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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~滋賀県甲賀市 田村神社・清浄山 十楽寺~

2019-04-04 06:10:10 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 歴史上存在した人物が「神」として祀られている神社は数多くあり、例えば菅原道真・平将門などの魂を鎮めるための神社であったり、信長・秀吉・家康などの戦国大名に崇敬の念を抱いて祀られている神社などがあります。
そんな武将の中でも征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂を祀る神社が全国に数ヶ所あり、その中の一つである甲賀市の田村神社へ参拝致しました。

甲賀市土山町は三重県との県境になる地域で、少し移動すれば三重県亀山市へとつながります。
土山町は茶園の多いところで“近江土山茶”が名産となっており、県境ということでいえば京都との県境の信楽でも“朝宮茶”が名産になっていたりしますから、お茶は県境の山間の産業となっていることが多々あるようです。

 

田村神社は坂上田村麻呂公を主祭神として、嵯峨天皇・伊勢斎宮の起源とされる倭姫命の3柱を祀る神社で、812年に嵯峨天皇が勅令を出して坂上田村麻呂公を祀ったと由緒にあります。
神社は国道1号線沿いにあるため都と伊勢への交通の要衝となりますが、言い伝えでは「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた。」とあるそうです。



神社は国道1号線をはさんで「道の駅あいの土山」の向かいにあり、歩道橋を越えていきますが、想像以上の立派な神社だったことに驚きを感じます。
鳥居も国道沿いの「第一鳥居」から銅製の「第二鳥居」、境内の中心部の前にある「第三鳥居」と広い境内が続きます。



第一鳥居を抜けた後の参道の両サイドは杉の並木となっており、誇張していえば下鴨神社の糺の森のような雰囲気があります。
もっとも糺の森は杉の森ではないでの例に出すのはおかしいのですが、田村神社の参道は厳粛さがあり薄暗いくらいの森となっていました。



森を過ぎると見えてくるのは銅製の第二鳥居になります。
ここが神社の正面にしてもおかしくないような立派な構えとなっています。



何を形どっているのでしょうか、あまり見かけない形の手水で身を清めます。
後方に見えるのは御神木の杉ですが、大きくて実に見事な巨木です。
御神木は幹周り5.6m・樹高27mといいますから、樹齢は分らないもののかなりの古木だと思われます。





田村神社には「一願成就清め道」という田村川へとつながる小道があり、先程は下鴨神社を引き合いに出しましたが、今度は上賀茂神社の御手洗川と似た場所があります。
田村川は鈴鹿山系から流れ出る河川で、流れは野洲川へとつながって琵琶湖に流れ込むといいます。
大きそうな河川ですから水量が多くなるとちょっと怖いかもしれませんが、水は透明度が高く綺麗な水でした。





田村川は一部が神社の中にも流れ込み、禊場までつながっていますが、その途中には「厄落し太鼓橋」があります。
橋の上からお祓いされた福豆を流すことで厄も一緒に落ちるといい、確かに橋の下には無数の福豆が巻かれてありました。
これは田村大神のお告げにより、「悪い年に当たっていても、社殿前に流れる御手洗川の東に向かい、節分の豆を自分の年の数だけ祈念を込めて流せば全ての災厄は流れ去る」という故事に由来するものだそうです。





本殿には征夷大将軍・田村麻呂の武勇を現すかのように巨大な弓が奉納されています。
本殿前には「矢竹」という坂上田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を平定した後に放った矢が落ちた場所に竹が生えたという言い伝えがあります。
その由来のある矢竹が本殿前に祀られており、ご祈祷の撤下(おさがり)には竹で奉製した神矢が授与されるようです。



本殿の左にはやや傾いた杉の巨木があり、境内の御神木に負けず劣らない姿を見せてくれます。
この田村神社の杉の森には永年の歴史からくる圧倒される迫力が感じられます。



境内の片隅に不思議なものがありました。
3匹の鬼のようにも見えますので、坂上田村麻呂が退治した鬼を現しているのでしょうか。



さて、田村神社からすぐ近くの所に“甲賀三大仏”で有名な「十楽寺」がありますので参拝に向かいました。
甲賀三大仏とは櫟野寺の「薬師如来坐像」・大池寺の「釈迦如来坐像」・十楽寺の「阿弥陀如来坐像」のことをいい、現在・過去・未来の三世の安寧を祈るとされます。



十楽寺は1486年に天台宗・寂照法師によって創建されますが、織田信長の戦火により焼失してしまったといいます。
江戸時代の1661年になって広誉可厭大和尚によって浄土宗の寺院として再興され、現在に到るようです。



十楽寺には本尊となる阿弥陀如来像が2躰あるため、正式な寺名は「二尊院十楽寺」となり、1躰は278cmの丈六の「阿弥陀如来坐像(室町から江戸初期)」、もう1躰は平安時代後期の「阿弥陀如来坐像(89.5cm)」。
十楽寺は仏像が豊富な寺院で、「救世聖観世音菩薩坐像(南北朝以後・69cm)」、平安期の「十一面観世音菩薩立像(217cm)」、玉眼が光る「十一面千手観世音菩薩立像(鎌倉期・202cm)」など見応えがある仏像が安置されています。



興味深かったのは裸の如来「裸形阿弥陀如来立像」でした。
真っ裸の仏像はこれまで写真でしか見たことがなく、法衣らしきものはまとってはいるものの、衣の劣化が激しく腰にボロ布を巻いているだけに見える姿を初めて観ることになりました。

お釈迦様の母の「摩耶夫人像(室町期・重文・86cm)」は右の脇から釈迦が生まれ出ようとしている造りになっており、寺の方のお話では全国で同じような仏像は2躰だけということでした。
内陣には2幅の地獄絵図も掛けられており、本堂内の密度が高い寺院でした。



甲賀市・湖南市・東近江市から湖東三山にかけては現在は宗旨を変えている寺院もありますが、天台宗教文化が根強い地域になっています。
その影響は数多くの仏像に反映されており、仏像ファンには魅力的な地域だといえます。




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