熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

四月花形歌舞伎~「仮名手本忠臣蔵」五・六段目から十一段目

2012年04月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   仮名手本忠臣蔵では、十一段目は、高家表門から炭部屋本懐の場までの討入シーンなので、私など、蛇足の舞台だと思っているのだが、今回の夜の部は、九段目の山科閑居がないので一寸寂しい気がするけれど、討入をとばすわけには行かないのであろう。

   五・六段目の勘平が主役の段は、見慣れない舞台だと思ったら、五代目菊五郎の決定版とも言うべき音羽屋型ではなく、上方版の演出であったようで、藤十郎の「鴈治郎芸談」によると、相当違いがあるようである。
   勘平が猪に向かって打つ二つ玉について、上方では「二つ玉の強薬」と解して二つ分の火薬の玉一発だが、東京型は、2発撃つのだと言うことくらいは分かっていたが、勘平が切腹の時でも、東京のように血糊で顔を汚すと言ったことをしないし、100両もおかやに50両残さずに、皆持って帰るなど、些細なことだが微妙な差が面白い。

   主要な違いは、勘平の人間像の解釈の差で、浅葱の紋服に着替えて応対し、形容本位に運び、武士として死んで行く音羽屋型に対して、上方はすべて丸本本位で、武士に戻りたい一心の勘平が、ついに武士に戻れないままに死んで行く哀れを描くことに力点があるのだと言う。
   おかやが、紋服に着替えようとする勘平の紋服を取り上げて許さず、はじめて、死に行く勘平の後ろからおかやが武士の象徴である紋服をかけてやることによって、死んで初めて、武士の姿に戻れたと言うことであろうか。
   東京型は、役者本位で、格好良く見せて魅せる、その典型が、色男の勘平で、浅葱の紋服を着るのも、勘平が引き立ち映えるからで、上方型は、あくまで、原作尊重、丸本本位で、作者の精神を重視する、と言うのである。
   前回にも書いたように、私は、そんな人間勘平を、亀治郎は、実に、誠心誠意、言葉一つ一つ、一挙手一投足に神経を集中して、丁寧に演じていて、感動的であったし、菊五郎の勘平とは違った新境地を開いていたと思う。
   
   さて、祇園一力茶屋の場だが、團十郎や仁左衛門、幸四郎など重鎮が演じていた寺岡平右衛門を、二回見てやっと慣れたと思っていた染五郎が、今度は、大星由良之助を演じている。
   脇役のおかるの福助と、斧九太夫の錦吾は、ベテランだが、若手の松緑の平右衛門共々、染五郎が、どのような大星由良之助像を描きあげるのか、世代の交代への期待も含めて、非常に興味があった。

   再び、藤十郎説だが、
   「この場の由良之助は、紫に相応しい色気と鷹揚さ、さらに大事を忘れぬ肝の強さと貫録がなくては叶わず、四段目より難しいと言われている。」
   また、七段目の由良之助は、色気があるし、義太夫らしい人間になっているから好きであり、由良之助の衣装は紫と決まっているから、紫の衣装が似合わないと由良之助にならないのだとも言っている。
   この紫と言う言葉が、何を意味するのかが、問題だが、抽出が困難であった所為もあろうが、昔から、洋の東西を問わずに、高貴な色とされていて、ウイキペディアによると、「紫が王や最上位を表すようになったのは、ローマ帝国皇帝が、ティルス紫で染めた礼服を使ったことに始まり、以来、ほとんどの国で、王位や最上位を表す色に紫を使うようになり、こうした歴史の経緯により、紫は「王位」、「高級」の連想色となった。」と言う。

   いずれにしろ、藤十郎の意図する由良之助像を演じ得るような立派な役者がどれだけいるかと言うことだろうが、私自身は、大石内蔵助が、一力で遊んだくらいで、仇討を諦めたと吉良方が解釈したとは思わないし、史実なら、内蔵助が、どんな思いで一力などで遊興に耽っていたのか、その心境を知ろうとすることが先決だと思っている。
   どうしても、芝居であるからと言う気持ちと、本当の内蔵助は、どうあったのかと言う疑問が重なり合って、舞台を見てしまうので、複雑な気持ちだが、例えば、この段では、主題の一つは、フィクションの、寺岡平右衛門(松緑)の忠義心で、これに、実の妹である切腹した勘平の妻おかる(福助)が絡んでくる。
   仇討に加わりたい一心の平右衛門が、由良之助の代わりに、顔世御前から来た手紙を盗み読んだおかるを、殺そうとすることで、忠義心を示そうとして、それを立ち聞きしていた由良之助が、心底見えたとして、平右衛門を東下り同行を赦し、同じく手紙を縁の下に隠れて盗み読んでいた斧九太夫(錦吾)を引き出して、おかるに刺させて勘平の手柄にすると言う結末なのだが、この芝居の筋書きからは、藤十郎の言う様な紫の似合う高貴で肝の据わった偉丈夫のイメージなど出て来ないし、無理がある。
   と言うことは、実際の大石内蔵助像を重ねて、由良之助を想像しながら見よと言うことである。
   
   さて、染五郎の由良之助なのだが、紫の衣装が似合うとしても、どうしても線が細い分、海千山千の老獪な内蔵助像からは少し距離があり、重厚さと貫録に欠けると言うよりも、どこか違うのである。
   内蔵助は、上方の学問芸術の世界にどっぷりとつかり、友人の近松門左衛門から世間の情報を十二分に得ており、塩の専売でビジネス拡大を画策していた名うての実業家であり、とにかく桁外れの傑物で、一力の遊興も生半可ではなく徹底していた筈で、由良之助を芝居として上手く演じようとすればするほど、器用貧乏と言うか、薄っぺらな演技になってしまう。
   前回にも書いたが、良くも悪くも年輪を経て積み重ねた人間としての重みが、どうしても必要な役があり、特に、このような本来の姿ではない異次元の世界の役には、そうである。
   多くの名優や偉大な人形遣いたちでさえ、二の足を踏んで時の来るのを待ったと言う役は幾らでもあり、その時まで延期するのが良いのか悪いのか、或いは、少しずつ積み重ねて行くのが良いのか分からないが、そんな気がする。
   
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