孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

そうだ、出雲・松江に行こう。

2018年12月16日 | 旅行
今年の3月に、富士山静岡空港と出雲空港線が就航した。一日一便の運行だが、なかなか好評のようだ。

出雲といえば、出雲大社が観光名所だが、私はまだ訪れた事がない。山陰地方というと、何かすごく遠いところというイメージがある上に、出雲大社というと「縁結び」の最強スポットなので、どうせ結婚願望の強い女性の行くところだろうと、勝手に考えていた。

しかし、今年は菩提寺の檀家世話人の順番で、お寺の住職と接する機会が何度かあり、檀家制度や仏教というものに大きな疑問を感ずるようになり、その反作用でもないだろうが、神道への関心が強くなってきたので、出雲大社への興味が沸々と湧いてきていた。

しかも、今年は何度も参拝してきた、遠州森町の小國神社は、大国様(大国主命・おおくにぬしのみこと)を祀っている神社だった。あの因幡の白兎でお馴染みの、だいこくさまである。

  大国様

「だいこくさま」の歌は、子供の頃母がよく歌って聞かせてくれたので、今でもメロディーは忘れない。いなばの白兎の話も、小学校で習ったわけでもないだろうに、よく覚えているから不思議だ。

さらに、先日のブログにも書いたが、来年度から富士山静岡空港は、民営化されるとなると、現在空港の駐車場は無料であるが、きっと早晩有料化となることだろう。

勤め先の仕事始めは1月7日であることだし、ここは出雲詣でをしない手はないだろう。

そこで、まずネットで宿を調べると、4日以降なら安くて駅近のホテルが簡単に予約でき、ついでに調べた飛行機も往復予約できた。

そこで、いつもの旅行のように、「出雲の旅、やることリスト」を作ったのだった。

1.出雲大社で豪快な注連縄をみる。できれば神社で注連縄の由来と参拝の時の二礼の意味を尋ねる。

 注連縄の由来は?

2.県立古代出雲歴史博物館で、古代神殿の復元模型をみる。

3.出雲そばを食べる。

  食べ方は?

わたしは、蕎麦が大好物で、死ぬまでにまだ食べていない「出雲そば」、新潟の「へぎそば」、岩手の「わんこそば」を食する事が夢なのです。

4.松江城を訪れる。(実は、私は「城と滝フェチ」なのです)

  別名、千鳥城

5.小舟に揺られて、堀川めぐりを体験する。

この川やお堀を小舟で巡るというのはなかなかいいもので、以前マレーシアのマラッカで体験したリバークルーズは、二度も体験したほどだった。

6.宍道湖のしじみ、のどぐろ、鯛めしを食べる。

しじみといえば宍道湖でしょう。のどぐろという魚も食べてみたいし、鯛めしもまだ未経験なので、是非食べたい名物だ。

  のどぐろ

  鯛めし

7.小泉八雲記念館で明治の変な外人のことを知る。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)といえば、怪談「耳なし芳一」だが、ちょっと調べてみると、元祖「変な外人」のような方だったみたいで、ちょっと気になる。実はこの方、静岡の焼津市にも縁があって、焼津市にも「小泉八雲記念館」があるのだ。

是非とも出雲に行く前に、焼津市の「小泉八雲記念館」を訪れなければならない。

  八雲と芳一



出雲駅前に宿を構え、松江にも足をのばして、冬の山陰を満喫してこようと思う。

旅の動機は・・・

2018年11月17日 | 旅行
先日、浜松の観光バス会社の、乗客33人を乗せた観光バスの運転手が、走行中に突然意識を失って、バスはそれに気がついた乗客たちによって、何とか止められて大事に至らなかった、という事故があったそうだ。

記事を抜粋すると、その恐怖が少し伝わってくる。曰く・・・

『前から3列目に乗車していた豊橋市の畑中国守さん(76)が運転席に近寄ると、運転手が泡を吹いて意識を失っているのを発見。異変の直前に運転手のうめき声を聞いた乗客もいた。

 畑中さんはギアをニュートラルに入れ、駆け寄った別の男性がハンドルを握った。減速したものの停止できず、男性はハンドルを左に切り、壁に車体をこすらせながら、異変発生から約1キロ先で停止させた。畑中さんは「必死だった」と振り返る。』

よく怪我人も出ずに済んだものだと感心してしまうが、こういうことは、今後も突然どこでも起こり得ることだと思っていたら、翌朝の報道番組のコメンテーターは、「今、自動運転の開発が進んでいますから、将来は起こることはなくなるでしょう。」と解説していた。

乗客33人は、観光バス会社の企画した「ミステリーツアー」に参加した方々で、豊橋市から出発して、和歌山県串本町に向かっていたという。

この、「ミステリーツアー」とは一体なんのことか分からなかったので、カミさんに聞いたところ、「行先を知らされずに参加する観光ツアーのことで、私も参加した事がある。」ということだった。

行先を知らされずに、金を払って参加する・・という事が、よく分からないが、たぶん正月の福袋を買うようなものなのだろう、と勝手に解釈した。

  福袋みたいなもの?

私は、どこどこで、何をしたい、食べたい、観たいという動機があって、初めて旅をする気になるのだが、ミステリーツアーに喜んで参加する人は、どこでもいいから、金額に見合う旅行か、そうではない旅行か、得した気分になれるか、なれないかが重要か。

福袋など買う気にもならない私が、ミステリーツアーなどに興味を示さないのは、当然のことなのかと思った。

今回参加した33名は、帰宅してから事故のことを、多分得意がって、会う人会う人に自慢げに話をしたに違いない。目的地には行けなくても、それだけで充分ツアーを満喫したことだろう。

そもそも、その観光バスは、和歌山県串本町に向かっていたというから、行先はきっと、大島のトルコ祈念館で会ったに違いない。

私は以前、瀞峡(どろきょう)へ観光旅行した際に、バスが串本町付近に差し掛かったとき、バスガイドさんが、120年以上前に串本町大島近くで遭難した、トルコの軍艦「エルトゥールル号」の話を、感動的に話してくれたのを覚えている。

  いい話だった!

その95年後のイラン・イラク戦争の時、トルコはイランにいた日本人救助で手助けしてくれた。それは、明治23年に大島住民が、エルトゥールル号乗組員を助けてくれたことへの、恩返しであったのだ。

バスガイドの話を聞いてから数年後、私は一人で車を飛ばして串本町大島のトルコ記念館まで出かけたのだった。

今度は、是非元気なうちに、トルコに旅してみたいと思っている。

台北で観る、名作邦画

2018年01月08日 | 旅行
烏来で日帰り温泉を満喫してから、バスで台北に戻ってきた。その日の昼過ぎから上映される、邦画を観るためだった。

「台北之家SPOT」は、元米国領事館だった建物で、今ではカフェや世界の名画を選んで上映するミニシアターを併設する、オシャレなスポットになっている。

 SPOT台北之家

事前にネットで上映作品をチェックしておいたので、昨年8月に封切りになった浅野忠信主演のドラマ「幼な子われらに生まれ」(台湾のタイトルは、「親愛的外人」)を観ることにした。

離婚した後の複雑な人間関係を描いた、重松清の同名小説を映画化した作品だった。浅野忠信は私の好きな俳優の一人で、彼が主演の映画であることと、共演の女優が寺島しのぶだったので、見逃す手はないと思ったからだ。

  『親愛的外人』

離婚して再婚した男性のがんばる姿を描いた作品かと思っていたら、物語は徐々に深刻化していき、子供たちの名演技を微笑ましく感じながらも、観終わった後フーッとため息が出る、実に考えさせられる映画だった。

 原作を読みたくなった

宮藤官九郎がいい味を出していた。そして、やはり寺島しのぶは存在感があった。浅野の妻役の田中麗奈もそれまでのイメージとは違う、名演技であった。

重松清の原作を読みたくなって、今日アマゾンで注文してしまった。

DVDレンタルが始ったら、ぜひもう一度観てみようと思う。

若者に伝えたい、日露戦争

2017年09月28日 | 旅行
以前何かの番組で、竹田恒泰(タケダツネヤス)さんが地下鉄車内で体験した話を面白おかしく語っていた。

それは、竹田さんが座っていた近くに立っていた茶髪の大学生風の二人連れの会話についてだった。

一人が、「この前の戦争で、日本がアメリカと戦ったときさぁ・・」と言いかけると、もう一人が、「えぇっ!日本がアメリカと戦ったぁ?!ウソォ! マジでぇ?」と驚いた。

「日本、アメリカと戦争したじゃんかよ!」「ウソだろ?マジかよ。・・・で、どっちが勝ったん??」竹田さんの方が、「マジかよ?!」と叫びたかったそうだ。

これと似たようなことを、以前近所の中学生たちに英語と数学を教えていた時、私も体験した事がある。

何かで話が脱線した時、「日本が日露戦争でロシアをコテンパンにやっつけた時ね・・。」と言いかけたら、一人の少年の目がパッと大きく開いて、「えぇ?日本がロシアと戦争やったんすか?」と驚いた様子で呟いた。

私は、「あれっ?学校で習わなかった?」と言って、簡単に当時の近代史を説明した。

日本が当時、日清戦争や日露戦争で連勝して、世界中がそれに驚いたこと。さらに、その後列強諸国の白人たちとも戦争して、その結果しばらく日本はアメリカ軍に占領されたことを話すと、「アメリカとも戦争したんすかぁ?」とびっくりしていた。

学校の授業がまだ近代史まで進んでいなかったのか、あるいは教師があえて丁寧に教えなかったのか、理由はよく分らなかったが、私も竹田氏に負けないくらい驚いたものだ。

日露戦争での日本の勝利は、世界中で大騒ぎとなったそうだ。当時ロシアに悩まされていた小国は特に、弱小国と思われていた日本が、世界最強のバルチック艦隊に完勝したことを知り、溜飲を下げるだけでなく、自分たちだってやれば出来るんじゃないかという勇気を感じたのだった。

今回の横須賀日帰り旅行は、死んだ親父の替わりに企画実行したものだったが、私としても、興味津々でワクワクする小旅行であった。

親父は戦死ではなく、老衰で死んだのだが、あえて「英霊」と呼ぶとすると、それは親父の英霊を慰めるものであった。総意識すると、なんだか昨日は一日中、私の右斜め40度くらいの離れた空間に、親父の英霊がフワフワ浮かんでいるようだった。

午前10時ころJR横須賀駅に降り立ち、そこから海沿いに出来た公園を散歩しながら、昔、横須賀海軍工廠(こうしょう)のあった場所に向かった。

     

フランス人技師のヴェニールに因んで、ヴェニール公園と名付けられた公園には、途中当時の幕臣、小栗上野介の胸像が立っていて、ここは以前から私が一度訪れたかったところだった。なぜ小栗上野介かを説明すると長くなるので、別の機会にしよう。

     

途中、ベンチがあったので、休み休みゆっくり歩いていくと、「横須賀基地はこちら」の交通標識が見えた。今はアメリカ海軍基地となったが、その前は横須賀海軍工廠のあったところで、親父たちが養成所で、軍艦の造り方の講義を受けていた場所だった。

     

基地が近づくにつれて、歩道を歩く米軍将校らの姿が多くなってくる。みんな背が高く足が長く、体格は筋骨隆々としていて、よくまあ当時の日本兵たちは、こんな奴らを相手に苦しめ、戦ったものだと改めて感心する。

基地正門からさらに道沿いに10分ほど歩くと三笠公園にたどり着く。ロシアのバルチック艦隊を見事に全滅させた、日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎の載った旗艦「三笠」が記念艦三笠として、現存する公園である。

     

     

日本海海戦の当時の名セリフは、今でもよく耳にするものだ。例えば・・・

「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。

さらに、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。

私は、昭和30年生まれだが、この私でも当時のこういうエピソードの数々を聞くたびに、胸がジーンとなり、ワクワクさせられてしまう。

艦内では、こういうエピソードが色々なVTRや写真、展示物で紹介されていて、年配者だけではなく、結構若い方も真剣に観ていた。

     

親父がよく口にしていた「どぶ板通り」にも行ってみた。ネットで調べたところ、今では米軍グッズの店や、飲食店が多く、どちらかというと夜になって人が集まる通りのようだ。

     


やはり、どぶ板通りは、昼間来るところではないようだった。右斜め上からフワフワ付いて来ていた親父はどんな感想だっただろうか。懐かしさを感じただろうか。

最後に、小腹が空いてきたので、海軍カレーの看板がかかった店に入って、その名物「横須賀、海軍カレー」を注文した。

  サラダと牛乳がセットになったカレー。艦内で食べたら最高だったろう。

親父の替わりに横須賀へ

2017年09月26日 | 旅行
生きていれば、親父は来月3日で93歳になることになる。

晩年は、入退院の繰り返しで、ほとんどやりたいことはできず、テレビと新聞だけが楽しみであったようだ。

私が中学生のころであったと思うが、親父の学生時代のことを聞いた事があった。「どこの学校に進んで、何の勉強をしたのか?」と聞いただけだった。

親父は、「お父さんは、横須賀海軍工廠の養成所で、軍艦を造る勉強をしたんだ。今の工業高校みたいなもんだな。」そう言ってから、当時の同級生たちとの壮絶な勉強の競争について、長々と聴かされた。

消灯になってからも、みんなロウソクをもってトイレに入り、こっそり自習したり、英語を覚えるために、辞書を破ってムシャムシャ食べてしまう奴もいた、、などなど。

カッターボートの訓練の辛さなどは、何度も何度も聞いて、耳にタコが出来るほどだった。

卒業する頃は、大東亜戦争も末期で、すぐに親父は海軍に入ったようだが、入って間もなく戦争は終わりとなったそうだ。

親父にとっては、青春は横須賀にあった。テレビのニュースやドラマで「横須賀」と聞こえると、何をしていても手を止めて、テレビもボリュームをグッと回して音をでかくして、テレビの真ん前にドカッと座り、ブラウン管を食い入るように見つめていた。

見たことのある映像が映ると、ニコニコしてここは何だ、あっちは何だと勝手に解説するのだが、聞いている者は誰一人いなかったと思う。

他界して四年になるが、今週は時間が出来たので、明日日帰りの旅をしてこようと思い立った。行先はもちろん横須賀。

やることリスト。

1.どぶ板通りを散策する。(親父がよく口にしていた)



2.海軍カレーを食べる。(親父もきっと食べただろう)



3.三笠記念艦をじっくり見学する。(これは私の念願だった)



4.小栗上野介の胸像を見る。 (これも私の念願)



5.横須賀海軍工廠跡地に最接近する。 (今は米海軍基地)



デジカメの電池を確認して、i-pod に Youtube からたっぷり録音して寝るることにする。明日は5時起きだ。

親父の供養なんてろくな事が出来ないので、せめてもの供養のつもり。

それに、あそこまで親父が夢中になっていた横須賀を一度この眼で見たかったから。

JRみどりの窓口の怪

2017年08月13日 | 旅行
前回、徳島市に旅行に行ったときも、新神戸の駅のみどりの窓口で見た光景だった。

そして、今回の北関東への旅でも同じ光景を見た。

  みどりの窓口の怪


お盆休みのため、旅行客が平日よりは多いことは分っている。しかし、新幹線の切符を買うためにみどりの窓口に出向くと、ほとんど必ずと言っていいほど行列が出来ている。

窓口は大抵3~5箇所くらいあって、日本中のJRの路線が頭に入っているんじゃないかとう若い職員たちが、テキパキと注文を捌いていくのだが、(大抵)中高年の客が切符を買う段になると、職員の手がピタッと止まる。

何か一言二言その客と言葉を交わすと、また暫らく考え込む。中高年の客は、何かしきりに職員に話しかけているのだが、職員は首を傾げたり、メモ用紙に何か書いて説明したりしている。

耳を澄ますと、「米沢」とか「仙台」とかいう駅名が聞こえてきた。どうやら東北の山形県か宮城県方面に行きたいようだが、具体的な旅程は分らない。

窓口にその中高年が立ってからすでに10分は経過しているが、いまだに切符は決らない様子だ。その他の窓口は順調に流れているのだが、一体何が問題なのだろうか?

その場に行って聞いてみたい衝動に駆られるのだが、そうこうしている内に私の順番がやってきた。

私は一言、「沼津までのグリーン券、本日分1枚」そう言って代金を払い、先ほどの窓口を見やると、窓口の職員の男性は腕を組んで何か考えていた。

一体、何が問題なのか、ますます気になった私であった。

?十年ぶりの母校訪問

2017年08月13日 | 旅行
長男がJR青春18切符を利用して、あちこち旅行していたのは以前から知っていたが、その切符の詳しい内容はあまり知らなかったので特に気にかけていなかった。

しかし今月初めに、『青春18きっぷ』と言っても、特に若者たちだけの割引切符ではなくて、誰でも利用できると知って、早速毎日通勤で利用している駅の駅員に確認してみた。

「春・夏・冬の年3回発売されるんですが、特に年齢制限は無くて、最近はむしろ中高年の方の方が多いくらいじゃないでしょうか?」という駅員の言葉を聞いて、私は即購入を決めたのだった。

1枚の切符で5回分使用でき、1回は1日有効で、普通電車ならどこで乗り降りしてもいいし、何度乗り降りすることも出来る優れ物である。

しかも、この切符を利用し、別にグリーン券を事前に購入すれば、グリーン車を利用した快適な列車の旅を満喫できるのである。

私は、迷わずこの切符を利用して、北関東にある我が母校を訪れることにした。前日グリーン券を780円で購入して、沼津駅からグリーン車に載って、片道5時間の電車の旅を楽しんだ。お盆休みが始って、若者たちが多かったが、最初から最後まで座る事ができた。

私が大学受験で初めてその街を訪れた頃は、静岡から新幹線に乗り換え東京まで行き、山手線で上野駅に移動し、東北線に乗り換えて特急電車で2時間弱揺られないと着かなかった。

しかし、今では東海道線から東北線が乗り換えなしで、東京を乗り換えなしで通過できてしまうのだった。

青春18きっぷは、新幹線が利用できないので、東海道新幹線も東北新幹線も利用できないが、何でもかんでも速ければいいというものではないので、そこにこの切符の価値があるのである。

地元の人は、自分の故郷は「北関東」であって、決して「南東北」ではないという強い自負があり、「○○は北関東で一番だかんねっ!」などと、農産物の自慢を盛んにするのだったが、他県出身の我々には、彼らの訛りはどう聞いても東北っぽかった。

電車は予定通り到着した。今では東北新幹線も停車する、東京の通勤圏の中の一都市になったようで、駅の建物も大きくリニューアルされていて、昔の面影など全くとどめていなかった。

いつの間にか、『餃子の街』として全国的に名を馳せていて、その日も餃子を食べに来たと思われる観光客たちは駅前のどの餃子店に入ろうかと、ニコニコしながら物色していたようだった。

  大学キャンパス

母校まではJR駅前から、バスで約12分。正門前で降ります。守衛さんに、「?十年前にここを出た者ですけど、久しぶりに来て見ました。中を散歩させてもらってもいいでしょうか?」と、一言許可を求めた。

白髪頭の守衛さんは、「そうですか。どうぞどうぞ・・。」とニコニコしながら許可してくれた。

私が入学した頃は、まだ学生運動がくすぶっていて、正門では毎朝のように黒いヘルメットをかぶって、タオルで顔半分を隠しビラ配りをしている過激派学生が5~6人いたた。

キャンパスのあちこちには、赤いペンキで独特の字体の「立て看板」が立っていて、その横では、過激は学生が拡声器で訳の分からないことを演説していた。

  庭園の池

正門の右手には、この大学のご自慢である「フランス式庭園」があり、丁寧に刈り込まれた幾何学模様の生垣が、昔のまま存在していた。当時我々は「仏庭」(ぶってい)と呼んで、そこの芝生に車座となって「飲み会」をやったものだった。

酔っ払ってくると、手拍子で軍歌や色っぽい「春歌」などを大声で歌い、酔いに興じて池に飛び込む者が続出したものだった。

翌日、池に入って、落としたはずの腕時計を手探りで必死に探す者などがいて、見ていて可笑しかった。

  ピンフ堂

東門前にあった食堂「平和堂」は、学生専門の食堂で、味もさることながら値段が手頃で、構内で営業している学生食堂よりもずっと人気が高く、いつも混みあっていた。

ジャムおじさんのようなご主人と奥さんが切り盛りする平和堂は、マージャンの役に掛けた「ピンフ堂」と学生に呼ばれ人気No1の食堂だった。

  良心的な価格

盆休みで営業はしていなかったが、貼られたメニューを見る限り、スペシャル定食410円、カツカレー410円・・と500円でおつりが来る、という良心的な値段設定が昔と変らなくて、嬉しくなった。

キャンパス内の道路には、センターラインがキチッと引かれ、道路標識も多く、横断歩道のいたるところに書かれていた。私が学生だった頃は、自家用車で通学する学生など1割もいなかっただろう。

更に、街路樹がどれも大木に変身していて、無数のツクツクボウシが鳴き狂っていた。キャンパスに一歩踏み入れたときの印象は、緑溢れる森の中のキャンパスという感じで、学び舎としては最高の環境であろう。

私がお世話になった下宿は、「ピンフ堂」から歩いて10分ほどのところだったが、すでに汗が体中から噴出していたので、そこまで歩く根気はなく諦めた。

高校3年のときは、東京の大学をいくつか受験したのだが、どれも私にはピンと来なくて、こんなところで学生生活は送りたくはないなあ、と少し憂鬱な気持ちであった。

しかし、最後に受験に来たこの大学を見たとき、「こりゃあ、いいや。ここに決めた。」とまだ受験前だというのに、私は勝手に決めていたのだった。

休みに入っていたので、学生はほとんどいなかったが、それでも4年生であろうか、研究室に向かう学生たちは、みんな小奇麗な格好で、どことなくテレビに出るジャニーズ系のタレントの様でもあり、私は薄汚かった昔の自分と比べて、ひとり笑ってしまっていたのだった。

連休はソウルでキムチとスリルを味わってみる??

2017年04月22日 | 旅行
今、世界で一番危険度が高い国といったら、シリアでもイギリスでもニューヨークでもない。誰が何と言おうと、南朝鮮である。

いつ朝鮮戦争が再スタートしても不思議ではない。

今、このブログを書いている最中にでも、戦争が勃発するかもしれない状況だ。南朝鮮の要人はこういう状況でも、自国民たちの心配をする以前に、日本はこれに乗じて軍備を拡大する魂胆だ、とかソウルが危険だ、危険だとか煽っている、などと能天気な発言をしているようだ。

どこまでいっても、間抜けな部族で、いっそのことこの機会に地上から消滅してしまうのが、彼らのためなのかもしれない。

こういう南朝鮮の不安を「忖度」したのか、日本の害無省も特別南朝鮮が危ないとは言っていないところが、さすが太っ腹というか、無責任と言うべきか。ホームページを見てみるとやっぱり危機感はないようだ。

  勝手に注意してや。

DVDレンタルショップには、相変わらずアッチのDVDが一杯並んでいるので、借りる人はいるのだろう。そういう少し変わった方は、5月の連休に是非旅行してはどうだろう。

街は空いているし、ウルサイ支那人観光客はめっきりいなくなったようだし、観光客が減って困っているソウルの土産物屋に行けば、寄生虫入り特製キムチを一つくらいサービスしてくれるかもしれない。

 安い!!タダ同然!!

食べ物屋に行けば、農薬をたっぷり使って栽培した新鮮な野菜で包んだ焼肉が待っている。

ニセモノブランド品もよりどりみどり。北から飛んでくるかもしれないミサイルも心配だが、それより行き帰りの飛行機が墜落するかもしれないというスリルも結構味わえるらしい。

 突然のビル崩壊あり??

この時期に南朝鮮に行ってきたというのは、思い出にもなるだろうし、結構自慢話にもなるかもしれない。ただし、「へえ~~、すごいね!!」という人の本心は、「アホか、お前は・・」だろうから、その辺は承知の上でお話下さい。


今、APAに泊まりどき!

2017年01月18日 | 旅行
そういう手があったか!というちょっとした驚きがあった。

APAホテル関連のニュースを知ったとき、驚きというより小さな感動すら覚えたのだった。支那共産党当局がAPAホテルの各部屋に置かれた本に関して、発狂している様子を見れば、この小冊子がいかに大きなインパクトを支那共産党政府に与えたかが、容易に分かる。

  支那人いません。今が旬!

以下、ネットのニュースより抜粋。

『 【北京時事】日本のアパホテルの客室に備えられた書籍が、旧日本軍による南京事件を否定しているとする投稿が中国版ツイッター「微博」にあり、同ホテルに対し「中国人の感情を傷つける」といった非難が中国のネットやメディアで上がっている。』

アメリカ人の女性が、多分支那人の友人なのか知り合いなのかにそそのかされて、上記の事実を伝える動画を youtube にアップしたのが発端だった様で、その付け火を支那共産党の情報部が火吹き棒で焚きつけて、騒いでいる状況のようだ。
  近代史に関する書籍

『アパグループによると、書籍は同グループ代表の元谷外志雄氏の社会時評を日本語(英訳付き)でまとめたもので、当時の南京市の人口などを基に、南京事件の犠牲者を30万人とする中国側の主張を「あり得ない」と指摘した。』

大切なのは、考えを日本語と英語で発している点だ。これがこれまで日本政府がおろそかにしてきたことで、今回も英訳されていなければここまで短時間で拡散されなかっただろう。

『これに対し、共産党機関紙・人民日報系の環球時報は「旅行業の基本的な道徳に反し、容認できない」と主張する社説を掲載。一部の旅行会社が同ホテルとの協力停止を宣言したと報じた。』

支那共産党の慌てぶりが、興味深い。本当のことを指摘されて、必死になって火消しをしようとしているわけだ。

これに対して、APAホテル側の応対がブレることなく、高く評価されるべきだと思う。その対応とは・・。

『アパグループは17日、「異なる立場の方から批判されたことをもって、書籍を客室から撤去することは考えていない」とする見解を発表した。』

そして、支那共産党の見解は、南朝鮮がいつも言うセリフと同じで、『日本国内の一部勢力が歴史を直視したがらず、否定、歪曲(わいきょく)しようとしている・・』と喚きたてるだけだ。

APAホテル側は、歴史を直視した見解を表しているわけだから、支那共産党の批判はまったく当たらない。

それよりも何よりも、APAホテルに今宿泊すると、あのウンザリする支那人観光客と遭遇することはなさそうだ。これは朗報ではないか。

ロビーでも、廊下でも、レストランでも、カラスが群がっているような騒々しさで、日本中の観光地という観光地の不快指数を上げまくっている支那人観光客。

これに対する絶好の忌避剤を提示してくれたAPAホテルに喝采を送ろうではないか!

越中・五箇山から時空を飛ぶ

2016年11月19日 | 旅行
今月初めに塩硝(硝石)の製造基地として名高い、「陸の孤島」富山県五箇山の合掌造りのを見るため、衝動的に早朝家を出発して、高速道路を飛ばしたのは良かった。

  白川郷と同じ合掌造りの里の世界文化遺産登録



しかし、先月秋祭りのおでん係で、600人分のおでんを作ったときに痛めたと思われる腰が、長時間ドライブのために悪化して、いまだに体調最悪である。

五箇山の帰りの車中で、私の頭の中は時空を飛び越え470年前の種子島に飛んでいた。

『一語読み(イチゴヨミ)自分で作った種子島』と暗記した、1543年の出来事、『種子島に鉄砲伝来』の年号の覚え方は、今でも忘れずにいる。


 屋久島の東にある「種子島」


五箇山がなぜ種子島に結びつくか。それは、種子島からスタートした鉄砲の歴史に五箇山が大きく関与するからであった。

  鉄砲は戦(いくさ)を変えた

1543年に種子島の島主・種子島時堯(ときたか)がポルトガルの商人から2丁の火縄銃を購入し、翌年にはすでに国産化に成功し、全国に広まっていった。

2丁の火縄銃から始まった鉄砲が、わずか57年後の関が原の戦いでは、その数4万丁とも5万丁ともいわれるほど、大量に使用されることとなる。

  鉄砲使用の戦術は独特だった

しかし、火縄銃には火薬と弾が必要で、さらに黒色火薬は硫黄と木炭と塩硝(硝石)を調合して作る。硫黄と木炭は国内で調達できるが、硝石は国内にはなかった。

自前で調達できなければ、当初は輸入に頼るしかなかった。

  硝石の輸入ルート

戦国時代、鉄砲の需要の拡大と共に、塩硝の自前での生産は重要課題であったわけだ。そこに、一向宗(浄土真宗)や織田信長が絡んできて、越中五箇山・塩硝の生産基地という状況に収束していったようだ。

五箇山の「塩硝の館」では、切符切り兼解説員のおばさんが、五箇山の農家の方々が独自に塩硝作りを考えたんです・・などと解説していたが、調べてみると、すでに種子島の時点で、火薬の調合の仕方や塩硝の情報などはかなり入手していたようだ。

当然といえば当然で、当時は種子島とて戦闘体制下にあったため、新型兵器としての火縄銃は、格好の武器になりうると判断されたのは必然のことだっただろう。

このあたりの歴史を調べ始めると、1543年、鉄砲伝来などと簡単に通りすぎるわけにはいかない。

「1492年、コロンブスが新大陸を発見」などと丸暗記しただけだった社会科の授業だったが、その頃の状況を掘り下げると、目からウロコがボロボロ落ちたように、日本の16世紀後半の当時も、いや、実に興味深い事実が満載である。

続きは、今後綴っていくことにする。

おすすめです、台湾旅行

2016年10月09日 | 旅行
私が最初台湾に関心を抱いたのは、今から4年前にシンガポールに赴任していた時、デパートの台湾フェアで出会った台湾の中年女性がきっかけであった。

このことは以前ブログにも書いたが、もう体中で日本大好きを感じさせていたそのオバサンと話して、当時漠然とした知識しかなかった日台の近代史と、日韓の近代史を考えても、なぜ片や親日で片やギラギラの反日なのか・・という素朴な疑問が発端だった。

先月台北旅行に行って、私は合計5回台北旅行を経験している。去年の5月に衝動的に台北に行ってから、中3ヶ月おきに出かけているわけだ。

当初は、行くところ行くところに支那本土からの団体旅行客がいて、ウンザリさせられたが、今年の1月の民進党による政権交代からは、支那共産党の嫌がらせのため、大陸からの団体旅行客が急減しているらしい。

その影響もあってか、日本・南朝鮮からの観光客は3割増しで増えているそうだ。

日本国内でも、京都や奈良の観光地で支那人観光客達のマナーの悪さが嫌がられて、欧米の観光客のみならず、日本人の観光客離れが始っているという報道がされていた。

私は、この現象の責任の一端は、観光地の支那人たちに対する対応の甘さにもあったと思っている。「土産を買ってくれるから・・」と甘い顔をしていると、支那人たちはやりたい放題となること、最初から分かりきっていた。

とまれ、最近の新聞にも台湾観光のツアーのチラシが入っていたり、テレビのスポットCMでも格安台湾ツアーが流されたりしていて、この風潮は結構なことである。

  小龍包(しょうろんぽう)

Youtube などでも、「台湾 観光」などと検索すれば、個人旅行で台湾に行った人たちが、その時の体験をいろいろアップしていて、大変なつかしく観ることができる。

旅行の予算も手頃で、言葉もさほど苦労せず、何とか筆談などでも意志の疎通は可能なので、個人旅行がお勧めだ。

国内ツアーでもそうだが、名のある観光地を短時間で廻り、買いたくもない土産物屋に連れて行かれ、これを食べろと言わんばかりに出されたものを時間内に腹に詰め込む、団体ツアーは、話の種には一度くらいはいいかもしれないが、終わってみると大した思い出にはなっていないものだ。

  マンゴーアイス、カキ氷

前回、帰国時の飛行場で会った、ツアーのロゴワッペンを胸に貼り付けたおばさんたち五人組に「台北はどちらを廻られたんですか?」と話しかけたとき、一人が「何て言ったっけ?高いビル・・・」「ああ、台北101ですね」と私。「他にはどちらへ?」

「・・なんだっけ。街から離れたところの・・キュウ何とか。」「ああ、きゅうふんですね。良かったですか?」と聞くと、「うーん、坂道ばっかしでねぇ・・、人も多かったし。」と、全く楽しそうではなかった感じでした。

 おなじみ九份(きゅうふん)

大方、こういう中年女性たちのツアーは、観光そのものよりも、上げ膳据え膳それだけでも十分楽しいものだそうです。(我家のカミさんの弁)

新聞のチラシのツアー内容は、バスで台湾を一周しながら、途中の観光地や温泉地に立ち寄り、最後に台北市内の観光までもやってしまうという、強行軍でした。

何はともあれ、一度台湾を旅行すると、「嫌な思い」をする確立はかなり低いことは保証できると思います。全員がそうではなくとも、親日的な人の割合がかなり高いことは確実だからです。

私は、台湾を訪れるたびに新たな興味が湧き、恐らく今後も行き続けることになると思いますが、個人的には絶対に行かない観光地がいくつかあります。

一つは、「九份(きゅうふん)」であり、もう一つは「中正祈念堂」です。


  九份(きゅうふん)から基隆港

1998年、ヴェネチア映画祭グランプリ受賞作 「悲情城市」の舞台となった九份(きゅうふん)は、かつて金鉱山の町として栄えたが、その後次第にさびれてきたのだった。

しかし、長いことタブーだった台湾近代史の228事件を扱った台湾映画、「非情城市」の大ヒットによって、地元台湾の方々が訪れる一大観光名所として脚光を浴び、今や台北市内から1時間足らずの便利さもあり、観光客で溢れている。


私は、6月に台北を訪れたときに、「国家電影資料館」に出向き、長いこと観たかった「非情城市」をビデオで観ることができた。

  九份(きゅうふん)「黄金酒家」

この映画の中に何度も出てくる、九份(きゅうふん)から基隆港を望む光景を拝みたい気持ちは強いのだが、敢えてこの地を嫌う理由は他にある。

それは、ほとんどの日本人観光客が、宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくる町はここをモデルにしたらしいと喜んで訪れるからだ。私は、実はあの宮崎駿や彼の子供向け映画が大嫌いだ。

宮崎が九份をモデルにしたのかどうか真偽は知らないが、あの『千と千尋の神隠し』の中では売春宿として出てきているし、千尋がはたらかされた湯女(ゆな)とは、風呂浴びの客の世話と同時に売春までした娼婦のことではないか。

彼の子供向け映画は、この映画に限ったことではなく、ほとんどすべてがコテコテの社会主義者らしく、反国家、反家族という子供の頭を洗脳することに主眼においた内容である。子供が両親や大人社会を馬鹿にし、家族解体に抵抗感を持たせない内容だ。

Youtube にアップされた台湾旅行の動画などを観ても、多くの若者達は九份を訪れたとき、この映画のモデルになったと言及して喜んでいる。私は、これが残念でならない。


もう一つ、私が絶対に行かない観光地は、「中正祈念堂」である。

   蒋介石を祀る場所

戦後毛沢東の共産党に負けて、支那大陸から台湾に逃げてきた独裁者、蒋介石を称えて祀り、人々に崇拝を強要するための廟を台湾人は毛嫌いしている。

そして、同時に彼らはここを何の抵抗もなく訪れ、ロボットのような衛兵の交代の写真を無邪気に撮る多くの日本人観光客を目にして、一体どのように感じているのだろうか。

  独裁者・蒋介石坐像

多分、台湾のそういう歴史のことなどほとんど知らないからなのだろうが、それにしても無神経すぎるのではないだろうか。

私はこんなところには絶対に行きたくはない。

こんなところに行くくらいなら、台北市内にある二二八和平公園内にある、「二二八祈念館」を是非訪れて欲しい。この公園に朝7~8時頃行けば、太極拳や体操に励む台北市民達を観ることができ、ゆったりした時間を味わうことができる。

「地球の歩き方」のような観光ガイドブックを購入すると、大抵最後の方にその国の簡単な歴史や政治・経済などの情報のページがある。こんなところで、基礎知識を得ていくだけで、旅行は一味違ったものになる。

その労を惜しまず、できればもう一歩踏み込んでインターネットで分からないことを調べておくと、尚更旅が有意義なものになること請け合いである。



LCC、片道2時間 1万円のスリル

2016年10月08日 | 旅行
報道によると、『LCCエアソウルは10月8日から静岡空港とソウル(仁川空港)を結ぶ定期便を運行するとのこと。

これまでこの路線はアシアナ航空が運行していましたが、この便の運行会社を子会社のエアソウルに変更という形になるようです。』

    塗料を節約した機体

利用機材はA321-200、席数は195席。水曜日と日曜日を除く週5日、富士山静岡空港と仁川空港の間を約2時間で就航するそうです。

往復ともに最低価格は10,000円からとまずまずの低価格だそうで、商工会議所の慰安旅行や時代遅れの韓流ファンのオバ様方、その他ワクワク、ドキドキ、ちょっと気晴らしの旅を望まれる南朝鮮好きの男女にとっては、さぞかし朗報なのでしょう。

   生死を共にする美脚のスチュワーデスさん


3ヶ月前にこのニュースの第一報を当ブログにも載せましたが、就航を喜ぶ方々にとっては、嬉しい気分に水を指すことにもなるかもしれませんので、見ないほうがいいでしょう。


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嘉義神社跡 と 「射日塔」

2016年09月23日 | 旅行
日本統治時代に嘉義市内にあった「嘉義神社」は、今「嘉義公園」になっている。

日本の敗戦と同時に、蒋介石の中国国民党が大陸から台湾に逃げてきて以降、彼らは日本の統治の痕跡をことごとく無くそうとした。

神社本殿は無くなり、鳥居は何やら支那式の門に立て替えられているが、石段や灯篭、狛犬、手水舎などは残っていて、当時の面影を感じさせてくれた。

  参道には石灯籠が


  手水舎は残されていた

台湾では野球のことを棒球という。

そして、嘉義市立棒球場のすぐ横に嘉義公園がある。公園内に高くそびえ立つ円筒の建物は、「射日塔」と呼ばれる嘉義市のランドマークである。

  射日塔は高さ62m

射日塔とは、台湾原住民のタイヤル族に伝わる伝説が由来となっているそうだ。文字通り、お日様を弓矢で射るというお話からきている。

昔々、太陽が何日も何日も出ていると暑くて暑くて、農作物は枯れて死ん出しまうほどだった。人々は暑さを大変不便に感じていた。

  原住民・タイヤル族

やがて、太陽が山に沈むと、今度は真っ暗な夜が延々と続き、何も見えなくなる。人々は何かいい方法は無いだろうかと思案した。

みんなでうまい解決方法はないものかと話し合った結果、太陽が出たときに半分に分けたらどうだろうかという結論に至ったのだった。

岩の陰から弓を引き、太陽を射ると、それ以後は昼と夜に分かれて、みんなは楽に暮らしていけるようになったそうだ。

この話を基にしたオブジェが射日塔に飾られていた。

  太陽を射るオブジェ

入場料50元を払って、エレベーターで10階まで上がると、そこはギャラリーになっていたが、階段を上がるとカフェがあり、ぐるりと嘉義市内を展望できる。

さらに屋上まで上がると、花壇があって地元のデートスポットになっているようだった。

すぐ隣の嘉義市営球場もよく見えた。

  嘉義市立棒球場

帰りに、野球場入り口付近を散歩したら、やっぱり、嘉義農林学校の活躍のことが書かれたモニュメントがあった。KANOの活躍で、嘉義市は一躍台湾のみならず、日本の注目を浴びることになった・・というようなことが書かれていた。


実は実話の嘉義農林

2016年09月22日 | 旅行
今回も台北駅から長距離バスで嘉義市に向かった。ノンストップで約3時間かかる。

新幹線を利用すれば1時間ちょっとで着くのだが、前回帰りに利用したので、もう十分だった。日本の新幹線と何ら変わりはない。旅行気分を全く味わえなくて、少しがっかりしたからだった。

二度目の嘉義市訪問の目的は、何といっても映画「KANO」の地元を体感したかったからだ。

いわゆる「スポーツ根性もの」は、あまり興味がなかったのだが、この映画は80年以上前に実際にあった話を題材にしているため、荒唐無稽さがまったくない。

 当時の選手たち

当時の嘉義農林学校は、現在嘉義大学になって今でもちゃんと存在している。校舎も何箇所かにあるようだが、今回そこへは行く時間はなかった。

台北に帰るのもバスを利用する計画だったので、午後4時頃にはバスに乗りたかったからだ。しかし、ひのきビレッジのKANO故事館や、市内の噴水公園で十分KANOを味わってきた。

  
映画の中で、近藤監督が自宅の書斎で、毛筆で「甲子園」と書くシーン


そして、ひのきビレッジのKANO故事館の和室に飾られた「甲子園」の書


映画の冒頭、近藤兵太郎が風呂桶を持って登場し、嘉農の野球部選手と対面するシーン。このときの風呂桶が、KANO故事館の玄関にさりげなく置かれていたのが印象的で、心憎い演出だった。(同じ風呂桶かどうかは知らないが・・)

 
嘉農のエースで四番、チームの主将だった「怪腕」呉明捷投手

呉投手の銅像が、嘉義市内の噴水ロータリー中央にある。このロータリーは映画の中では建設中で、そのシーンが何度か登場する。




「甲子園!甲子園!」という掛け声で市内をランニングする野球部員


台湾の地区大会で優勝して甲子園行きが決った!


そして、この噴水ロータリーは現在こうなった。

 呉明捷投手の銅像

ロータリーの近くには若者対象のショップや食べ物やが多い。



嘉義公園から嘉義駅に向かう道路の途中にあるロータリーなので、迷うことはないのだが、今回は嘉義公園の前でタクシーを拾って、「噴水公園」と書いた紙を運転手に見せたら、一発で分かってくれた。

高齢の運転手さんは、右手でカメラを持つ格好をして、「写真を撮るのか?」と言っていた、、ようだった。私は、「そうです。」と返事をした。

そして、5分ほど走ってロータリーに着いた。降り際に運転手さんは、「ニホンジン?」と聞いてきた。「そうです。」と返事をすると、運転手さんは嬉しそうにニコニコして盛んに頷いていた。

広大な嘉南平野を穀倉地帯に変えた、八田與一という台湾の教科書にも載っている偉大な日本人土木技術者のおかげで、日本人の印象は嘉義ではとてもいいようだ。

天下の嘉農(KANO)

2016年09月21日 | 旅行


KANOとは嘉義農林野球部のユニフォームに描かれた校名「嘉農」のロゴである。去年の5月に台湾旅行をした際に、DVDショップに立ち寄って、何となく手に取り買ってきた映画DVDだった。3時間近い大作だったが、飽きさせることなく最後までワクワクしながら観終えた。

監督の近藤兵太郎を演じた、永瀬正敏の渋い演技がいい味を出している。

 

高校野球は、正直言ってあまり好きではなかったが、この話が単なる作り話ではなく、実際に85年前に起きた実話だと知って、関心が倍増した。

それまで公式戦では勝ったことがなかった嘉義農林学校野球部に近藤監督がやってきたところから話は始まる。そのスパルタ式指導で選手たちには、甲子園への夢が次第に芽生えていき、見事台湾代表となるのだった。

そして、甲子園でも予想に反して勝ち進み、見事準優勝することになったのだった。

映画には、台湾人に最も有名な日本人「八田與一」も登場する。彼が完成させた烏山頭(うさんとう)ダムへは6月に行き、八田與一の墓参りも済ませてきたばかりだった。

今回の旅行の目的の一つは、KANO故事館を訪れることだった。嘉義市内にできた「ひのきビレッジ」の一角に映画に登場する近藤監督の自宅を再現した「KANO故事館」があるとネットで下調べしておいた。

  
檜意森活村 Hinoki Village (ひのきビレッジ)

昔は材木の集積場として有名だった地域にできた、テーマパークで、様々な催しで賑わっていた。その中の一角に「KANO故事館」らしき家があった。

 派手な看板はない

玄関に何か書かれていたが、よく意味が分からなかったので、とりあえず中に入ってみた。玄関に脱いであった靴の数から見ると、ざっと20人ほどが中にいるようだった。

  玄関に置かれた風呂桶

玄関の壁際に置かれた古びたタンスの上に、無造作に風呂桶が置かれていた。

映画を観た人ならすぐに気付くだろう。冒頭、近藤監督が登場する場面で、人とぶつかった近藤監督が持っていた風呂桶を地面に落とし、桶が壊れてしまうシーンがあった。その場面を髣髴とさせる風呂桶である。

 
居間にはちゃぶ台があり、壁には昭和天皇皇后のご真影が飾られていた。居間の写真を撮っていたら、若くて背の高い女性が近づいてきて、「あのう、ここはレストランです。」と、たどたどしい日本語で話しかけてきた。

「ええっ?そうなんですか?!」と驚く私に、メニューを差し出して、「このラーメンがオイシイです。」と勧めるのだった。丁度昼時だったし、なかなかきれいなお嬢さんだったので、「じゃあ、それを一つお願いします。あのちゃぶ台で食べるんですね?」と私。

居間にいた人たちは、よく見ると食事を終えた人たちだった。奥の部屋にも食事中の家族連れが何組かいた。

 豚骨ラーメン


やがて日式ラーメンが運ばれてきた。冷たいウーロン茶とチーズケーキが添えられていた。大きなオクラが一本丸ごと入っている豚骨ラーメンはなかなかおいしかった。

それよりも増しておいしかったのは、デザートのチーズケーキであった。このチーズケーキは本格派で、これまで食べたチーズケーキの中で最もおいしいものであったと思う。

食後、許可を得て奥の部屋を見て廻った。そこには映画の中でもあった、近藤監督が正座して筆でしたためた書がいくつか飾られていた。

 一球入魂


  甲子園


同じようにラーメンをすすっていたお客さんたちも、みんなKANOのファンらしく、私が次々にシャッターを切るのをニコニコしながら見ていた。

 KANOのユニフォーム

映画のラストシーンは秀逸であった。

甲子園では優勝を逃した野球部員たちが台湾に帰る船上にいた。そこで、選手の声が、「帰ったら大勢で出迎えてくれっるのか・・・、がっかりした人たちを見るのか、どっちでしょうね?」と問いかける。

すると、近藤監督の声がこう答えるのだった。

「きっと、見渡す限り風邪にたなびく黄金の稲穂が迎えてくれるさ。」

ラストシーンの一言にも、八田與一の水利事業の栄光を掛けていたのが印象に残った。