孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

植民地根性を見たようで

2015年02月21日 | 日記
最近はテレビを見なくなって、その分 youtube やBSなどを観るようになってきました。多分、どれも似たような民放のバレエティー番組に飽きたからでしょう。

そんなとき、BSで以前訪れたインドネシアの仏教遺跡、ボロブドゥールの放送をやっていたので、懐かしさで見入ってしまいました。ジョグジャカルタという街にある石でできた巨大な仏教遺跡です。この街にはもう一つ、プランバナンというこちらも仏教遺跡に負けないくらい巨大なヒンドゥー教の遺跡群があり、どちらもユネスコの世界遺産に登録されています。

こぎれいな箱庭に監禁されたような、シンガポールの生活に飽きた頃、インターネットで偶然見つけたので、すぐにLCCを予約し、格安ホテルを探して週末を利用して行って来ました。即断即決でした。

インドネシアに着くと、街の雰囲気がシンガポールとは打って変わって、いかにも東南アジアだなあと思わせてくれ、そのシンガポールとは違う、少し小汚い感じが私の性格に合っているのか、なんとも心地いい気分にさせてくれました。

ボロブドゥールは、長いこと森に眠っていた遺跡だったそうですが、見事に復元されていて、そのデカさは想像をはるかに凌いで、思わず息を飲み込みました。曼荼羅を立体的に表現したそうですが、その容姿を写真に撮ろうとすると、かなり離れないと無理なくらいでした。

石段を上って石の回廊を歩いて歩いて、汗だくになってしまいましたが、一番上まで行くとストゥーパという籠のような中に大きな石の仏像が鎮座していて、意味はよくわかりませんでしたが、何となく心を和ませてくれる気がしました。

現地のガイドがあちこちで立ち止まっては、小グループの外国人観光客を伴って遺跡の説明をしていました。日差しは強かったですが、高台にあったせいか、少し風が吹いていて耐えられないほどではありません。それでも、現地の人は日傘をかざすというサービスで、チップを稼ぐ仕事をしています。ゴルフをするときに使うような、でかい傘を横から観光客にかざし、小銭をせびるのでしょう。

かつての宗主国・オランダはこの国をどうやって350年もの間植民地支配したのか、よもや忘れたわけではないでしょう。農民は、ほとんど奴隷扱いで、言われた商品作物をオランダのために作らされ、食料が不足して餓死者が続出し、人口が激減しました。

愚民政策で、教育を受けることは許されず、いくつもある言語は故意に統一されませんでした。民族や宗教や言語が違う部族を争わせることで、団結をさせないという、「分割統治」を徹底し搾取を続けたのです。しかも、ごく少数のオランダ人たちはそれをインド人や華僑を使ってやってきたのです。

そして、ちょっとしたきっかけが、積年の恨みを一気に集結させ、民族を団結させ戦いの末、見事に独立を勝ち取ったのではなかったか?

私はそういう背景のある国の人が、外国人観光客に媚びへつらうように、後ろから中腰になって日傘をかざす姿を目の当たりにして、ああ情けないとちょっと失望し、いや彼らも生活のためなのだろうと同情し、同時に何百年も酷い植民地支配を続けてきた当時の外国勢力に強い憤りを改めて感じたのでした。

多文化共生はどうもなあ・・・。

2015年02月20日 | 日記
異文化と触れ合うことは大好きだが多文化共生と言われると、私は腰が引けてしまう。それは今に始ったことではないが、シンガポールに1年弱住んだ結果、ますます腰が引けてしまうようになったと思う。

特に恨みなどないが、真夏の海岸で見かけるラテン系の集団などは、喧しいし女性の格好などまるでリオのカーニバル並みだし、私は直視できない。彼らは集まってみんなでバーベキューなどで盛り上がるのが大好きなようで、ちょっとした日陰さえあれば、鉄橋の下でも大音響のラジカセで大騒ぎしているのを良く見かける。

老人介護施設などでも、人手不足からかフィリピン人やインドネシア人を雇う制度が進行中だ。フィリピンの女性は皆明るいし、きれい好きなことからメイドさんとして世界中に出稼ぎに出ているのは有名だ。シンガポールには、あの小さな島国にも関わらず、フィリピン人が20万人働いているらしい。

メイドさんとはいえ、週末は休みのようで、繁華街にあるラッキープラザというビルは、フィリピン人の溜まり場になる。話には聞いていたが、初めてそこに行ったときは、飛び交うタガログ語にまるでフィリピンに戻ったような錯覚を起こした。それどころか、大きな植物園のあちこちのベンチはフィリピン人たちに占領されていて、まさに休日のシンガポールは街中フィリピン人で溢れかえっている。

シンガポールには、リトルインディアという名前の街があり、そこに行くとまさにインドを満喫できる雰囲気だ。ヒンズー教寺院も多く、通りを歩くと香辛料の香りが鼻をついてくる。ここは街中インド人だらけだ。

ひときわ大きなモスクがそびえる地区は当然ながらイスラム系の人が集まっている。ペルシャ絨毯の店が軒を連ね、巧みな話術で道行く観光客に絨毯を売りつけようとする。

2~3日の観光なら異国情緒を満喫できるだろうが、実際に当地で生活しているシンガポール人たちは、決して共生しているようには見えなかった。職業選択の自由はあるのだろうが、いわゆる3Kの仕事は、インドやバングラデシュ人が担っているようだ。

つまり、住み分けが明確にある。いわゆる外国人労働者は、それを承知で出稼ぎに来ているのだが、様々な不満が蓄積していき、あるときそれが爆発しているようだ。シンガポール政府はそれを、罰金と禁固刑とムチ打ちの刑で容赦なく取り締まるのである。

バスの中などいたるところにそういう内容のポスターを見るに付け、私は多文化は見るに限ると思ったものだ。

犯罪を誘発する日本人旅行者たち

2015年02月19日 | 日記
海外で犯罪にあったり、トラブルに巻き込まれる日本人旅行者は、それなりに旅行者の方にも要因が存在するものだと、私は経験からかなり強い確信がある。フィリピンに9年ほど赴任していて、私も数回危うい目に遭遇したことがあるが、それは思い返すと自分に原因があったと思う。

まず、危険かそうでないかを見極める目を持って行動すること。外国の観光地で見かける日本人、特に女性はみなさん格好が派手だ。年頃の女性など、みなさん水商売の方かと思ってしまう。男性も垢抜けた格好で、高級カメラなどを首からぶら下げていると、いかにも金持ちの日本人だ。

最近はどこにでもあるコンビニで買い物をしてバッグから出す財布は、いかにもお札が詰まっていそうで、女性の財布はほぼ100%がいわゆる高級ブランド製である。現地通貨に両替して出てきたら、すぐに両替所の前でタクシーを拾うのも日本人だ。

通りを散歩していても、日本人を目で追う現地の悪者はたくさんいる。高級時計を売りつけようとしたり、インチキ両替所に連れて行こうとしたり、文字通り虎視眈々と狙っている。そういう輩が、向こうからニコニコしながらこっちを見ながら近づいてくると、日本人は反射的に相手と目を合わせる。そういう時は、意識して目を合わせてはいけないのだ。

悪い人たちばかりではないが、とにかく普通の現地の人に犯罪を犯させてしまう日本人旅行者が多くいる。犯罪を誘発するのだ。スキだらけの日本人旅行者は、やがて他の同胞にも迷惑をかけることになる。自由だの権利だの主張する前に、最低限の自己防衛を心がけるべきだ。

気が付くと、周りから無くなっているもの

2015年02月18日 | 日記
いつの間にか、世の中から消え去ってしまうものがある。学生時代に、誰の部屋にもあった、ファンシーケースがそうだ。鉄パイプを数本つなぎ合わせて縦横70cmx高さ1.6mくらいの骨組みを作り、ビニール製の布地で骨組みをすっぽり囲み、真ん中のジッパーを閉めると、結構な量の洋服を掛けておける簡易洋服箪笥が出来上がる。

ビニール布地のデザインが色々選べて、個性を発揮できるのと、引越しの時など、中に服を掛けたままトラックやリヤカーに載せられるので、すこぶる便利なものだった。同様に、私が学生だった頃、ほとんどの学生の本棚に存在感を見せて鎮座していたのが、広辞苑である。

私は貧乏学生だったので、欲しくても買うことはできなかったが、社会人になってからすぐに購入した。今も捨てられなくて本棚にあるが、ほとんど手にすることはない。同じく私が欲しくて欲しくてたまらなかったのに、買えなかった関数電卓。授業で使うので、同級生は全員持っていた。当然、そういう講義は赤点をとり、単位はもらえなかった。

いつの間にか消え去ったものに、「青年の主張」というNHKの番組がある。成人式の頃放送された番組で、テレビでもラジオでも放送して、私はラジオでよく聞いたものだ。のど自慢と同じように、究極のワンパターン番組だったのが面白く、飽きずに聞いた。今年もワンパターンかな、と思っていると、いつもそれを裏切らないので、下手なお笑い番組を見るよりも、数段面白かった。

主張の内容もさることながら、妙な抑揚をつけて大声で話すのがいかにも素人っぽくて、笑いをこらえ切れないことが多かった。お気に入りのパターンは、養豚業に従事する若い娘さんが、『私が、初めて子豚と出合ったのは、、、』で始まる話で、その仕事がどんなに大変か、でもどんなにやりがいがあるかという事を力説するのである。

別の方は、「豚」のところが、「乳牛」だったり、あるいは「ペットの犬」だったり、「お年寄り」だったりするのである。のど自慢に必ず登場する、仲良し保母さんトリオやキャピキャピ看護婦さんグループみたいなもので、「ワー、ワンパターンだなあ」と言っては、私は喜ぶのであった。


西欧文明、恐るるに足らず

2015年02月17日 | 日記
若いときは、アメリカは偉大な国だと心からそう思っていた。ほとんどすべての点で、日本はアメリカにはかなわないと、そう思っていた。広大な土地があり、世界中から移民を受け入れ、工業技術も文化的にも世界の最先端を進んでいる、文字通りの先進国だと、そう信じていた。

しかし、その私がいつの頃からか、どうもあの国は胡散臭い国だと思うようになってきた。アメリカのみならず、イギリスもフランスもスペインも・・・いわゆる白人社会のしてきたことを省みればみるほど、酷い国々だと思うようになってきた。どこかに抱いていた私のコンプレックスが胡散霧消した。

きっかけは、インターネットだ。何せ、疑問を感じたらすぐに調べることができ、小さな疑問なら即解消する。昔はこうはいかなかった。広辞苑や百科事典で調べたり、図書館まで出向いて、時間をかけて参考文献を探したり・・・。

情報の取捨選択は必要だが、情報を得るスピードと簡便性は飛躍的に進歩し、次々と大小の疑問が解消され、新たな知識が増えていったと思う。渡米する前にも何冊かアメリカに関する本を購入して読んだのだが、滞米中に抱いた疑問ははっきりと解消せずにうやむやになっていたことが多かった。

ハワイはなぜアメリカなのか?白人が来る前に、インディアンは一体どのくらい北米大陸にいたのだろうか。奴隷は何人あアフリカから連れて来られたのだろうか。南米はなぜスペイン語を話す国が多いのか。アメリカはなぜ2度も日本に原爆を落としたのだろうか。などなど・・・。

疑問が霧消していくにしたがって、アングロサクソンの歴史は、あるいはもっと昔のアーリア人の歴史は、侵略と征服と支配の歴史で、そういう俯瞰で世界を観る事は、学校教育ではまったく教えられず、目から鱗が音を立てて落ちることが、楽しみの一つだった。

そして、西洋の白人文化へのコンプレックスがなくなってくると同時に、自国への誇りが少しずつ少しずつ芽生えてきたのでした。

おいしかった、昭南島のサンマ定食

2015年02月17日 | 日記
シンガポールに赴任する前には、上司から、あっちは食費がかからないからお金は使わないよ。日本円で400円くらいで世界中の料理が楽しめるフードコートが街中にたくさんあるから、と何度も強調された。

赴任してみると、確かにフードコートがたくさんあって、屋台が集まったような小さな店が密集した食堂で、いろいろな料理を楽しめることはわかった。毎日違う物を食べても、全部経験するのに何ヶ月もかかるだろうなと、わくわくしたものだ。

しかし、1週間で飽きた。それに昼食時は凄い混みあいで、ゆっくり食事を楽しむことは不可能であることが分かった。時間をずらして、少し早めに行ったり遅くしたりしたが、いつも混んでいる。一日中混んでいるのだ。あの国の人達は、一日中食べているようだ。朝食・昼食・夕食の区別がないようだ。嘘みたいに、一日中混みあっている。

それに、一品の量が私には少し少なすぎて物足りない。飲み物や果物を頼むと、結局1000円以上になることもわかった。決して安くはない。長くいる人に言わせると、ああいうフードコートでは非常に質の悪い油を使っているから、体に良くないらしい。まさか中国のように、ドブをさらって油を再製していることはないだろうが、厨房が見えないので何とも言えない。

結局、比較的すいている日本食のレストランやラーメン店で高い昼食をとることになる。デパートの地下に小さな日本食食堂があった。食堂といっても、カウンター席が6~7席と小さなテーブルが2つほどで、魚料理が中心の定食屋である。

確か、日本の水産会社が出店している店で、ここの秋刀魚定食はおいしかった。週2~3回は通っていた。秋刀魚の焼き魚にサラダ、味噌汁が付いていて、日本円で1000円くらいだったと思う。客の7割くらいはシンガポール人で、秋刀魚をグチャグチャに突付いて食べていた。

シンガポールには二度と行く気はしないが、あそこの秋刀魚定食はもう一度たべてみたい。

市民病院は、老人で大盛況

2015年02月16日 | 日記
一昨年の大病の経過をみる為、久しぶりの定期検査に病院に行ってきた。頭の断層撮影に出向いたのだが、10分もかからない検査のために2時間待たされた。

月曜日はいつも病院が混みあうと聞いていたので、予約の時間より1時間も早く行ったのだが、言われた窓口の前にある長椅子は、お年寄りで満席状態だった。

お爺さんは、一人で通院できない方が多いのか、お嫁さんとか娘さん、または奥さんが付き添っている。満席なのはこの所為もあるかもしれないが、それにしても世の中は病人だらけのようだ。

お年寄りはトイレが近いので、席をはずす。そんな時看護婦さんが名前を呼ぶと、当人が見当たらない。何度も名前を呼ぶのだが、見当たらない。そうやって時間ばかりが経っていく。

例によって、診察を終えた患者に向って、看護婦さんが大きな声で病状と飲み薬の説明をする。聞きたくもないのに、「ああ、この方は糖尿病なんだな。手足の麻痺が始っているんだな。」という個人情報が耳に飛び込んでくる。

あと10年もすれば俺もあんな風になるのかなあ、と想像すると、あまり長生きをする気にもならなくなってくる。

まんまと詐欺に遭った経験

2015年02月15日 | 日記
恥をさらすようだが、私は見事に詐欺に遭ったことがある。今から6年ほど前だったろうか、場所は名古屋から出ているローカル線の駅だった。

その日は、資格試験を受けるため、私は前日に名古屋入りして、駅前のビジネスホテルに泊まり、当日の試験に備えた。どんな資格試験かというと、通訳案内士という名前の国家試験で、外国語では唯一の国家資格だそうです。

そもそもこれを受験しようと思ったのは、勤め先の若い連中が話しているのを聞いたためで、彼らはTOEICだの英検だのに関して話をしていた。そのとき一人が、どちらも国家資格ではないが、一つだけ英語の国家資格があって、それは通訳案内士という資格だと、薀蓄を傾けていた。

それを聞いて、私も話しに加わり、話の流れで「受けてやろうじゃないか」と言ってしまったのだった。調べると、数ヵ月後に試験があるので、慌てて申し込んだのだった。とは言っても、どういう準備をすれば良いかは分からなかったので、インターネットで色々調べて、一夜漬けの勉強を始めた。

試験当日、試験会場の大学がある駅で下車して、他の受験生らしき人たちと一緒にゾロゾロと改札口を出ると、ワイシャツ姿の男性二人が何か大声で、我々に向って伝えようとしていた。内容を聞くと、「本日の試験結果は、個人宅には連絡できなくなった。ついては私どもが代行するので、手数料込みで1000円を用意して、申し込み用紙に連絡先と受験番号、氏名を記入して提出して下さい。」ということだった。

ほぼ全員が次々と申し込み用紙に記入して、1000円を払ったうえ、一人が持った紙袋に申し込み用紙を投げ込んでいた。私も何のためらいもなく同じことをして、試験会場に急いだ。

教室では、平均年齢がかなり高い受験者たちが、黙々と参考書にマーカーペンを走らせて直前の勉強をしていた。男女の比率は、6:4で女子が多く、全体の平均年齢は50歳位かそれ以上だと見受けられた。

試験開始10分ほど前になって、試験の監督者が現れた。そして、開口一番、今朝駅で試験結果を連絡するということで、申し込まれた方がいると思うが、当方とは一切関わりのない者たちである。試験結果は当方から全員に個別に郵送されることに変わりはない、と伝えた。

教室は少しどよめいたが、特に質問する人もいなくて、何もなかったように試験は始ったのだった。今から駅に走って行って、あいつらをとっ捕まえて・・・と考えたが、だまされた自分がうかつだったと諦め、気を入れ替えて試験に集中した。

その甲斐あってか、試験は合格したが、何とも後味の悪い試験であった。

伝統芸能・落語を観てみたい。

2015年02月15日 | 日記
私は落語が好きで、海外勤務のときはよくカセットテープの落語を飛行場で買って持ち込み、寝る前などに聞いたものだった。圓生や志ん生ばかり聞いていたが、名人と言われるだけあって、何度聞いても新鮮で飽きなかった。

『唐茄子屋』とか、『文七元結』とか、『品川心中』など良くできた話で、巧みな話術が演劇を見ているような気分にさせてくれる。志ん生の『井戸の茶碗』もよかった。同僚にもカセットテープをかしてあげたが、『文違い』などの廓話は、特に好評だった。

一度、本物の寄席に行って生の落語を聴いてみたいと思っているのだが、なかなか機会がなくて残念だ。Youtube などで往時の名人芸が楽しめるのは、何ともありがたい。当時はインターネットなどない時代だったが、今ならわざわざカセットテープなど買わなくてもいいだろう。

落語家はよくテレビに出るが、肝心の落語を披露する落語家はあまりいないのがつまらない。「笑点」という長寿番組があるが、落語家と言うよりお笑いタレントの範疇に入れたくなるようなタレント落語家ばかりのようで、もう少し本業を披露する機会を与えてやればいいのに、と私は切望する。

自由度低い?昭南島

2015年02月15日 | 日記
報道の自由度ランキングというものが発表されたと、テレビのニュース番組で知った。どういう判断で順位を決めるのか知らないが、世界180ヶ国のランキングを「国境なき記者団」という機関が発表したのだという。

何だか胡散臭い名前だなあと思ったが、ネットで詳しい結果を検索すると、なかなか興味深かった。日本は韓国に次いで61位。アメリカは49位、中国は176位、北朝鮮は179位二ランクされていた。

シンガポールが気になったので見てみると、ロシアに次いで153位とかなり下位にランクされていて、納得してしまった。短い滞在経験だったが、「明るい北朝鮮」という別名を持つ国だと聞いて、現地の人や在留邦人に確認したことがあるが、やはり政治的な話は極力避けた方が身のためだという事だった。

ビジネスの自由度では恐らく世界でもベスト3には入るだろうから、何とも奇妙な状況だと言わざるを得ない。シンガポールに赴任したての頃、レストランで在留邦人の方と食事をしていたとき、「首相のリー・クワン・ユーが・・・」と口にした途端、「名前は口にするな!」と怒られたことがあった。「誰が聞いてるか分からないし、昔は隠しカメラで撮影されていたようだし・・・。」と教えられ、あの国の印象が一変した記憶がある。

現地の若者に聞いたときは、小さな声で、「選挙で政権に異議を唱えると、その地域の社会環境が非常に悪くなるからネ・・・。」と自嘲気味に答えてくれた。

箱庭のような狭い国土に外国人労働者を入れて、明確な格差社会を作り、罰則制度を厳しくして治安を良くして観光客を呼び込む。日本の為政者が真似したくなる気も分かるが、現地に半年も住んでみれば、自由なようで不自由な、奇妙で複雑な自由度の低い感覚を理解できると思う。

本当は怖い、高齢者ドライバー

2015年02月14日 | 日記
何と呼ぶのか知りませんが、高齢者が運転する車に貼るシールは助かります。先日も、スーパーに買い物に行って駐車場に車を止め、買い物を終えて戻ってみると、隣のスペースに止めてある軽自動車が、斜めに止めてあり、右端が私の車にもう少しでぶつかりそうな止め方です。

一瞬、やられたか!と思いましたが、注意深く見るとぶつかってはいません。運転手を探して文句を言ってやろうかと思いましたが、例の高齢者のシールが貼ってあるので、面倒になりやめました。それからは、道路で運転中でも、前の車が高齢者の運転する車のときは、車間距離を十分すぎるくらいとることにしています。

よく、前の車が方向指示器も出さずに急に曲がったり、無人販売の売り場の前で、急停車したりして、ヒヤッとすることがありましたが、たいてい年配のご婦人かご老人だったような気がします。

亡父が生前、80歳になった頃、私は強引に免許証を返上させました。反射神経が目に見えて衰えてきていましたし、認知症とまではいきませんでしたが、時々オヤっと思わせる言動があったからです。そのとき、本人は泣いて嫌がりましたが、じっくりと言って聞かせました。

これからの日本は、ますます高速道路の逆走とか、コンビニに突っ込む事故とかいった、高齢者による自動車事故が増えていくことでしょう。深刻に考えるべき課題だと思います。

変わる近所付き合い

2015年02月14日 | 日記
私が住んでいる田舎でも、近所づきあいの形は昔と比べて激変しています。今では、年一回あった区民運動会もなくなったし、近所の人が集まって決め事などを話し合う、「寄合」もほぼなくなりつつあります。

別に誰のせいではなくて、社会の変化と共に変わってきたものだと思います。風景は農村でも、農業に従事している人は、平均年齢が多分65歳以上だと思います。しかも、ほとんどの農家は後継者がいません。若者は、勤めに出て、しかも三交代勤務だったりすれば、夜家にいるとは限りません。製造業は多くが独自のカレンダーで勤務日程が組まれ、祝祭日は休みではありません。

20年ほど前までは、結婚式があれば近所の人を披露宴に招待したものです。しかし、今は知らないうちに跡取りが嫁をもらっていたりして、驚くことがあります。葬式のときは、近所の人がすべてを面倒見てくれるので、当事者は何もすることはありませんでした。今は葬儀社に依頼すれば、お金はかかりますが、すべてを仕切ってくれます。近所の人はお手伝いに出ても、只ぶらぶらして、おしゃべりしているだけです。そのうち、この習慣もなくなることでしょう。

昔のしきたりが変わっていくのは寂しい気もしますが、わずらわしい付き合いが減っていくのは気楽でもあります。無理に昔のやり方を墨守するのも考え物だと思います。散歩ですれ違いざまに、老人からあれこれ興味本位で詮索されるのは、あまり良い気分はしないものですしネ・・・。

草の根大使の資格とは

2015年02月14日 | 日記
私が二十代初めに外国に行って、なんとか外国の人と話ができるようになった頃、強烈に感じたのは、自分が自国のことをあまりにも知らな過ぎるということを思い知らされたことです。相手の外国人は、私のような若者でもその国の代表者みたいな感覚で、このことは日本人はどう考えるんですか?とか、日本人ならこういう時どうしますか?とかよく質問してきました。

最初は、適当に即答していましたが、よく考えると自分の答えが日本人のイメージを作ってしまうことにもなりかねないと思い始め、途中から少し考えてから答えるようになりました。この体験がきっかけで、帰国してから「比較文化論」関連の本を何冊か読み、今でもときどき読み返します。

難しい質問とか、学生にはとても答えられない質問だなあと思っても、それは自分が無知なだけであって、世間並みには「常識」の部類だったということも理解し、あとで赤面することもありました。「日本では所得税はどのくらい払うんですか?」とか、「日本では、クリスチャンはどのくらいの割合、いますか?」とか。中には親日派と思われる人が、「印鑑が自分のものであると、どうやって証明するのですか?」という意地悪な質問をして、ニヤニヤ笑っていたこともありました。

「日本が独立したのはいつですか?」とか、「天皇が突然なくなったら、次はだれが天皇になるんですか?」とか、自国のことをあまりにも知らなくて、もう鳥肌が立ちそうな気分になったものです。「知りません」と正直に答えればいいんでしょうが、年齢的には成人ですし、少しは私にもプライドがありましたので、何とかそれなりに説明するのに四苦八苦したものです。

そういう意味では、若いうちに外国人と接することには大きな意義があると、私は強く感じますし、自国の歴史や文化を知らないと大恥をかくことになりますよと、声を大にして言い切れます。「君たちは、草の根大使だ。それを十分意識して行動して欲しい。」と、最初に言われたものですが、大使には最低限の常識と教養が欠かせないと、滞在中に痛感させられたものです。


アンパンマンもいいけど、浦島太郎もね。

2015年02月14日 | 日記
私の母は、特に高等教育を受けているわけでもない、極々平均的な日本女性だと思います。その母が私の幼い頃、どういう教育というか、育て方をしてくれたかということを、一生懸命思い出そうとすることがあります。

これは、私が結婚して、長男次男と立て続けに産まれた頃もそうでしたし、初孫が生まれた時もそうでした。断片的にでしか思い出すことができないので、歯痒いのですが母はよく自分が尋常小学校で習ったことを口にして、聞かせてくれたような気がします。

例えば、神武天皇から始る天皇の名前をすらすら言ってみたり、神話の話を聞かせてくれたりです。因幡の白兎の話は私も気に入って、何度もせがんだようです。今思うと、昭和初期の小学校でどういう教育がされていたかが、垣間見えとても興味深いです。

母は、よく戦時中の話もしてくれました。それは、悲惨な体験などではなく、極めてアッケラカンとした話でした。例えば、何かの折に海軍の将校たちが村にやってきて、村人の家々に分宿することになったそうです。当時の我が家にも一人泊まることになったそうで、母はその頃今で言うと中学生くらいだったそうです。その将校が馬に乗ってきたときは、それはもう格好よくて、背が高くキリッとして礼儀正しい品のある所作を見て、当時の母は瞬間的に一目惚れしてしまったそうです。

少女だった母は、障子の隙間からその将校をのぞいては、ため息をついていたそうで、翌日将校が家絵を出るときは将校の姿が小さくなるまで見送ったとのことです。


私の母は、特に高等教育を受けているわけでもない、極々平均的な日本女性だと思います。その母が私の幼い頃、どういう教育というか、育て方をしてくれたかということを、一生懸命思い出そうとすることがあります。
これは、私が結婚して、長男次男と立て続けに産まれた頃もそうでしたし、初孫が生まれた時もそうでした。断片的にでしか思い出すことができないので、歯痒いのですが母はよく自分が尋常小学校で習ったことを口にして、聞かせてくれたような気がします。
例えば、神武天皇から始る天皇の名前をすらすら言ってみたり、神話の話を聞かせてくれたりです。因幡の白兎の話は私も気に入って、何度もせがんだようです。今思うと、昭和初期の小学校でどういう教育がされていたかが、垣間見えとても興味深いです。
母は、よく戦時中の話もしてくれました。それは、悲惨な体験などではなく、極めてアッケラカンとした話でした。例えば、何かの折に海軍の将校たちが村にやってきて、村人の家々に分宿することになったそうです。当時の我が家にも一人泊まることになったそうで、母はその頃今で言うと中学生くらいだったそうです。その将校が馬に乗ってきたときは、それはもう格好よくて、背が高くキリッとして礼儀正しい品のある所作を見て、当時の母は瞬間的に一目惚れしてしまったそうです。

少女だった母は、障子の隙間からその将校をのぞいては、ため息をついていたそうで、翌日将校が家絵を出るときは将校の姿が小さくなるまで見送ったとのことです。
母は、今でも祝日には玄関に日の丸を掲げます。以前は近所でも国旗を掲げる家庭は少なくなかったのですが、最近はどうも我が家だけのようです。

新聞やテレビで、今の学校では式典で国旗や国歌を避ける教師がいるという報道に接したときは、私は何か外国の話かと最初信じることができませんでした。今、二人目の孫が生まれて、私は彼女たちの教育には口を挟むつもりはまったくないですが、遠くからさりげなく、私の母が私にしてくれた程度の、語りかけはしてみようかと思っていて、この間も字が読めるようになった初孫に、日本の昔話の絵本を二冊買ってきました。アンパンマンやプリキュアもいいけど、日本の昔話も忘れてほしくないからです。







今夜は血糖値が高めです

2015年02月13日 | 日記
明日はバレンタインデーだが、この日本独特の風習は無くなりそうでなかなかなくならないものだ。若いときから、私はまったくこの風習には縁がなく、まるで他人事の行事だった。

社会人になって、何度か転職したが、どの職場でも女性社員が男性社員にチョコレートやクッキーを配っているのをみると、あれは案外女性が下支えしている風潮ではないかと思う。中年のオバサンたちが、わざわざ、何種類かのお菓子を買ってきて、それを小袋に詰め替えて、リボンで縛ったりしているのを想像すると、義理を通り越して彼女たちは義務だと認識しているに違いない。

男性からお返しの日が翌月あるのだそうだが、そんな男性などこれまでお目にかかったことはない。みんな、忘れたフリをしているようだ。女子社員は元来飴や駄菓子を近くの人に分け与えるのに快感を感ずるようで、一体この人のバッグにはどれほどのお菓子が入っているのか、不思議なくらい、まるでマジックを見るように、次々と様々な駄菓子が出てくるのだ。

職場でも、今朝女性たちが大きな紙袋を二人掛かりで持ち、まるでサンタクロースのように、男性人の机を廻りながら、クッキーなどが詰め合わせになった小袋を配ってくれた。だれも、芝居がかったように「ありがとう!お返しは期待しないでね。」などと冗談とも本気ともつかないことを言っていた。

お返しする気などまるで胸中にはない男性社員は、しかし、知っているのだ。出張や有給休暇で旅行に行った時など、会社にお土産を買ってくるのが義務付けられていることを。買って来なかったら、どんな陰口を叩かれるか分かったもんじゃないということを。

私の職場にも、【京都に行ってきました】とかいうお菓子を箱ごと抱えて、「これ課長からです」などと、嬉々としながら配って歩く、総務の女子社員がいます。そして、彼女がいつか、「部長はケチよねえ。お土産なんて一度も買ってきたことないわよネエエ」と話してたのを、私は確かに耳にしました。