熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

高峰 秀子著「わたしの渡世日記〈下〉 」

2019年03月27日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   下巻は、戦争終結時点より始まり、戦後の混乱状態の日本や、共産党主導の組合運動で、東宝が分裂して、新東宝になった経緯や、その頃の映画界の状況がビビッドに描かれていて、興味深い。
   当然、高峰秀子もデモや集会に参加したのである。
   当時の激しい労働争議の状況は、テレビや映画での映像しか知らないが、私が参加したデモは、安保反対で大荒れに荒れた学生運動で、京大は激しかったので、良く分からないままに、河原町に繰り出したのを覚えている。教授が、学生集会に登壇して、戦えと烈しくアジっていたし、時計台にチェ・ゲバラの垂れ幕が掲げられていたと言う何が何だか分からない異常な時代だったのである。

   上巻で、小学校さえ真面に出ていない高峰秀子が、どのようにして知性と教養を積み重ねて来たかについて書いたが、山本嘉次郎に感受性の重要さを教えられてから、必死で勉強したが、その自己流勉強法は、やはり、「耳学問」であったと言う。

   対談や座談会に努めて出席し、相手の言葉から一滴でも二滴でも栄養を吸収しようと言う魂胆だった。
   手当たり次第に、見る、聞く、読む、がむしゃらに、落ち葉をかき集める熊手のように、知識と名のつくものを、自分の手元に引き寄せた。
   「人気女優」の特権というか色々な有名人とも会う機会があるが、途方もなく立派な谷崎潤一郎と小津安二郎を知って、人間の可能性を見るような気がして、当然、心境の変化を来して、ガリ勉を始めた。という。
   各1章を割いて、キッチリ山の吉五郎の小津安二郎と鯛の目玉の谷崎潤一郎について、高峰秀子の両巨匠論を展開しているのだが、身近に呼吸を共にして接してきた人物評あるので、非常に興味深い。

   芸について、世阿弥の「風姿花伝」を引いたりして持論を語っているが、興味深いのは、「最も本当らしい嘘」を演じるのは、高峰秀子自身の「真実」の感情を表情に託して、小島やお玉、つまり、他人の人生を生きることだと言う。
   谷崎潤一郎の葬儀で、高峰秀子の泣き顔を見て、大学教授が、評論で、「斎場でも映画でも高峰秀子は同じ顔であり、演技をしていた」と書いたのを見て、カッとトサカにきて、「私の真実の顔は、演技でも真実でも一つしかなかった」と息巻いているのだが、けだし至言で、流石に、高峰秀子だと思った。
   もう一つ、人間になるには、俳優になるには、「ものの心」を「人間の心」を知る努力をすることで、「人間の痛さが分かる人間」になることで、「自分が本当に年老いた人になった思えば、演技も自然にそうなる」とも言っている。

   高峰秀子は、上巻で、子役だった昭和の初め、映画女優の殆どは、銀座や新宿あたりの喫茶店のウエイトレスか、チョコレート・ガールと呼ばれた製菓会社の広告用モデルから選ばれ、ただ「美人」でさえあればよかった、演技もヘチマもないし、勿論、学歴も必要ないし、「及川道子」と「岡田嘉子」くらいしか「才色兼備」は居なかったと言うから、酷い時代だったのであろう。
   高峰秀子の場合には、5歳から子役として映画入りしたのであるから、見習いというか、オン・ザ・ジョブトレイニングで、映画の撮影現場そのものが、映画教習所であり演劇学校であったと言うことであろうか。
   「栴檀は双葉より芳し」で、子役の時、台本1冊を丸暗記していて、花柳章太郎の「松風村雨」でプロンプター役を果たしたと言うのであるから、中村メイコばりの凄い子供役者だったのであり、あれほど多くの大作映画に出演して、殆どが主役だったと言うのだから、大女優にならない筈がないということであろう。
   欧米の舞台俳優や映画俳優、特に、シェイクスピア役者などでは、オックスブリッジやロイヤル・アカデミーなど高級教育機関で正規の芸術を学んで舞台に立っている人が結構いるのだが、チャップリンのケースもあり、
   いずれにしろ、日本の場合には、宝塚出身や歌手出身者など色々で、欧米とは違って、一寸、特殊なのかもしれないと思う。

   一つ興味深いと思ったのは、日本の政治家の映画への関心のなさについて、昭和33年に「日本映画見本市」でアメリカ旅行した時に、どこの会場でも、政治家や市長が姿を見せて、異口同音に、「映画は、政治家に取って、大切な勉強の資料で、良きにつけ悪しきにつけ、その時代を反映する鏡のようなものだ」と言っていたが、日本の政治家のセリフは、「私は映画に縁がない」だと述べていたことで、多少なりとも映画に関心をていたのは、宮澤喜一、大平正芳、佐藤栄作の3人だけだったと言うのが面白い。

   一緒に、多くの名作を残した木下恵介監督との出会いが、東宝の青柳某の不始末だったと言うのが何ともま抜けた話だが、一度は、出演を蹴っており、改めて誘いが来たのが、本邦第一作の総天然色映画「カルメン故郷に帰る」と言うことで、感度の鈍いカラー撮影が、如何に大変だったか克明に描かれていて興味深いが、「二十四の瞳」など、木下監督との映画つくりや交流描写が、当時の映画界を彷彿とさせて面白い。

   高峰秀子の映画人生が、名声を博しながらも、実生活では如何に悲惨で大変であったかということは、この本で克明に描かれているのだが、しかし、映画女優として絶頂期にありながらも、パリに6か月、アメリカに1か月、特に確たる目的もなく、世間並みの生活をしたことがないので、普通の人間同士がどれほどの親切や愛情を持ってお互いに支えあって生きているかを自分の目で見、経験したかったために、「時間を稼ぎに」日本を脱出したと言う。
   仏文学者渡辺一夫教授の紹介で、元下宿先に滞在して、思いのままにぶらぶら過ごしていたようだが、パリの燃えるような夕焼けの空を、懐かしく楽しく思い浮かべることのできる自分を幸せだと思っている。と書いているから、貴重な経験であったのであろう。

   忘れられた筈だと思って帰ってきたら、「二十四の瞳」ほか、超多忙の日々、
   松山善三との結婚など、興味深い話が続くのだが、話の大半が、30年代初めころで終わっているのが、何となく寂しい気がしている。
   
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