20250527
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記万博⑦(7)チケットゲットの件万博災難の件
大阪万博、「行列しない万博」とぶち上げておいて、初日以後、入場ゲートはじめパビリオンやレストラン前に長蛇の列。雨がふると雨宿り場所なし。リング下は吹き込む雨にびしょ濡れになる。歩き疲れても、濡れてない休憩ベンチ遠い少ない。日が照ると日陰ナシ熱中症必至。ラーメン3800円ほか食べ物高いし、予約しても食べるまで数時間待ち。自動販売機で売っているドリンクは旧統一教会経営の企業、などなど。悪評、不平不満噴出のエキスポ2025ですが、行ってまいりました。
ドリンクの販売契約は解除するとの発表ですが、すべてにわたって後手後手の会場運営に、万博後のカジノ運営優先なのかと下種の勘繰りも生まれます。そうそう、会場に大発生した虫対策は、アースとフマキラーが乗り出すそう。この殺虫剤の費用も税金かしら。たぶん、カジノの虫対策として契約がとれるんだろうな。今回パビリオンを出展した企業、建設に関わった企業が、ダミー会社を含めて、どのようにカジノに関わっていくかを、国民府民は注視していくべき。金にならないことに、ボランティア参加している企業はないはず。
懸賞生活を続ける娘、エキスポ2025チケット4枚当選しました。企業が押し付けで買わされたチケット。商品買って応募すると当選する懸賞にした。2つの企業のチケットがあたりました。協賛企業は、中抜きの万博運営でしこたま稼いでいるのですから、当てがわれたチケットを懸賞の当選品にするのは痛くもない。
母娘のふたりで5月8日9日の二日間観覧決定。ホテル代は、スーパーの買い物で貯めたポイントに現金を足して、スーパー系列のホテルに宿泊。新幹線代は自腹です。娘が乗り物に弱いので、少しでも快適な移動を、と高望み。母だけ夜行バスで大阪に行こうとしましたが、ひとりで大阪に着いても、乗り換えとかわからず、万博会場で落ち合うのは不可能と、同行決定。
万博が少々しょぼかったとしても、無料大好きHALですから、出かけることに躊躇なく、意気揚々と大阪へ。
懸賞当選したチケットで入場するのだから、そこで運は使い果たしている。
1日目。2万歩あるいてくたびれはて、風呂も入らずに寝ました。翌朝、風呂に入り、うち開きの風呂場ドアを開けました。足の置き所が悪く、ドアが左足親指にどしんと当たりました。血が出ました。自分の感覚だと、たぶん、親指の骨、ひび入ってる。
娘は医者に行ったほうがいいと言うのだけれど、行きたくない。去年の今頃、パソコンキーボードを右足小指に落として、レントゲン撮りました。小指の骨折れてるという診断でしたが、シップのほかに治療ナシだったので、今回も医者行っても治療なしだと思います。親指と人差し指を括り付けてできるだけ歩くなって医者が言うだろう。チケットゲットで運は使い果たしているので、こんなメに会うのもしかたなし。
2日目はバス移動にしました。できるだけ歩かないように、と思っても、会場内の移動は歩き以外にないのです。障害がある方や高齢者が事前に申し込みをしている電動車が園内を移動していましたが、当日申し込み分もあれば、いいのにと、うらめしい。
2日目、足の負担を考え、予定より早めの帰宅を決めました。会場内レストランは長時間待ちですから、新大阪駅で駅構内の店で晩御飯を食べることにして、17時すぎ、夢洲駅へ。地下鉄中央線に腰を下ろし、背中のリュックを下ろしてハタと気づきました。肩にななめがけの合切袋(スマホ、財布、保険証など)は持っているけれど、がらくた入れのトートバッグがない。中には水筒とかタオルハンカチとか、がらくたしか入っていないので、あきらめるべきか、娘におそるおそる告白すると、とにかく戻って落し物センターに届けようと、東ゲートへ逆戻り。係の人が落し物センターに連れて行ってくれました。トートバッグの外観やなかに入っているものを説明する。「えっと、水筒とタオルハンカチ、ティッシュとパン」
パンは、レストラン長蛇列で食べ損ねた場合の保険として持ち歩きました。
係の人が電話で問い合わせて「中央なんたらセンターに届いている」という。落し物がちゃんと届けられる、なんと良い国ニッポン。現金はだめだけど、がらくたトートバッグは届く。(これまでの人生で、2万円のもらいもの傘は出てこなかったけど、千円の傘は届いていた)。
母は足が痛いだろうからと、娘が往復30分かけて、中央なんたらまで取りに行ってくれました。ありがたし。早く帰るつもりだったのに、結局予定の新幹線の1時間ほど前に新大阪につきました。レストランは無理だから、駅弁を買う。娘は近江牛焼肉駅弁1600円。落し物をとりに行ってくれたごほうび。母はトートバッグの中の残りモノパンをかじる。自分への罰。
新幹線は1時間早めることができて、最終便より前には自宅に戻ることができました。いやはや、足の指は痛めるし落し物はするし、毎度毎度失敗なしに旅は終わらない。
娘は、スマホと格闘してイタリア館やウズベキスタン館、カナダ館、三菱館の予約をとってくれました。スマホ苦手な高齢者には、予約を入れることなどできないことで、予約なしになんとかなるだろうと出かけた老夫婦は、大屋根リングを一周し、いくつかのパビリオンの外観を見て、疲れ果てて帰った、というようなインタビューをテレビで見て、私よりはスマホに強い娘がいてよかったなあと。娘とてスマホネイティブの10代20代に比べると、悪戦苦闘だったろうと思います。3日前の0時に受付開始の予約スマホメール合戦では数秒で予約終了。0時10分には、すべての予約が満杯。なんだかなあ。デジタル社会では高齢者はものの数に入っていないのでしょうが、落ちこぼれ感はんぱない。
なんだこりゃあ、と思った万博キャラのミャクミャク。デザインはミスドのポンデリング似だけど、ぜんぜんかわいく思えない。けど、おみやげ用のぬいぐるみなどは売れているらしい。私も写真撮りました。万博に来た証拠写真と思って。
そんなこんなで、私にとって、はじめての万博でした。
5月8日、朝4時起き。5時には最寄り駅から電車にのって6時には新幹線乗車。早起きしたのでうつらうつらの中、70年万博の年の労働の思い出が車窓を通り過ぎていく。楽しみにしていた「富士山を見る」は、頭に雲をまとった姿で、シャッターきりませんでした。
2025万博宣伝のために、1970万博の振り返りがメディアに氾濫しました。いわく月の石、いわく人間洗濯機。太陽の塔。振り返りはキラキラしています。未来の夢にあふれていました。
娘には「1970年は、母は東京に出てきたばかりで、お金もないし、とても大阪に行く余裕はなかった」と述懐したのですが、ほんとうはちょっと違います。
お金がなかったのは事実ですが、、、団塊の世代の70年事情など、つらつらと振り返ると。
私の周囲の若者は「70年は安保の年」という人のほうが多かったんです。私も70年万博は、70年安保闘争をつぶすための目くらましだという説、さもありなん、という感覚でした。団塊の世代にとって、10年前の60年安保闘争を担った世代が残っている環境でしたから、学校や職場で「万博が~」なんていう話をしたら、10年年上の世代ににらまれること必至。「俺たちは60年安保を阻止できなかったから、お前たちがなんとかせぇ」なんて言われてもなあ、という感覚で迎えた70年。68年69年の学生紛争で燃え尽きてしまった団塊たちの70年。私も誘われてベ平連のベトナム戦争反対デモにくっついていった覚えはあり「ベトナム戦争反対」とシュプレヒコールを叫んだ覚えはありますが、アンポ反対と叫んだ記憶はない。ちょこっとべ平連うしろにくっついただけなのに、ベトナムが平和になったのは、きっと私のデモ練り歩きも貢献したに違いないと思い込める自己評価の高さ。
学生闘争が潰れたのは、万博めくらましの成果というより、学生闘争そのものが風船がしぼむがごとく終息化したゆえだったように思います。1968年度には67大学、1969年度には127大学において火を噴いていた 学園紛争が、私が東京に出てきた1970年には、一部の大学では続いていたものの、全国的には鎮静化していきました。ただし、私が在籍した私立では、70年71年72年と学生による学園ロックアウト封鎖が実施され、授業は一回か二回やると中止。学期おわりに教授宅へレポートを送付すると単位がもらえました。私は医療労働者として、せっせと労働しました。
労働の成果。「衛生検査士」という資格試験を受け、一発合格。(衛生検査士は臨床検査技師の下位資格で、看護師に対する准看護師にあたる資格です)。自慢じゃないけど自慢するけど、通常は2~3回受験したのち、4回目くらいで合格すれば上出来といわれて「1回めはおためしだから、不合格でもがっかりしないで」と言われていたんです。一生の幸運をここで使い果たしたのかもしれない。学校の授業がないので、臨床検査の勉強時間はとれて、白血球像の分析法とか、寄生虫卵の見分け方とか、顕微鏡のぞいてしっかり学びました。ただし、私が学んだ程度のことは、赤血球の数え方など顕微鏡覗いてカチカチと数取器で数える方法はとっくの昔に機械化され、たぶん、私が受け持った業務のほとんどは機械化されていると思います。
1970年に二十歳だった春庭も55年たてば75歳です。さらに55年後、次に日本で万博があるとして(たぶん、ないと思うけど)、130歳となった身は足が動くこともならず、、、って、生きてないよね。
1851年に第1回万国博覧会がロンドンで開催されてから、ひとつの国が会場になる万博は、今世紀中にひとまず世界への役目を終えるのではないかと思う。
5月8日、8時すぎ大阪駅着。
新大阪駅での恒例到着記念。
宿泊のホテルに荷物を置き、本町駅から大阪メトロ中央線で夢洲駅へ。
ガンダムは、お台場で見たからいいようなもんだけど、片膝ついた姿は、大阪万博だけの特別スタイルだというので、ごいっしょに記念撮影。たぶん、大屋根リングより丈を高くしちゃいけないので、原作にはいっさい出てこないという片膝つきスタイルになったんだろう。万博終わったらどこ行くのか知らないけど、立て!ガンダム!私も親指痛いけど立ちます!
観覧客についての印象。平日だから、全体的に高齢者が多かったです。若い年代は、小学生の遠足中学生の社会科見学高校生の修学旅行。そろってぞろぞろ歩いて、団体予約ができたひとつを見て、リング歩いて終わりってくらいかな。子供たちの胸によい思い出として残るといいなと思います。次の図工や美術の時間には、必ず万博の絵を描かされる。
小学生へのテレビニュースインタビューで、「一番の思い出は、ガンダムの前で写真をとったことです」と語る子がいました。ガンダムの館の予約とるのは超難関だそうで、たぶん小学生団体は館内に入っていないと思います。写真を撮ったことだけでも思い出に残ってよかったとも思いますが、ガンダム写真が一番の思い出になる万博って、50年後まで一番の思い出になるのかなあ、と。
「太陽の塔の中を見たことと月の石を見たことは、55年たっても忘れない」と語る中高年が、今回の万博にもきているだろうし、私のように55年前には見ることはなかった、という高齢者も来ている。今回万博を見た子供たちが、55年後の未来を、今よりよい社会にしてくれることを願うばかり。
一日目夜、宿泊の御堂筋、イルミネーションがきれいでした。東京は冬の間イルミネーションが青山通りとかあちこちで輝くけど、大阪は5月も光ってるなあと思ったら、今年度は万博の開幕に合わせて4月から特別に点灯しているって。「輝く未来へつなぐ光のシンボルストリート」をテーマに、万博カラーライトアップ。光物すきですから、歓迎です。未来が輝く光でありますように。
以上で春庭の2025万博話おわりです。
<つづく>