熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」

2008年04月19日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   帝国劇場で松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」が上演されている。
   10年ほど前に一度観て、今回は二回目の鑑賞だが、2時間休憩なしの舞台で、かなりテンポの速いメリハリの利いたミュージカルでもあり、結構楽しませてくれる。
   セルバンテスの「ドン・キホーテ」を底本にした物語だが、子供の頃にダイジェスト版を読んだ程度で、風車に突進して振り飛ばされるバカな気違い騎士の記憶しか残っていなかったが、もう何十年も前に、初めてマドリッドに言った時に、ホテルの前のスペイン広場に、やせ馬に乗った痩せ型長身のドン・キホーテとロバに乗った太っちょで小柄なサンチョ・パンサの銅像があったので、とうとうセルバンテスの国に来たのだと言う実感が何故か強烈に湧いてきたのを思い出す。

   このミュージカルだが、松本幸四郎の演技を楽しむと言うことに尽きるとしても、例のビクトル・ユーゴの「レ・ミゼラブル」と同じ様に、歌と踊り付きの大衆劇と言う初期の位置づけから大きく成長して芸術性を帯びた、更に、思想的な意味まで持ったミュージカルとして見ると面白い。
   セルバンテスが活躍したのは、無敵艦隊がエリザベス女王に駆逐されたとは言え、歴史上スペインが最も光り輝いていた頃で、文化文明の頂点からの視点であり、その面から見れば、結構、意味深な舞台となり、俄然興味が湧いてくる。

   騎士道物語を読みすぎて頭のおかしくなった郷士ドン・キホーテが、自ら憧れの伝説の騎士になったと思い込み、正義感に燃えて世直しの為に、遍歴の旅に出ると言う話を、何度も牢屋にぶち込まれていたセルバンテスが、セビリアの牢獄で発想したと言うのであるから、とことん、世相を風刺してカリカチュアに仕上げており、それを感じなければ、只の馬鹿話に終わってしまう。
   早い話、風車に突っ込んで飛ばされるドン・キホーテは、さしずめ、オランダを領有する為に攻め込むスペインそのもので、スペインの凋落を暗示していたのかも知れない。

   宗教裁判の為に牢獄に連れてこられたセルバンテス(幸四郎)が、牢名主(瑳川哲朗)に大切な原稿を取り上げようとされるので、それを避けるために、牢の中の泥棒、人殺し、売春婦などの犯罪人を役者に仕立てて、自分自らが劇中のドン・キホーテになって、模擬裁判を演じると言う趣向で話が展開する。
   当然、ここでは、原作に題材を取ったドン・キホーテの騎士物語りに対する幻想が展開されるのだが、重要な話の筋は、城と勘違いして入った宿屋の女中でパート・タイマーの売春婦アルドンサ(松たか子)を理想の女性・思い姫のドルネシアとして崇め奉る所に焦点が当てられている。
   ドン・キホーテのドルネシアへの思いがアンドルサの心の中に生き続けていて、ならず者のロバ追い達にズタズタに陵辱されたにも拘らず、遍歴に疲れて死の床にあるドン・キホーテの枕元で、元のドン・キホーテに戻って自分に与えてくれた輝かしい夢を取り戻して欲しいと哀願する。
   これに触発されて、ドン・キホーテの夢と情熱が蘇る。

   田舎の旅籠を城と思って宿屋の主人(瑳川哲朗)に騎士叙任式を執り行わせる騎士道精神へのこだわりなどは、ドルネシアへの崇拝と同じでドン・キホーテの幻想へのカリカチュアだが、これに、ドン・キホーテを正気に戻そうと悪戦苦闘する故郷の神父(石鍋多加史)やカラスコ医師(福井貴一)、アントニア(月影瞳)、家政婦(荒井洸子)、床屋(駒田一)などが入り乱れてのテンポの速い舞台展開なので、中々、話の筋が掴み難い。

   当時殆ど形骸化していたと言われている騎士道だが、優れた戦闘能力を持ち武勲を立てること、勇気や高潔さや誠実さを持って忠誠を尽くすこと、弱者を守ること、信仰を重んずること、等々多くの美徳と行動規範を備えるのみならず、騎士が身分として定着し宮廷文化として洗練されてくると、宮廷的愛(courtly love)、すなわち、高貴な貴婦人への絶対的な崇拝と献身が重要な意味を持ってきた。
   当然、この対象となる相手は、身近におれば問題ないのだが、君主の奥方であったり既婚者であったりする場合もあり、勿論、肉体的な愛ではなく、精神的な結びつきが大切だと言うことのようである。
   いずれにしろ、騎士たるドン・キホーテには、必然的に、思い姫ドルネシアが必要であり、特に、このラマンチャの男では、安宿の売春婦であるアルドンサを思い姫に祭り上げるのであるから、この辺の騎士道への入れ込み、幻想の強さを理解しないと只の気違いと勘違いして話の辻褄が合わなくなる。

   ところで、アルドンサとドルネシアを演じる松たか子だが、病床にすがり付いて「アルドンサ、アンドンサ・・・」と歌い出だす天使のような歌声が実に感動的で美しい。
   「ひばり」で見たあのはちきれるようなパンチの利いた素晴らしい演技を彷彿とさせるような舞台だが、結婚した所為かどうか分からないが、娘から一寸脱皮した女としての魅力が出てきて中々意欲的で素晴らしい。
   前回は、むんむんするような女の魅力全開のアルドンサの鳳蘭の舞台だったが、この時とはまた別な新鮮な感じのドルネシアに比重を移した松たか子の舞台であった。

   松本幸四郎の演技は、中々、素晴らしいバリトン張りの歌唱で、ロンドンのサドラーズ・ウェールズ劇場で「王様と私」の舞台を見ているが、歌舞伎よりも、ミュージカルや蜷川の「オテロ」の舞台の方が良いのではないかと思っている。
   特に台詞回しなど、歌舞伎の場合、特に、古典物での幸四郎は、独特な口の中にこもったような語り方をするのだが、西洋物の舞台の方が、はるかにストレートで発声法がしっかりしていて分かり易いような気がする。
   とにかく、世界に通用するミュージカル俳優は、松本幸四郎をおいて他に考えられないし、蜷川に、前回のRSC版「リア王」で、サー・ナイジェル・ホーソンより幸四郎の方が良かったのではなかったかと言わしめており、高麗屋のカンバンもあろうが、もう少し、洋ものの舞台に力を入れても良いように思う。

   前回、アントニアを歌っていた松本紀保が、幸四郎の演出助手としてミュージカル演出技術の継承を手がけているようだが、素晴らしいことである。
コメント
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