僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~長浜市木之本町 紫雲山 医王寺~

2019-04-21 14:12:12 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 湖北地方の十一面観音像が注目を集めるようになった一つの契機に“井上靖さんの小説『星と祭』があるといいます。
現在は絶版となって本としての入手は困難になっているため、当方も未読の本ではありますが、現在「『星と祭』復刊プロジェクト実行委員会」の方々が復刊に向けて活動をされています。

『星と祭』復刊プロジェクトでは関連イベントを開催されており、『星と祭』に描かれた観音さまが登場するシーンの朗読や“観音ガール”さんによる観音さまの解説講演が行われます。
イベントが開催される寺院は、“国宝十一面観音立像”をお祀りする「渡岸寺観音堂」に始まり、「医王寺」「石道寺」と続き、今後も続くことが期待されるイベントです。



4月20日に開催された「医王寺」は、上記3寺院の中では唯一予約拝観が必要な寺院でしたので、この機会に是非とも「十一面観音像」を拝観したいと医王寺へ向かうことにしました。
医王寺のある大見は、“大見いこいの広場”というコテージが並ぶキャンプ場があり、高時川に面した谷間にある自然豊かな地域です。



大見地区は“滋賀の北海道”とも呼ばれるという豪雪地帯であることも影響しているのか、もう各所では散ってしまった桜が大見ではまだ見頃になっているものがありました。
天気にも恵まれましたので周辺を散策がてら、大見渓谷に架かる吊り橋の“医王寺参道”を渡ってみる。



吊り橋を歩いていると、ゆらゆらと揺れるが、怖いというよりも心地よい。
下を流れる高時川の水は水量豊かで透き通るような透明感のある清流で、どこからか清流に棲む蛙の声が聞こえてくるのも爽快です。



医王寺は、鎌倉時代に専暁上人が紫雲の奇端を見て一堂を建立して、薬師如来像を祀られたのが始まりだといいます。
寺院の背後にある大箕山の山頂には菅原道真公ゆかりの菅山寺があり、大見は東登り口にあたることから、この地にはかつて仏教文化圏が栄えていたことが伺われます。
現在の医王寺は、無住の寺院として里人によって守られており、「薬師堂」と「観音堂」だけが現存しています。





薬師堂の前にはかつては鐘楼があったのだろうと思われますが、今は梵鐘が野ざらしになって置かれています。
梵鐘には“昭和27年10月再鋳・鋳造人 長濱 西川徳左衛門”との銘があったのは実に興味深い。

西川家は江戸時代から代々続いた鐘鋳造工匠とされ、長浜市の黒壁スクエア界隈にあった“豊臣秀吉公茶亭門”は、かつては長浜城内にあり、後に西川家(鍋徳)の茶亭門として使用されていたものだといいます。
後述する流浪の十一面観音像の由来と、医王寺の梵鐘を鋳造した西川家(鍋徳)には何か深いつながりがありそうに思えます。
(*「豊臣秀吉公茶亭門」は2015年の黒壁直営店「14號館カフェレストラン洋屋」閉店後のリニューアルにより撤去された。)



さて、いよいよ「観音堂」へと向かいますが、観音堂の前の桜はごく一部は葉桜になっているものの、ほぼ満開状態です。
観音堂には最終的に30~40名程度の参拝者が集まってこられ、寺院の世話役の方・STUDIOこほくの取材の方・復刊プロジェクトの方々・観音ガールさんと観音堂の中は満員で熱気が溢れます。





まずは般若心経の読教から始まり、白洲正子さんの本の朗読・プロジェクト実行委員会による“勧進帳”の読み上げ、「星と祭り」の一節からの朗読と進み、観音ガールさんの解説へと続いていきます。
「十一面観音像」は平安時代の800年代後半から900年代初期の製作といわれ、蓮の台座部分までを楠の一木造で彫られており、重要文化財に指定されている仏像です。

観音ガールさんの解説では、一木造は霊木を大事にする木に対する信仰心の現れでもあり、尊顔の表情は同時代に彫られた観音像に比べて、日本的な優しい表情をされていると言われます。
なるほどその表情からは戒めの表情はなく、慈悲の心が伺わる優しい表情をされており、観音像のやや右方向(花瓶の側)から観る姿が一番美しい。



この「十一面観音像」は、明治の廃仏毀釈の頃に己高山仏教圏のどこかの寺院から流出したものだとされ、定説では明治20年に医王寺の僧・栄観が長浜の鋳物屋「鍋徳」の店頭にあったものを持ち帰り、医王寺に祀ったといいます。
湖北の観音さまには廃仏毀釈を乗り越えた仏像の話が幾つか残りますが、廃仏毀釈で仏像が失われるのを防止して、守り通した人々が存在したと考える方が正確なのかもしれません。

十一面観音像は一旦医王寺に祀られた後、昭和5年に観音堂が建てられて観音堂へ祀られる訳ですが、“医王寺の梵鐘を鋳造した鐘鋳造工匠の西川家”“廃仏毀釈の頃に十一面観音像を保持していた西川家(鍋徳)”と医王寺には深いつながりがあったことが想定されます。
事実については不明ではありますが、仏像をうまく守り通した僧や里人の信仰心には、今その仏像を拝める我々としては感謝の気持ちしかありません。

観音ガールさんの解説の後も、復刊プロジェクトの方から復刊を通じての文化や里の振興についての熱い想いを語られ、世話方のトークなどトータルで1時間ほど堂内に座っていましたが、そのあいだずっと十一面観音像を観ることが出来ました。
イベント終了後には間近での拝観が出来ましたが、壇上に上がらせてもらい、仏像に息がかかるくらいの距離で、細かな彫り跡まで見ることが出来たのは貴重な体験です。



余談になりますが、“いとうせいこうとみうらじゅんがTV番組「見仏記」”で医王寺を訪れられた時に、みうらじゅんが話題にしていた“毛糸の手編みの座布団”がまだ残っていたのは嬉しかったですね。
寺院を出る時には供え物のおさがりまで頂いて、これでは拝観料よりも高いのでは?と思ってしまうくらいのありがたいおもてなしにも感謝致します。

大見は人口の流出が激しく、高齢化が進んでいるため観音さまをお守りすることに不安を感じておられるようですが、東京藝術大学での「観音の里の祈りとくらし展」への出展以降、関東地方からの参拝客が増えて運営費を拝観料で賄えるようになったといわれます。
大見の方の信仰心の厚さには仏と民衆がごく近い距離にある湖北の信仰の姿が感じられ、他の地方の人の関心を呼ぶということもいえるのかもしれません。



医王寺のすぐ横には1523年に悪病が流行した折に京都の八坂神社から勧請した牛頭天皇を祀る「大見神社」があります。
大見神社は重要文化財となっており、スサノノミコト1躰と女神2躰を祀るといます。



この大見神社には大杉が何本か残り、根が連結して2本の杉になっている木もありました。
まさに御神木・霊木が並ぶ神社となりますが、おそらく大見神社は大見集落の鎮守社のようにして守られてきた社なのでしょう。



観音ガールさんは、“仏像は千年以上もの間、人々の想いを受けてきている。そんな想いを受け止めてきた仏像に対する想いを受け止めて、想いを伝えていく事も大事である。”といった意味の事も言われていました。
井上靖の「星と祭」には、“集落の人に守られ、何とも言えぬ 素朴な優しい敬愛の心に包まれているということであった。”という一文が書かれているといいます。


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