“京都大原三千院界隈をゆっくり散策してみたい”と思ってはいるのですが、なかなか機会に恵まれておりません。
この日は京都に用事があったので市内へ向かう道中、一時間ほど時間に余裕がありましたので三千院と同じ大原にある寂光院へ立ち寄ってみました。
寂光院は天台宗の尼寺で、594年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたとされています。
寂光院初代住持(住職)は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)という方で、548年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人だと伝えられています。
第2代は1165年に入寺した証道比丘尼で、この方は「大原女」のモデルになったとされていて、薪を頭に載せて京の都で行商する姿は京の風物詩として「大原女まつり」として現在まで伝えられています。
第3代で平清盛の息女である建礼門院徳子は、1185年に入寺し壇ノ浦で滅亡した平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごすという数奇な運命をたどられた方のようです。
山号を清香山・寺号を玉泉寺といい、その玉泉寺の子院であった寂光院の本堂は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたとされています。
1603年には豊臣秀頼が片桐且元に命じて修理、更にその後には豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に尽力したとされています。
本堂に祀られる御本尊は六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩立像ですが、本堂とともに非常に新しい仏像です。
というのも寂光院は2000年に不慮の火災(京都府警の捜査では放火)で全焼してしまい、現存するものは2005年に復興されたものということです。
境内には「諸行無常の鐘」と称される梵鐘がありました。
江戸時代の1752年に近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次という鋳物師が造られたそうです。
現在の滋賀県栗東市辻の周辺では、江戸時代に全国でも最大規模を誇った鋳物師(鋳造技術者)集団が活躍していたとされていますので、その一人になるのだと思います。
また本堂の横には豊臣秀頼の時代に伏見城から寄進されたと伝えられる雪見灯籠 (ゆきみどうろう)が置かれています。
銘文等はないそうですが、秀吉ゆかりの「五三の桐」の透し彫りがあり、数百年に渡ってよく保存されてきたと思います。
境内に参道が閉じられた神明神社という神社がありましたが、廃社なのか由来等が全く分らない神社でした。
同じ山中にある寂光院となにか関係のあった神社だったのかもしれませんね。
寂光院や里山の田舎道には清流が流れていて、気温以上にヒンヤリとした空気が流れています。
山あいの隠れ里のような位置に寺院がありますから、水量の豊富な水は山から流れてくる清流ということですね。
京都大原の幹線道路では立派な角を持った牡鹿や警戒心の薄い牝鹿に遭遇して驚いたのですが、寂光院の中にはモリアオガエルの生息地まであるようです。
水辺では清流に生息する野鳥(カワガラス)の姿を見ましたので、観光客の出入りが多いものの自然が多く残されている場所だということが分かります。
この日は京都に用事があったので市内へ向かう道中、一時間ほど時間に余裕がありましたので三千院と同じ大原にある寂光院へ立ち寄ってみました。
寂光院は天台宗の尼寺で、594年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために創建されたとされています。
寂光院初代住持(住職)は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)という方で、548年に出家した日本仏教最初の三比丘尼の御一人だと伝えられています。
第2代は1165年に入寺した証道比丘尼で、この方は「大原女」のモデルになったとされていて、薪を頭に載せて京の都で行商する姿は京の風物詩として「大原女まつり」として現在まで伝えられています。
第3代で平清盛の息女である建礼門院徳子は、1185年に入寺し壇ノ浦で滅亡した平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごすという数奇な運命をたどられた方のようです。
山号を清香山・寺号を玉泉寺といい、その玉泉寺の子院であった寂光院の本堂は、飛鳥・藤原様式および平家物語当時の様式を改修の度ごとに残しながら後世に伝えられたとされています。
1603年には豊臣秀頼が片桐且元に命じて修理、更にその後には豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に尽力したとされています。
本堂に祀られる御本尊は六万体地蔵尊と称される地蔵菩薩立像ですが、本堂とともに非常に新しい仏像です。
というのも寂光院は2000年に不慮の火災(京都府警の捜査では放火)で全焼してしまい、現存するものは2005年に復興されたものということです。
境内には「諸行無常の鐘」と称される梵鐘がありました。
江戸時代の1752年に近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次という鋳物師が造られたそうです。
現在の滋賀県栗東市辻の周辺では、江戸時代に全国でも最大規模を誇った鋳物師(鋳造技術者)集団が活躍していたとされていますので、その一人になるのだと思います。
また本堂の横には豊臣秀頼の時代に伏見城から寄進されたと伝えられる雪見灯籠 (ゆきみどうろう)が置かれています。
銘文等はないそうですが、秀吉ゆかりの「五三の桐」の透し彫りがあり、数百年に渡ってよく保存されてきたと思います。
境内に参道が閉じられた神明神社という神社がありましたが、廃社なのか由来等が全く分らない神社でした。
同じ山中にある寂光院となにか関係のあった神社だったのかもしれませんね。
寂光院や里山の田舎道には清流が流れていて、気温以上にヒンヤリとした空気が流れています。
山あいの隠れ里のような位置に寺院がありますから、水量の豊富な水は山から流れてくる清流ということですね。
京都大原の幹線道路では立派な角を持った牡鹿や警戒心の薄い牝鹿に遭遇して驚いたのですが、寂光院の中にはモリアオガエルの生息地まであるようです。
水辺では清流に生息する野鳥(カワガラス)の姿を見ましたので、観光客の出入りが多いものの自然が多く残されている場所だということが分かります。
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