戦の日。76年目である。今ではもう、あの戦争を実際に経験している人たちは少数になっている。生きていてもかなりの高齢だから、記憶が曖昧になってしまった人も多いのかもしれない。
18年前に死んだ自分の父親は、戦争には行っていないが戦争を知っている世代だった。昭和9年生まれだから小学生の時に戦争に突入して終戦を迎えたことになる。親父が生きている時に戦争の話を聞いたことがない。
オレが生まれた頃は両親も若い夫婦で貧しかったし、普通の人は誰もが貧しい時代だったと思う。日本は高度成長期に入った頃で戦後の混沌期は終わっておらず、食うことだけで必死だったのだろう。だから、当時の父は戦争中の思い出話などする暇はなかったはずだ。
もし、今まだ生きていたら当時の話をいっぱい聞きたいと思う。今でもよく覚えているのは、子供の時に母親の作ったカボチャの煮物が甘くて美味くて好きだったのだが、親父は一切食べなかった。なぜ食べないか聞くと、戦争中、米がない時に毎日毎日カボチャやサツマイモだけを食べさせられて、見たくもなくなったそうだ。
オレが大人になって、どこかへ美味い物を食べに行こうと誘ったことがある。たまには刺身やいつも食べているものじゃなくて、変わったものがいいと思ったオレは、当時静岡で有名な丸子の「丁子屋」のとろろ汁が気に入っていて、静岡では遠いので豊橋の「むぎとろ」へ行こうと誘った。
すると、親父は「それなら行かん」といってあっさりと誘いを断った。なぜか聞くと、やっぱり「米の代わりに麦ばっかり食わされていて、今さら麦飯なんかわざわざ食いたいとは思わん」と言う。
結局、親父の馴染みの店に行ってカツオやイカ刺しや天ぷらを食うことにした。しかも、親父におごらせたような気がする。。。
親父は旬のグルメで、よく「一生であと何回食事にありつけるかわからない。食えるうちは好きなものを食いたい」みたいなこと言って晩酌には浜名湖や海で獲れるものをよく食べていた。夏はよく、舞阪港で安く買える餅ガツオの刺身と、熱々の茄子焼きをニンニク醤油で食っていた。鯨のベーコンも必ず脇にあったし、茹でナガラミとか、当時は激安のB級グルメで食卓がにぎわっていた。
今にして思うと、餅ガツオなんてそうそう手に入らないし、鯨もナガラミも買うことができない。今では贅沢だと思うが、当時は激安だった。
たぶん、子供の頃の食い物の恨みを晴らすようなもので、食へのこだわりとなったんだろう。おふくろもたいへんだったと思うが、文句も言わずに酒のつまみをせっせと作っていた。
オレの中では、戦争とは、「貧しい食」というイメージが父の食のこだわりによって刷り込まれている。
でもオレは食い物のこだわりはなくて、「土用だから鰻」とかいう季節のこだわりもない。旬のいちばん安いものがいいばん美味い。それを味わえるというのは平和な証拠だ。
8月15日(日)終戦の日
長雨で3日続いてJOGできず。大雨で被害のあった地域は、少し雨足が弱まってきたとの報道も見て少しホッとするが、まだ安心できない模様。いつぶり返すかわからないとのこと。
雨の終戦の日。76年目である。今ではもう、あの戦争を実際に経験している人たちは少数になっている。生きていてもかなりの高齢だから、記憶が曖昧になってしまった人も多いのかもしれない。
18年前に死んだ自分の父親は、戦争には行っていないが戦争を知っている世代だった。昭和9年生まれだから小学生の時に戦争に突入して終戦を迎えたことになる。親父が生きている時に戦争の話を聞いたことがない。
オレが生まれた頃は両親も若い夫婦で貧しかったし、普通の人は誰もが貧しい時代だったと思う。日本は高度成長期に入った頃で戦後の混沌期は終わっておらず、食うことだけで必死だったのだろう。だから、当時の父は戦争中の思い出話などする暇はなかったはずだ。
もし、今まだ生きていたら当時の話をいっぱい聞きたいと思う。今でもよく覚えているのは、子供の時に母親の作ったカボチャの煮物が甘くて美味くて好きだったのだが、親父は一切食べなかった。なぜ食べないか聞くと、戦争中、米がない時に毎日毎日カボチャやサツマイモだけを食べさせられて、見たくもなくなったそうだ。
オレが大人になって、どこかへ美味い物を食べに行こうと誘ったことがある。たまには刺身やいつも食べているものじゃなくて、変わったものがいいと思ったオレは、当時静岡で有名な丸子の「丁子屋」のとろろ汁が気に入っていて、静岡では遠いので豊橋の「むぎとろ」へ行こうと誘った。
すると、親父は「それなら行かん」といってあっさりと誘いを断った。なぜか聞くと、やっぱり「米の代わりに麦ばっかり食わされていて、今さら麦飯なんかわざわざ食いたいとは思わん」と言う。
結局、親父の馴染みの店に行ってカツオやイカ刺しや天ぷらを食うことにした。しかも、親父におごらせたような気がする。。。
親父は旬のグルメで、よく「一生であと何回食事にありつけるかわからない。食えるうちは好きなものを食いたい」みたいなこと言って晩酌には浜名湖や海で獲れるものをよく食べていた。夏はよく、舞阪港で安く買える餅ガツオの刺身と、熱々の茄子焼きをニンニク醤油で食っていた。鯨のベーコンも必ず脇にあったし、茹でナガラミとか、当時は激安のB級グルメで食卓がにぎわっていた。
今にして思うと、餅ガツオなんてそうそう手に入らないし、鯨もナガラミも買うことができない。今では贅沢だと思うが、当時は激安だった。
たぶん、子供の頃の食い物の恨みを晴らすようなもので、食へのこだわりとなったんだろう。おふくろもたいへんだったと思うが、文句も言わずに酒のつまみをせっせと作っていた。
オレの中では、戦争とは、「貧しい食」というイメージが父の食のこだわりによって刷り込まれている。
でもオレは食い物のこだわりはなくて、「土用だから鰻」とかいう季節のこだわりもない。旬のいちばん安いものがいいばん美味い。それを味わえるというのは平和な証拠だ。