近松門左衛門の浄瑠璃「曽根崎心中」に想を得て、角田光代が、独特な曽根崎心中を紡ぎ上げた。
主人公のお初の立場から、現在人の感覚を前面に押し出しながら、江戸時代の苦界に生きる遊女の、あまりにも切なくて悲しい儚い人生を活写していて、胸を打つ。
内本町の醤油商平野屋の手代の徳兵衛と堂島新地の天満屋の遊女お初が、曽根崎天神の森で、心中を遂げる事件が起こった
徳兵衛は主人から妻の姪と夫婦になれと強いられ、江戸に出されることになっており、お初も身請け話が進んでいたので、相思相愛の徳兵衛とお初は、義理と愛情のはざまに追い詰められて、死を選んだのである。
この事件に触発された近松門左衛門が、事件記者よろしく取材して、この事件を踏襲しながら、更に、徳兵衛の友人・九平次を悪人として登場させて、金を借りながら、自分の印判を盗んで証文をでっち上げたと踏み倒して、罪人扱いに祭挙げられた徳兵衛が、切羽詰って、お初を道連れに心中すると言う浄瑠璃を書いた。
まず、文楽で一世を風靡して、更に、歌舞伎にも舞台化された。
この近松門左衛門の原作を、「愛し方も、死に方も、自分で決める」強くて健気な大坂女のお初を、主人公にして、男と女の究極の恋を、豊かな発想を加えながら、現在に甦らせたのが、角田バージョンの曽根崎心中で、女性の立場から描いているので、近松とは違ったストリー展開が、非常に面白い。
私の場合には、近松の原文を読む前に、何度も、文楽や歌舞伎の「曽根崎心中」の舞台を観ているので、その方の印象が強いのだが、小説になると、同じ筋書に近い物語でも、印象が全く違って来るのが興味深い。
舞台では省略される上之巻の「大坂三十三所観音回り」の部分が、この小説では、詳細に描かれていて、幸せになりたいお初の希いが導入部に花を添えて、舞台の冒頭になる生玉神社境内の徳兵衛との出会いまで、かなり間がある。
また、お初の島原や堂島新地での生活や生き様や遊女たちとの交わりやお初の心境などについて紙幅を割いていて、舞台の名場面となっている冒頭の徳兵衛がお初に結婚話を蹴った説明のシーンや、大坂堂島新地天満屋の段で、九平次が、言いたい放題で徳兵衛を詰って、徳兵衛が縁下でお初の足を握り地団太踏むシーンや、夜陰に紛れて逃げ出す場面など、芝居でおなじみのストーリーは、極めて、簡潔に飛ばしているのが面白い。
お初が、何故、島原から、最も身分の低い堂島新地へ格下げになって移ったのかについて、角田は、島原で天神の青柳の禿をしていた時に、青柳が囲炉裏の鍔薬缶を取ろうとして手を滑らせて熱い薬缶がそばで正座していたお初の腿に落ちて、内股に大火傷を負って疵物になったからだとしている。
この焼け爛れた傷口を客に見せないように必死にカバーするも、徳兵衛には、そのままを見せて、お初の愛情の証としているのだが、この事件は、花魁の地位をお初に取られるのを嫌って、青柳がワザとしたと言う同輩のコメントが面白い。
もう一つ、角田の発想で興味深いと思ったのは、曽根崎の天神の森へ向かう道行の途中で、お初が、もしや、嘘をついているのは九平次ではなく、徳兵衛だと言うことは本当にないだろうか、と言う気持ちになることである。
徳兵衛を苛め抜いて育てた業突く張りの在所の継母が、結婚承諾金として濡れ手に粟で手に入れた二貫もの大金を近所の人の説得だけで返すであろうか?、12年もの間音信不通で帰って来なかった徳兵衛の頼みを、近所の人が、おいそれと聞いて、継母を説得してくれたのだろうか?
本当は、継母から銀を返してもらえず、何とか銀を作るために、九平次の判子を盗み手形をつくり返せとにじり寄った・・・
それだとしても、わたしはこの人とともに旅立つことを選ぶだろう。
「そうやった、徳さま、あてらに帰るところなんてもうあらしまへん」
初は言い、そうして徳兵衛の手を握ったまま、(黒い塊の天神の森へ向かって)走り出す。
恋することの幸せに巡り合えて人生の頂点に上り詰めた遊女たちのこの幸せは、本当なのだろうか、
また、あの世を信じるのか信じないのか、信じたとしても、どのようにしてあの世で相手を見つけ出すのか、お初の必死の思いが、徳兵衛や人々との葛藤の中で、目まぐるしく頭をかすめて行く。
追い詰めらて、一直線に天神の森を目指して落ちて行くお初と徳兵衛の物語が、何故、胸を打つのか。
永遠のテーマかも知れない。
主人公のお初の立場から、現在人の感覚を前面に押し出しながら、江戸時代の苦界に生きる遊女の、あまりにも切なくて悲しい儚い人生を活写していて、胸を打つ。
内本町の醤油商平野屋の手代の徳兵衛と堂島新地の天満屋の遊女お初が、曽根崎天神の森で、心中を遂げる事件が起こった
徳兵衛は主人から妻の姪と夫婦になれと強いられ、江戸に出されることになっており、お初も身請け話が進んでいたので、相思相愛の徳兵衛とお初は、義理と愛情のはざまに追い詰められて、死を選んだのである。
この事件に触発された近松門左衛門が、事件記者よろしく取材して、この事件を踏襲しながら、更に、徳兵衛の友人・九平次を悪人として登場させて、金を借りながら、自分の印判を盗んで証文をでっち上げたと踏み倒して、罪人扱いに祭挙げられた徳兵衛が、切羽詰って、お初を道連れに心中すると言う浄瑠璃を書いた。
まず、文楽で一世を風靡して、更に、歌舞伎にも舞台化された。
この近松門左衛門の原作を、「愛し方も、死に方も、自分で決める」強くて健気な大坂女のお初を、主人公にして、男と女の究極の恋を、豊かな発想を加えながら、現在に甦らせたのが、角田バージョンの曽根崎心中で、女性の立場から描いているので、近松とは違ったストリー展開が、非常に面白い。
私の場合には、近松の原文を読む前に、何度も、文楽や歌舞伎の「曽根崎心中」の舞台を観ているので、その方の印象が強いのだが、小説になると、同じ筋書に近い物語でも、印象が全く違って来るのが興味深い。
舞台では省略される上之巻の「大坂三十三所観音回り」の部分が、この小説では、詳細に描かれていて、幸せになりたいお初の希いが導入部に花を添えて、舞台の冒頭になる生玉神社境内の徳兵衛との出会いまで、かなり間がある。
また、お初の島原や堂島新地での生活や生き様や遊女たちとの交わりやお初の心境などについて紙幅を割いていて、舞台の名場面となっている冒頭の徳兵衛がお初に結婚話を蹴った説明のシーンや、大坂堂島新地天満屋の段で、九平次が、言いたい放題で徳兵衛を詰って、徳兵衛が縁下でお初の足を握り地団太踏むシーンや、夜陰に紛れて逃げ出す場面など、芝居でおなじみのストーリーは、極めて、簡潔に飛ばしているのが面白い。
お初が、何故、島原から、最も身分の低い堂島新地へ格下げになって移ったのかについて、角田は、島原で天神の青柳の禿をしていた時に、青柳が囲炉裏の鍔薬缶を取ろうとして手を滑らせて熱い薬缶がそばで正座していたお初の腿に落ちて、内股に大火傷を負って疵物になったからだとしている。
この焼け爛れた傷口を客に見せないように必死にカバーするも、徳兵衛には、そのままを見せて、お初の愛情の証としているのだが、この事件は、花魁の地位をお初に取られるのを嫌って、青柳がワザとしたと言う同輩のコメントが面白い。
もう一つ、角田の発想で興味深いと思ったのは、曽根崎の天神の森へ向かう道行の途中で、お初が、もしや、嘘をついているのは九平次ではなく、徳兵衛だと言うことは本当にないだろうか、と言う気持ちになることである。
徳兵衛を苛め抜いて育てた業突く張りの在所の継母が、結婚承諾金として濡れ手に粟で手に入れた二貫もの大金を近所の人の説得だけで返すであろうか?、12年もの間音信不通で帰って来なかった徳兵衛の頼みを、近所の人が、おいそれと聞いて、継母を説得してくれたのだろうか?
本当は、継母から銀を返してもらえず、何とか銀を作るために、九平次の判子を盗み手形をつくり返せとにじり寄った・・・
それだとしても、わたしはこの人とともに旅立つことを選ぶだろう。
「そうやった、徳さま、あてらに帰るところなんてもうあらしまへん」
初は言い、そうして徳兵衛の手を握ったまま、(黒い塊の天神の森へ向かって)走り出す。
恋することの幸せに巡り合えて人生の頂点に上り詰めた遊女たちのこの幸せは、本当なのだろうか、
また、あの世を信じるのか信じないのか、信じたとしても、どのようにしてあの世で相手を見つけ出すのか、お初の必死の思いが、徳兵衛や人々との葛藤の中で、目まぐるしく頭をかすめて行く。
追い詰めらて、一直線に天神の森を目指して落ちて行くお初と徳兵衛の物語が、何故、胸を打つのか。
永遠のテーマかも知れない。