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ぽかぽか春庭「BOROは美しい」

2013-05-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(4)BOROは美しい

 アミューズミュージアム、展示内容紹介のつづきです。

 忠三郎は、アイヌ文化の民族調査、青森県の民俗民具の調査に研究を広げたときのころを回想して述べています。
 「私が出会った時は、BOROという思いがしませんでしたね。ああ、こんなに布きれを大事にして、粗末にしないで、いのちあるものとして大事にツギハギしたんだなと。感激しましたね。涙が出ましたよ。こんなにモノを大事にする人たちがね、この雪国、青森にいたんだと

 以下、民具、刺し子を求める旅に寄せる思いを綴った田中忠三郎の『ものには心がある』からの引用です。(p28暗く貧しい生活の中でも「女として美しくありたい」)

 民具を求める旅の途中、あるお婆さんからこんな話を聞いた。
 「台所で泣くと、『女は台所で泣くものではないわ』と姑から言われ、夜、寝所で泣くと『うるさい』と夫が怒る。我慢しろと言われるばかりで、女には泣く場所すらなかった

 現金収入の少ない当時、特に山村部に住む人々は、衣食住すべて自給自足の生活を余儀なくされていた。人々がどうにか身にまとっていた「衣服のようなもの」から、現代の「衣服」に至るまでの道のりは長かった。普段着、労働着、晴れ着、、、、と多様な衣服が、様々な材料で作られてきた。衣服作りは婦女子にとって、日中の激しい労働を終えてから、睡魔と格闘しながら行う夜なべ仕事であった。
 厳寒の冬、板の間に座って針仕事をする主婦は、家族の者たちがみな寝静まった後、囲炉裏の残り火をかきわけ、その明るさと、わずかな暖で作業をした。素肌の片ひざの上で朝の繊維を糸による仕事は言語に絶する苦痛を伴い、感覚のまったく失われた冷え切った膝を道具として使ったという。
 木綿の衣服は暖かく柔らかい。藩政時代から禁制が解かれた明治に入っても、木綿の服はなかなk手に入らず、貴重品として扱われ、小布を継ぎ足して胴着とする程度であった。
 寒冷地帯には、何年かおきで凶作がやってくる。班と大小の地主等による圧政、自然、風土との戦いは、まさに生き地獄絵図そのままであったのではないかと想像される。

 このような食もおぼつかない状況の中でも、婦女子にとって衣は欠かせないものであった。「一枚の麻布が、多難な作業の末に出来上がる。それを紺に染め、麻布の荒い目を木綿糸で刺し縫いすることは、防寒、保温、補強の用便だけでなく、女として美しくありたいという願いがあり、だから「こぎん」「菱刺し」の模様を作りだしてきた。「暗く貧しい青森」と言われた地で、なぜ豪華で緻密なこぎんや、色鮮やかな菱刺しが生まれたのだろう。そこには自然と共に暮らした人々の英知があり、四季折々の風土の中で素直に生きた証がある。南部の菱刺しは、樹皮衣、麻布衣からの数千年の衣服の歴史の中で、最後の麻布織として大正の末期にある、閑村の片隅でその灯を消してしまった。だからこそ、一枚の菱差しの「三幅前だれ」に、当時の婦女子の衣に対する業とも執念ともいうべきものを私は感じるのである。女の哀感と寒気を語り伝えるものであろう。


 アミューズミュージアムに展示されている、青森農家の女性用の下着。生活が豊かになれば、このような下着などは「恥ずかしいもの」としてまっさきに捨てられてしまうところの布切れでした。私だって履き古したパンツを保存しておこうとは思わない。しかし、忠三郎は「これも布の美、日用の美」として集めました。



 田中忠三郎自身は、青森の富裕な商家の生まれ育ちであったけれど、常に貧しい人の側に身を寄せ、ひとりひとりを温かいまなざしで見つめ、その暮らしを尊んでいます。
 アミューズミュージアムのボロ展示が全体としてあたたかな雰囲気に包まれているのも、忠三郎がこれらのボロを愛用してきた農夫農婦たちを尊敬の思いで見つめ、かれらの手仕事、ボロ繕いを尊重した上で収集しているからだろうと思います。
 
<つづく>
コメント (2)
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