超兵器磯辺2号

幻の超兵器2号。。。
磯辺氏の文才を惜しむ声に応えてコンパクトに再登場。
ウルトラな日々がまたここに綴られる。

通学路

2012-10-04 04:52:10 | 出来事
田舎ではもっとすごい話もテレビで見たことがあるが、私の通った小学校は大人になった今でも「こりゃー遠いよなー」とうんざりするほど距離があった。車の多い大通りを避けて細い路地を巧みに動き回るルートで、1年生などにはとても覚えられないコースだった。家から数十メートルのところに昔よくいも掘りをやった畑があり、その一角が集合場所になっていて高学年生が引率する「集団登校」が決められていた。海の近くの学校だったが家からは45分以上かかり、帰りは一人ずつだから迷子にならないのが不思議なくらいだった。浜降祭の前日、東海岸地区の「お菓子をくれる子供神輿」に付いて行ってホントに帰れなくなったこともある。

小学校の帰りはそのまま校庭で遊んでくることもあったが、圧倒的に多かったのが通学ルートにある「ドブ川球場」と呼ばれる広い草っ原である。その名の通り草野球程度はできる平地があって、周囲にはまさしくドブ川が流れていた。清流では決してないが、ザリガニ程度は獲ることができたし、背丈の長い草むら地帯ではキリギリスやバッタなど昆虫獲りもできた。さらに奥地の草深い地帯では「秘密基地」を作り、基地の周囲には「落とし穴」網を張り巡らせていた。正しく多目的広場(なんていうかただの空地なんだが)のハシリと言えよう。

白くてきめ細かく大きな昆虫採集用捕獲網など誰も持っておらず、100円くらいの編みの洗い魚網でドジョウだろうが、トノサマバッタだろうが捕獲していた。オニヤンマは動きが速く柄の長い網では捕まえられない。飛行軌道を後ろから追いかけて野球帽で獲るか、何かに停まった瞬間に後ろからヒュンと羽を指で挟むかである。動態視力と俊敏さは実に養われたが、大体獲れるものはいつも似たような昆虫ばかりでタマムシなど変わった虫を見つけるとヒーローになれた。トカゲやカナヘビ、ありとあらゆる小動物も捕獲した。

      

学校の周囲にも様々なアトラクションがあった。ゴルフ場に忍び込んでボールを拾い集めて焚き火をしたり(外皮が燃えてなくなると長い長いゴム糸付きボールができ面白いのである)、「お化け屋敷」と呼んだ廃墟を探検したり、人んちの庭なのだがかなりの頻度でゴマダラカミキリがいる「ゴマダラの木」によじ登って捜索したりしていた。ちょっと外れるが東海道線の踏み切りの下に流れる用水路のところに出入り口もある本格的な秘密基地を構築したが、ある日本当の浮浪者が住み着いてしまって追い出されたこともあった。

中学校に進むと通学路はそれまでの約半分程度になった。当然フリーの通学路になったので、運動部の悪友の家経由のコースとなり、KICK師匠ゆかり?のU田酒店の真横を通過して通ったのである。部活動に明け暮れ学校帰りに遊んでくることはなくなってしまたったが、買い食い禁止の校則に反し、そのU田酒店のすぐ横の交差点にあるNじまという駄菓子屋にいつも部活帰りに入り浸ってチェリオ片手に10円玉を転がしてコインを出す単純なゲームで飽きもせずに遊んでいた。

新幹線ゲームと呼んだこのゲームは関門が3つあって最初の二つはそれぞれスカ、1倍、3倍のホールがありスカ以外なら次の関門に進める。最後のゴールは×、3倍、5倍のホールがあり、最終関門を突破すると通過したホールの倍数分だけコインが出る。つまり最大45枚のコインがジャラジャラ発出するわけである。腕が悪いと一瞬で最初のホールでスカに沈む。。。私はかなりの確率で第二関門を突破できたが、どうにも最終関門がダメだった。しかしそおはうまくいったもので、最終ホールだけ得意な野球部の悪友がいて、コンビを組んでよく15枚や27枚獲りを演じていた。2度ほど45枚獲りを炸裂させた時は隣りのマシンで遊んでいた小さな子供が「機械が壊れてしまった」と勘違いして恐くて泣き出してしまった。。。

「買い食い禁止」のために学校の周囲に何軒かあった駄菓子屋のは生活指導の教員を中心に「パトロール」が実施されていた。運動部バリバリの我々は付近にちょっとでも教師の姿が見えるとクモの子を散らすようにダッシュで逃げ去り捕まることはまずなかった。現行犯逮捕でなければ翌日出頭命令はないのである。Nじまにも何度か見かけたが、生活指導歴●十年?の社会科の教師が一度変装して現れた時は驚いた。(まるで尾行である)
どこに行くにもチャリだったが正直、中学を卒業するまでは市内どころか今の新●南バイパスよりも海側しか行動範囲がなかった。市の駅伝競技大会に出場する悪友を応援するために市内最北部のH陽中学に行ったときなど「地の果てか?!」と思ったものだ。。。

高校に進学して初めて電車通学というものを経験した。駅までチャリで行って二駅だが電車に乗り、ご丁寧に乗り換えて一駅、そして校門までは徒歩10分くらい・・・大体、故郷の市街地から出たことはなかった私は「なんて遠くにあるんだろう」と辟易していた。電車では距離感や地理感、方向感などまるでわからなかったのである。しかし部活も軌道にのり朝連の準備など新入生の仕事になってくると、電車での通勤が何とも不便でしょうがなくなってきた。乗り換え駅から直接学校へ歩いても大したことがないことに気付き、そしてさらに「なーんだ、チャリで行っても大したことないじゃんか・・・」何せ生涯で最強の体力を誇る時期である。部活が終わってヘトヘトになっても電車で帰るよりはましだった。

ところが我が校は居住する地区ごとに大まかな通学ルートが規定されており、ある一定距離より近くても、遠くても自転車通学は「禁止」だったのである。(事故を防ぎたかったらしいのだが)学校から見れば私は市外に住むので当然自転車通学の許可が下りない。仕方がないから裏の●森公園にみんなチャリを置いていたのだが、それが近所の住民の苦情となり、定期的な一斉検挙があったのである。考えてみればずいぶん乱暴なことをしたものだ。何せ名前など書いてないからホントに子供と公園に遊びに来て停めている主婦や憩いにやってきている人のチャリまで「根こそぎ」撤去回収してしまうのである。摘発されたチャリは臨時の駐輪場に置かれ、長―い鎖で連結されてしまう。体育教官にこってり絞られ、反省文のようなものを書かされてやっと解放されるのである。私を含む一部の識者はとある文化部の顧問と仲良しになり、一斉検挙のある日を内緒で教えてもらって巧みにかわし続けた。私は「水を飲んではいけない」部活がキツくて夏場は「重罪」とされた原付での通学を敢行していた時もある。

方角的に私の学校は実家を出て東へ向かうのだが、朝連などを除けば通学時間など同じようなものだから大通りに出た時に別の市内の高校に通う元クラスメイトなどとチャリですれ違うことがあった。(通った中学が同じ地区なんだから当然か)こういう時や試合に行って元級友と会ったりすると実に嬉し懐かしかったものだ。
とあるサイトでチャリ通学が話題となり、当時は実家の近くを風のようにかすめて市内の高校へ10数分で通っていた級友が多かったそうだ。まじかよ?!オレんちからでもあの学校までほぼずーっと登り坂だぜ。5キロくらいはあるはずだ。今でも近くの霊園まで車で20分以上はかかるのに、運動部でない女子まで記録を更新し続けたそうだ。

私の学校はと言うとGoogleマップで調べると彼らよりも5割増しくらいで遠かったようだ。東海道線沿いをほぼ一直線に東へ走ってバス通りに入るだけだ。ほぼまっ平らなので結構近く感じたが、西風が強く、部活の帰りは本当にめげた・・・
それにしても若い時の脚力というの恐るべき底なしの力だ。息子は中学生なのに私の高校の2倍は距離のある練習会場まで1時間かけて平気で通っている。私だったら行って帰るだけで正体不明のじん麻疹モノなのに、サッカーの練習をやってくるんだからすごい。
これからの季節、ウォーキングにはとてもよい。しかし渋滞の多い海辺のコースで圧倒的に行動範囲が広いのはチャリだ。最近車道を走るロードバイクをよく見るが、「どこへ行くにもチャリだった」昔を思い出して、今シーズンは「サイクリング」(って死語?)で色んなところを攻めようかな。