人間国宝の噺家「桂米朝」さんは、『地獄八景亡者戯』という1時間を超える大ネタを得意とされていたといいます。
『地獄八景亡者戯』は、米朝さんが埋もれかけていた上方落語の古い噺を聞き取り再構築して完成させた噺だそうですが、これがとにかく面白い。
食あたりで死んだ男が冥土の旅に出るところから噺は始り、「三途の川」「賽の河原」「六道の辻」「閻魔の丁」などのお馴染みの冥土の旅をしていくのですが、次々と登場するご気楽な死者達が場面ごとにドタバタ劇を演じます。
地獄への旅路の世界も現世同様の人間臭い登場人物ばかりが登場し、「三途河(しょうづか)の婆」の半生記、渡し賃をダジャレで決める「渡し舟の鬼」、御堂筋ならぬ「冥土筋」には芝居小屋や寄席が軒を連ね、寄席には現世にいた米朝さんが“近日来演”の看板まで掛かる。また新興宗教まで含んだ各宗旨の「念仏」商店が並ぶ「念仏通り」など、珍奇な光景が繰り広げられる「地獄めぐり」の噺です。
さて、「地獄めぐり」に旅立つにはまだ早いと思っている当方とはいえ、地獄の様子が見てみたい!ということで大津市比叡辻にある「聖衆来迎寺」へ地獄絵図を拝観しに参りました。
聖衆来迎寺は、比叡山の麓“坂本”の近くにある天台宗の寺院で、寺伝によると790年に伝教大師によって地蔵教院として建立されたと伝わります。
1001年には比叡山横川恵心院の先徳源心和尚(恵心僧都)が紫雲山聖衆来迎寺と称し、念佛弘通の道場の寺として開山したとされる寺院です。
「表門」は明智光秀の坂本城の旧城門と伝えられている重要文化財指定を受けた門とされます。
大津の坂本界隈へ訪れると明智光秀の名を聞くことが多くなりますが、坂本の地は光秀が城主だった坂本城のお膝元だったことが大きく影響しているのでしょうね。
さて、聖衆来迎寺は「比叡山の正倉院」とも呼ばれる国宝・重文が数多く収蔵されている寺院ですが、それは1571年の織田信長の比叡山焼き討ちを免れたことが一つの理由とされています。
なぜ焼き討ちを免れたのかは、1570年に信長に敵対する浅井・朝倉連合軍と戦って討死した宇佐山城主・森可成(森蘭丸の父)を当時の住職が密かに運んで葬ったことに信長が恩義を感じていたためといわれています。
この戦には反信長側として比叡山延暦寺の僧兵も加わったとされますが、同じ天台宗の寺院でありながら敵方だった森可成を葬った住職の菩提心が寺院を救ったということになるのかと思います。
聖衆来迎寺では毎年8月16日に「十界図(絹本著色六道絵 15幅 )」が寺宝「虫干会」として公開されます。
十界図(地獄絵図)は鎌倉時代に描かれたもので国宝になっていますが、オリジナルは博物館に寄託されているため、公開されるのは模本です。
ただし、模本とはいえ250年以上前の江戸時代に描かれたもので、保存がよいため色彩豊かで見ごたえ充分の絵図だったと思います。
この地獄絵図は、源心(恵心僧都)が『往生要集』の中で説いた六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上界)と六道の上にある「仏界・菩薩・縁覚・声聞」を合わせた十界を現した「十界図」を絵図にしたものとされます。
『往生要集』は念仏により、西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生することを書いた本とされ、文中には地獄の様子が精細に記述されているようです。
地獄への入り口のまず最初の難関は、「閻魔王界罪科軽量決断所」での閻魔様の裁きになるのでしょうか。
娑婆にいた時の罪科を問いただされれば、誰だとて“叩けば埃が出る身”。罪を告白させられてしまうのでしょう。
第二幅の「等活地獄」は“生き者を殺した者が行く地獄”で、“極熱の糞尿を喰らわされる”、“鉄の鍋で豆を煎るように煎られる”という怖しい地獄です。
またこの地獄に落ちる者は、お互いに敵愾心を抱き、罪人同志が争い、血肉をかきむしりあって骨だけが残るとされますが、骨になっても何度も元の状態に戻され、その苦しみは500年間続くといいます。
第三幅の地獄は「黒縄地獄」といって、“生きものを殺し、盗みを働いた者が落ちる地獄”。
苦しみは等活地獄の10倍となり、体を切り刻まれ炎で焼かれる怖しい地獄は千年続くといわれます。
永遠とも思える年月の間、苦しみ続けなければならないのでしょう。
第四幅の地獄は「衆合地獄」でこの地獄は“生きものを殺し、盗みを働き、淫欲にふけって善行に励まなかった者が落ちる地獄”とされていて、この地獄では寿命が2千年になるといわれます。
“淫欲にたぶらかされて刀の刃の如き樹を昇り降りして、体がズタズタになっても淫欲が止まらない”とか、“口を開いて炎を流し込んで臓腑を焼き尽くすのでその苦しみはいいようがない”とありましたが、それが2千年繰り返されるとはまさしく地獄の中の地獄です。
『人間界』には前世において五常・五徳を保った徳によってたどり着ける世界とされます。
人間は死ぬと九つの相を経て、醜くも腐敗していき、最後は灰になり冥道へ行く。生きとし生けるものの無常観を感じてしまいますね。
地獄絵図を描いた絵師は、よくこんなサディスティックで、またマゾヒスティックな絵を発想をしたものです。
源信(恵心僧都)の『往生要集』に書かれた話を絵図にしているとのことですが、往生要集では“心を清らかにして仏を念ずれば必ず救われる”と締められているそうです。
さて、地獄の怖しい話はここまでとして、聖衆来迎寺には仏像などの文化財が多く収蔵されています。
地獄絵が虫干しされている本堂(重文)には三体本尊として、「釈迦如来坐像」「阿弥陀如来坐像」「薬師如来坐像」が祀られていました。
三体本尊の中で「釈迦如来坐像」は鎌倉時代の作とされて重要文化財指定を受けていますが、他の2躰は製作年代がそれぞれ違うということです。
脇陣にも「馬頭観音」、平安~鎌倉期の「地蔵菩薩立像」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られており、元愛宕山大権現の本地仏であったともいわれる「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られています。
また天井にも色彩豊かな天女が描かれており、内陣に入ると地獄から天国への道が開けてきたかのような印象すら受けます。
内陣に座って仏像を観ていると、虫干しに参集された世話役の方から“熱心に見ておられますので少し説明します。”といって専門書を片手に説明をしていただくことが出来ました。
詳しかった方が亡くなられたので質問に答えられるように本の中で大事なことが書いてある所へ付箋をはさんで持ってきたんですよ!”とは何とも微笑ましくて嬉しい。
如来像の説明や寺伝を説明して頂いた後に教えていただいたのは「厨子の裏にある仏画」でした。
“目ではよく見えないけど、フラッシュをたいて撮れば浮きあがってきますよ!”とお言葉を頂いて写真を撮らせていただきました。
本堂から客殿(重文)には建物の中の廊下でつながっていましたが、客殿に安置された仏像もまた素晴らしい仏像群が並びます。
客殿の本尊は秘仏でしたが、両脇に南北朝期の「日光・月光菩薩(重文・室町期)」、更にその横には「十二神将」が並び、「引接阿弥陀仏」、平安時代前期作の重文「十一面観音立像」が並びます。
特に「十一面観音立像」と「日光・月光菩薩立像」は、今回拝観出来て良かったなぁと感謝したくなるような美しい仏像でした。
客殿には「賢人の間」「龍虎の間」が続き、狩野探幽・尚信の襖絵や寺院所蔵の掛け軸などが各部屋に展示されてありました。
「恵心僧都の袈裟」や宇多法皇より賜った「御鼓」などもあり、これだけ文化財が揃うと「比叡山の正倉院」と称されるのも納得しますね。
境内には数個の石仏が祀られています。
この石仏は十一面観音・三体本尊(釈迦・阿弥陀・薬師)・地蔵菩薩という意味なんだろうと思います。
地獄絵図を実際見ると、その想像力の豊かさに驚かざるを得ません。
もう少し地獄絵図を知りたい!ということで『地獄絵を旅する』という入門書を購入してしまいました。
“現世は時に地獄なのか”“地獄は心の中に巣食うものなのか”“地獄絵図を観ることによって戒めを知るのか”など考えてみる機会になったかもしれません。
地獄の概念というものは、仏教の中だけでなくキリスト教やイスラム教の中にもあると聞きます。神道にも黄泉の国なるものがありますから、死後の世界観は人類共通の課題なのかもしれません。
『地獄八景亡者戯』は、米朝さんが埋もれかけていた上方落語の古い噺を聞き取り再構築して完成させた噺だそうですが、これがとにかく面白い。
食あたりで死んだ男が冥土の旅に出るところから噺は始り、「三途の川」「賽の河原」「六道の辻」「閻魔の丁」などのお馴染みの冥土の旅をしていくのですが、次々と登場するご気楽な死者達が場面ごとにドタバタ劇を演じます。
地獄への旅路の世界も現世同様の人間臭い登場人物ばかりが登場し、「三途河(しょうづか)の婆」の半生記、渡し賃をダジャレで決める「渡し舟の鬼」、御堂筋ならぬ「冥土筋」には芝居小屋や寄席が軒を連ね、寄席には現世にいた米朝さんが“近日来演”の看板まで掛かる。また新興宗教まで含んだ各宗旨の「念仏」商店が並ぶ「念仏通り」など、珍奇な光景が繰り広げられる「地獄めぐり」の噺です。
さて、「地獄めぐり」に旅立つにはまだ早いと思っている当方とはいえ、地獄の様子が見てみたい!ということで大津市比叡辻にある「聖衆来迎寺」へ地獄絵図を拝観しに参りました。
聖衆来迎寺は、比叡山の麓“坂本”の近くにある天台宗の寺院で、寺伝によると790年に伝教大師によって地蔵教院として建立されたと伝わります。
1001年には比叡山横川恵心院の先徳源心和尚(恵心僧都)が紫雲山聖衆来迎寺と称し、念佛弘通の道場の寺として開山したとされる寺院です。
「表門」は明智光秀の坂本城の旧城門と伝えられている重要文化財指定を受けた門とされます。
大津の坂本界隈へ訪れると明智光秀の名を聞くことが多くなりますが、坂本の地は光秀が城主だった坂本城のお膝元だったことが大きく影響しているのでしょうね。
さて、聖衆来迎寺は「比叡山の正倉院」とも呼ばれる国宝・重文が数多く収蔵されている寺院ですが、それは1571年の織田信長の比叡山焼き討ちを免れたことが一つの理由とされています。
なぜ焼き討ちを免れたのかは、1570年に信長に敵対する浅井・朝倉連合軍と戦って討死した宇佐山城主・森可成(森蘭丸の父)を当時の住職が密かに運んで葬ったことに信長が恩義を感じていたためといわれています。
この戦には反信長側として比叡山延暦寺の僧兵も加わったとされますが、同じ天台宗の寺院でありながら敵方だった森可成を葬った住職の菩提心が寺院を救ったということになるのかと思います。
聖衆来迎寺では毎年8月16日に「十界図(絹本著色六道絵 15幅 )」が寺宝「虫干会」として公開されます。
十界図(地獄絵図)は鎌倉時代に描かれたもので国宝になっていますが、オリジナルは博物館に寄託されているため、公開されるのは模本です。
ただし、模本とはいえ250年以上前の江戸時代に描かれたもので、保存がよいため色彩豊かで見ごたえ充分の絵図だったと思います。
この地獄絵図は、源心(恵心僧都)が『往生要集』の中で説いた六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上界)と六道の上にある「仏界・菩薩・縁覚・声聞」を合わせた十界を現した「十界図」を絵図にしたものとされます。
『往生要集』は念仏により、西方極楽浄土の阿弥陀如来の国に往生することを書いた本とされ、文中には地獄の様子が精細に記述されているようです。
地獄への入り口のまず最初の難関は、「閻魔王界罪科軽量決断所」での閻魔様の裁きになるのでしょうか。
娑婆にいた時の罪科を問いただされれば、誰だとて“叩けば埃が出る身”。罪を告白させられてしまうのでしょう。
第二幅の「等活地獄」は“生き者を殺した者が行く地獄”で、“極熱の糞尿を喰らわされる”、“鉄の鍋で豆を煎るように煎られる”という怖しい地獄です。
またこの地獄に落ちる者は、お互いに敵愾心を抱き、罪人同志が争い、血肉をかきむしりあって骨だけが残るとされますが、骨になっても何度も元の状態に戻され、その苦しみは500年間続くといいます。
第三幅の地獄は「黒縄地獄」といって、“生きものを殺し、盗みを働いた者が落ちる地獄”。
苦しみは等活地獄の10倍となり、体を切り刻まれ炎で焼かれる怖しい地獄は千年続くといわれます。
永遠とも思える年月の間、苦しみ続けなければならないのでしょう。
第四幅の地獄は「衆合地獄」でこの地獄は“生きものを殺し、盗みを働き、淫欲にふけって善行に励まなかった者が落ちる地獄”とされていて、この地獄では寿命が2千年になるといわれます。
“淫欲にたぶらかされて刀の刃の如き樹を昇り降りして、体がズタズタになっても淫欲が止まらない”とか、“口を開いて炎を流し込んで臓腑を焼き尽くすのでその苦しみはいいようがない”とありましたが、それが2千年繰り返されるとはまさしく地獄の中の地獄です。
『人間界』には前世において五常・五徳を保った徳によってたどり着ける世界とされます。
人間は死ぬと九つの相を経て、醜くも腐敗していき、最後は灰になり冥道へ行く。生きとし生けるものの無常観を感じてしまいますね。
地獄絵図を描いた絵師は、よくこんなサディスティックで、またマゾヒスティックな絵を発想をしたものです。
源信(恵心僧都)の『往生要集』に書かれた話を絵図にしているとのことですが、往生要集では“心を清らかにして仏を念ずれば必ず救われる”と締められているそうです。
さて、地獄の怖しい話はここまでとして、聖衆来迎寺には仏像などの文化財が多く収蔵されています。
地獄絵が虫干しされている本堂(重文)には三体本尊として、「釈迦如来坐像」「阿弥陀如来坐像」「薬師如来坐像」が祀られていました。
三体本尊の中で「釈迦如来坐像」は鎌倉時代の作とされて重要文化財指定を受けていますが、他の2躰は製作年代がそれぞれ違うということです。
脇陣にも「馬頭観音」、平安~鎌倉期の「地蔵菩薩立像」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られており、元愛宕山大権現の本地仏であったともいわれる「地蔵菩薩立像(鎌倉期)」が「不動明王と毘沙門天」を脇侍に祀られています。
また天井にも色彩豊かな天女が描かれており、内陣に入ると地獄から天国への道が開けてきたかのような印象すら受けます。
内陣に座って仏像を観ていると、虫干しに参集された世話役の方から“熱心に見ておられますので少し説明します。”といって専門書を片手に説明をしていただくことが出来ました。
詳しかった方が亡くなられたので質問に答えられるように本の中で大事なことが書いてある所へ付箋をはさんで持ってきたんですよ!”とは何とも微笑ましくて嬉しい。
如来像の説明や寺伝を説明して頂いた後に教えていただいたのは「厨子の裏にある仏画」でした。
“目ではよく見えないけど、フラッシュをたいて撮れば浮きあがってきますよ!”とお言葉を頂いて写真を撮らせていただきました。
本堂から客殿(重文)には建物の中の廊下でつながっていましたが、客殿に安置された仏像もまた素晴らしい仏像群が並びます。
客殿の本尊は秘仏でしたが、両脇に南北朝期の「日光・月光菩薩(重文・室町期)」、更にその横には「十二神将」が並び、「引接阿弥陀仏」、平安時代前期作の重文「十一面観音立像」が並びます。
特に「十一面観音立像」と「日光・月光菩薩立像」は、今回拝観出来て良かったなぁと感謝したくなるような美しい仏像でした。
客殿には「賢人の間」「龍虎の間」が続き、狩野探幽・尚信の襖絵や寺院所蔵の掛け軸などが各部屋に展示されてありました。
「恵心僧都の袈裟」や宇多法皇より賜った「御鼓」などもあり、これだけ文化財が揃うと「比叡山の正倉院」と称されるのも納得しますね。
境内には数個の石仏が祀られています。
この石仏は十一面観音・三体本尊(釈迦・阿弥陀・薬師)・地蔵菩薩という意味なんだろうと思います。
地獄絵図を実際見ると、その想像力の豊かさに驚かざるを得ません。
もう少し地獄絵図を知りたい!ということで『地獄絵を旅する』という入門書を購入してしまいました。
“現世は時に地獄なのか”“地獄は心の中に巣食うものなのか”“地獄絵図を観ることによって戒めを知るのか”など考えてみる機会になったかもしれません。
地獄の概念というものは、仏教の中だけでなくキリスト教やイスラム教の中にもあると聞きます。神道にも黄泉の国なるものがありますから、死後の世界観は人類共通の課題なのかもしれません。
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