孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

経済力も学力も高いだけが言い訳じゃない

2015年03月31日 | 日記
私がノーベル賞をどうも胡散臭いなあと思い始めるきっかけとなったのは、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞だった。それをきっかけに、以前の受賞者をみると、金大中だとか、アウンサンスーチーだとか、佐藤栄作だとか・・・首をかしげたくなる例は多いのではないか。

文学賞も基準がよくわからない。そもそも、翻訳によって文学のエッセンスはかなり歪められることはないだろうかと思う。その点、自然科学の分野では、客観的な事実で判断できるので、平和賞や文学賞に比較すれば公平性が保てるのではないだろうか?

日本人の受賞者が続出するのに比べて、中国や韓国ではいまだにこの分野での受賞者はでていないので、相当あせっていて、国を挙げて研究者の育成に力を注いでいるそうだ。学力テストの結果はいつも優秀なシンガポールも受賞者を出してはいないはずだ。

数学者の藤原正彦氏によると、ノーベル賞受賞者を輩出する国の特色は二つあるそうです。一つは、人間が成長する上で、身近に豊かな自然と優れた芸術など美的感受性を養える環境があること。もう一つは、金儲けや実用性だけを追及するのではなく、精神性を尊ぶ風土があること。この二点を挙げています。

子供を勉強漬けにして、テストの点数が高くても、金儲け第一主義のお国柄のうえ、年中うだる様な暑さで四季の変化もへったくれもないような国では、美的感受性も精神性を尊ぶ風土もあったものではないのでしょうか。

周りの山々の風景が四季折々で変化していく様子や、田んぼの稲がどんどん育っていく光景を見ながら成長していくのと、アスファルトの道路やコンクリートの建物ばかりを見ながら成長していくのでは、そりゃあ差は出るでしょうね。

したたかな華僑の末裔

2015年03月29日 | 日記
シンガポールのリー元首相が他界して、テレビでは涙を拭きながら会見をする姿を繰り返し流していた。それは先に独立を果たしたマレーシア連邦の仲間に入り、イギリスからやっと独立できたと思ったら、マレー人たちと対立した上に、マレー半島の先端の小さな島に事実上追放されてしまったからだった。

テレビでは彼のリーダーシップと経済成長の偉業を称えてばかりいたが、一体マレー連邦からなぜ追放されることになったのか、その背景にはどういったことがあったのかと言う点には、まったく触れていなかった。

シンガポールは多民族国家と言われるが、人口の75%弱は支那人で、その他、マレー人が13%、インド人が8%という構成で、政治経済は支那人が牛耳っている。

マレー半島は19世紀に入って英連邦の植民地となり、貿易を一手に支配し、ゴム園や錫鉱山など搾取の限りを尽くしましたが、そんな時重宝したのが華僑でした。マレー人に課税してその徴収を一手に華僑に任せ、労働者には疲労を麻痺させる阿片を売り付け、その担当も華僑にやらせたのです。

英国人の下で甘い汁を吸い続けていた華僑を、苦々しく見ていたマレー人たちには支那人にいい感情を抱いてはいなかったのです。リー元首相の自叙伝でも、日本の統治を反感を持って見ていた。イギリス人による統治の方をずっと高く評価している、と書いています。

そう言えば、ベトナム戦争が終結したときも、華僑たちが迫害を恐れて次々とベトナムを離れる「ボートピープル」が報道されました。華僑は、ジャングルの中でも人が住むところには必ずいて、多くは食べ物屋を営んでいます。日銭が稼げることと、元手が掛からないからだそうです。

そして、小金が貯まると金の指輪など、身につける装飾品に替え、一旦乱が起きればサッサとその土地を捨てて、別の土地に移っていくのです。

以前シンガポールで1年弱暮らしてみて、華僑のこういう独特な性質が、何となく理解できる感じがしたものです。

山桜が美しい

2015年03月29日 | 日記
急に暖かくなってきて、庭に植えておいたチューリップがもうすぐ咲き出しそうな気配である。近くの県立公園には毎年、これでもかと言うくらいのチューリップが咲き誇り多くの人を呼び込むが、それに比べれば我が家のチューリップ畑は、球根の数にして20個くらいで実にこじんまりしたものだ。

しかし、花が咲くと殺風景な我が家にも彩を添えてくれるので、暫し明るい気分になる。今朝のんびりしながら遅い朝食をとっていると、テレビで桜の見どころ情報や、連休に見どころとなるお花畑などの情報を映像を交えて伝えていた。

我が家の近くにもお花見スポットが何箇所もあるが、桜トンネルとか、本数を自慢にする名所などが多いようだ。本居宣長が詠んだ歌に、『敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂う 山桜花 』という一句があるが、昔から桜は日本人の美的感覚にピッタリする花である。

それは単に花の持つ美しさだけでなく、蕾が膨らみ始め一斉に満開になったかと思ったら、さっと散って今度は新緑の葉が伸びた葉桜で楽しませてくれる。バラなどの洋花は見ごろを過ぎても、まだ茎に残ったまま朽ちていく。花の色の美しさはかなわないかもしれないが、風に舞う桜の花びらを花吹雪と呼んだり、散った後も葉桜と呼んで鑑賞の対象とする情緒は、日本人の自然に対する畏敬の念が表れていると思う。

テレビでは、桜の後は芝桜がお勧めだと、各地の観光花畑を映像と共に紹介していた。ピンク色の芝桜は確かにきれいだが、どうも日本人の美的感覚とは少し違うんじゃないかと感ずるのは、私だけだろうか。

同じように、北海道のラベンダー畑なども、スケールは大きいし、絵に描いたように美しいのは確かだが、なぜか行って見たいという心情にはならない。それは、大袈裟かもしれないが、私の中に存在する、「侘び」「寂び」あるいは、「おつ」「粋」といった日本人独特の美的感受性とは程遠い所為かもしれない。

自由の女神のプレゼント??

2015年03月29日 | 日記
自由の女神は、女神と言うからには女性だと思っていたが、実はそこははっきりしていないようだ。左手に独立宣言が掘られた銅版を抱え、右手にたいまつを高く掲げた銅像は、緑青で緑色に見える。

像の頭部の冠には7つの突起があるが、あれは7つの大陸と7つの海に自由が広がるようにという意味を表しているのだそうだが、あくまでも白人社会の論理であって、「自由・平等・友愛」だとかいう理念は、彼ら独特の理念であることを忘れてはいけない。

自由の女神が贈呈された当時は、アメリカは南北戦争が終わって間もないころで、奴隷制度こそ廃止されたのだが、アメリカ南部では、ジムクロー法という法律による黒人差別が1964年まで歴然と続いていたわけである。私たちが滞米中も、南部には決して行かないように、厳しく言われていた。

欧米の白人社会は、自由だの平等だの友愛だの、立派な理念を掲げながら、北米の先住民や南米大陸の先住民族を皆殺しにしてその領土を奪い取り、大航海時代にはインドからビルマからベトナム、マレー半島の東南アジアを侵略し、植民地支配して略奪の限りを尽くしてきたという事実がある。

7つの大陸と海に自由を広げるなどと、都合のいいことを言っても、それは所詮取って付けた理念であることがわかる。侵略された方にしてみれば、迷惑この上もないことだったろう。

1886年10月に自由の女神は台座も完成して、除幕式を行った。台座の中はエレベーターがあって銅像の中につくられた螺旋階段を登って、頭部の冠まで登ることができた。階段はかなり急だったが、せっかくだからと私も列に続いて登り始めた。

幅の狭い螺旋階段で、登りながら目を上に転ずると、何と女性の観光客がたくさん登っていくのが見えた。彼女たちはほとんどが、当時流行が定着していたミニスカートをはいていて、見たくなくても下着が丸見えだった。しかし、彼女たちはそれを承知で(だったと思う)、手で隠そうともせず黙々と同じリズムで登り続けていた。

思わぬ光景に、私は動悸を3倍くらい激しくしながら、少し得した気分で時々上を見ながら登って行ったものだった。

人種の博覧会みたいだった

2015年03月29日 | 日記
中学生のとき観た「猿の惑星」という映画は、ラストシーンがショッキングだった。それまでずっと、宇宙のどこかの星での出来事だと思っていたのが、海岸の砂浜に胸まで埋まった自由の女神が現れて、そこは実は地球なんだと分からせる、というプロットだった。

映画を観てからおよそ10年後に、私は渡米して自由の女神の実物を見ることになるのだが、その時はまったくそんな気配も予兆もなかったのは言うまでもない。また、前回のブログにも書いたが、「猿の惑星」が、日本人(あるいは有色人種と言ってもいいかもしれない)を猿に見立てたストーリーであったということも、まったく知らなかった。

ジャーナリストの高山正之氏は、当時アメリカに産経新聞記者として赴任していて、日本であの凝った反日映画がヒットしていると知った米国人の知り合いが、不思議そうに驚いていた、と話している。

私はアメリカに2年間滞在したが、一番アメリカらしさを肌で感じたのは、実は自由の女神のあるリバティーアイランドという島に向うボートの中だった。観光客で満席だったそのボートには、地球上のすべての人種や民族が乗っていたのではないかと思えるほど、実に様々な国の観光客を観ることができた。

白人と言っても、背が高い人、私より低い人、アジア系、中東系、それに見るからにインド人といったターバンを頭に巻いた一団、女性も丸々太ったラテン系の女性や目鼻立ちがはっきりしたロシア系の女性など、人種の博覧会のようだった。

私は、これが人種のるつぼといわれるニューヨークそのものなんだなあと、しばし見入ってしまったのだった。そして、リバティーアイランドに着いた私は、そこでもっと驚き感動する体験をすることになったのだ。

衝撃の「猿のは臭せえ」

2015年03月28日 | 日記
社会人になって4ヶ月目に海外出張を仰せつかった。タイからマレーシアに向かい、台湾に立ち寄って帰国するという1週間の出張だった。タイでは、取引先の水産会社のタイ駐在員二同行して、紋甲イカの加工工場の視察と、他にサトウキビの収穫後の穂先を集めて、酪農家に牧草として販売するという可能性を考えるための現地調査だった。

楽しみにしていたのは、サトウキビの案件だった。というのは、その視察場所が今は国名をミャンマーと変えたビルマとの国境近くの、カンチャナブリというところだったからだ。そこは、戦争当時日本軍がタイとビルマをつなげる泰緬鉄道のために川にかかる鉄道橋を造った場所だった。

クワイ川に架かる鉄道橋は、映画「戦場にかける橋」で一躍有名になったが、映画を見なかった人でも口笛で始る『クワイ川マーチ』は耳にしたことがあるだろう。映画は、アカデミー賞作品賞を受賞し、原作のピエール・ブールは脚光を浴びることとなった。

しかし、ピエール・ブールはこの映画で日本を貶めようとしたのであって、立派な橋を建設した日本軍を称えようとしたわけではない。日本嫌いの彼は調子に乗って、「猿の惑星」というSF小説を書き、これも映画化された。私が中学生の時だったが、当時猿のメイクアップがあまりにもリアルで、映画雑誌でも大きく取り上げられて話題になった記憶がある。

映画も大ヒットして、私は友人と観にいったが座れなくて最後まで立ったままだった。しかし、ピエール・ブールは日本人を猿に見立てて物語を考えていたということを知っていた日本人は、当時いなかったのではなかろうか。日本人嫌いの白人たちは、昔から日本人のことを「イエロー・モンキー」と呼んで蔑んできた。

人間以下の生き物たちに、長い間植民地支配してきた東南アジアを追い出された欧米の白人たちは、当時あの映画を観てさぞかし溜飲を下げたことだろう。その後、映画は次々と続編が作られている。

猿扱い、というと、こんなことがあったのを思い出す。それは私が富士登山をしたときのことだった。晴天の日を選んで、一人でのんびりと頂上まで登頂してから、ゆっくり下山してきたが、喉が渇いたので7合目辺りの山小屋前のベンチで一休みしていた。眼下には雲海が広がり、これから頂上を目指す人達も多くて小屋前は賑わっていた。

暫くして外国の女性二人連れが下山途中に休憩に立ち寄った。同じようにベンチの空いたところにザックを下ろし、汗を拭きながら飲み物を飲み始めた。二人とも身長170cm以上の大柄なお嬢さんで、格好や装備から山登りの経験がかなりありそうだった。そのときだった、一人がやおら着ていた上着を脱ぎ始め、着替えを始めたのだった。

上半身は下着一枚になって豊満な体が他の登山客の注目の的になっていた。しかし、不思議なことに彼女は恥らうでもなく、まるで我々など眼中にないといった素振りで、黙々と着替えを終えた。あまりの大胆さに周りの男性たちの方がオドオしていた様子で、見てないようでチラチラ目をやる姿は滑稽だった。

下山してから、友人にこの話しをすると、「多分ネエ、彼女は周りの日本人男性たちを人間だとは思ってなかったんだろうね。畑のかぼちゃか何かだという感じだったんだろうな。」と、何とも皮肉な解説をしてくれました。

てるてーる、坊主じゃありません。

2015年03月28日 | 英語関連
自動車といっても、その歴史はたかだか100年である。それまで無かったものがどんどん進化してきたわけだから、それに伴って新しく名づけられたりした物や、進化の過程で呼び方が様々に変化したりすることもあったわけだ。だから、運転手が後ろを見る鏡を、バックミラーと呼んだり、リアビューミラーと呼んだり、あるいはドライビングミラーと呼んだりする。

少し前に、ダッシュボードのことを書いたが、フロントガラスも同じこと。風が当たって寒いからそれをさえぎる物ということで、アメリカではウインドシールドと言うし、イギリスではウインドスクリーンと呼ぶそうだ。

先日初めて覚えた言葉に、「テルテール」というものがある。「てるてる坊主」みたいで面白かったので、何のことですかと聞いたら、半ドアとかシートベルト未着とかオイル不足なんかを知らせる警告ランプのことですよ、と「何打そんなことも知らないのか・・・。」と言いたげに教えてくれたので、「英語ですか?」と聞くと、「さあ・・・」と首を傾げていた。

机に戻って、早速「テルテール」をググッてみると、すぐに分かった。「telltale 」という、れっきとした英語であった。意味が面白かった。「tell 」と「tale 」 という単語からできた言葉で、「お話を告げる」と言った意味かと思ったら、言葉のニュアンスは、「言わなくてもいいかもしれないけど、あえて暴露する。」というものだそうで、なるほどね、と膝を叩いた。

「ドアが半ドアですよ」「シートベルトがまだですよ」「オイルが無くなりそうですよ」などと、お節介に教えてくれる警告ランプを、テルテールと名付けるとは、何とも旨い発想だと感心しました。

打ち出の小槌を持った校長。

2015年03月26日 | 日記
大阪の学校で父兄から徴収した金をちょろまかして裏金を何億円も貯めこんでいた横領事件は、まったく呆れるばかりだが、余分に払った父兄は子供を人質に捕られているようなものだから、おかしいなと思っても何も言えない雰囲気だったのかもしれない。

ましてや、野球部に息子を入らせた父兄などは、我が子がもしかしたらプロ野球選手になれるかもしれないと、頭がのぼせてしまっているだろうから、それどころではなかっただろうと想像できる。成績のいいスポーツ選手を持つ父兄の逆上せぶりは、私の遠い親戚で実際によく見てきたので、決して想像に難くない。

学校のように閉鎖された職場で、3年もしくは6年で生徒が入れ替わっていく環境では、悪事がなかなか外にはばれにくいという環境なのだろう。事実定年退職した教員には、口止めのフランスの高級スカーフをプレゼントしたそうだ。その時の雰囲気は、口止めをされているような雰囲気だった、とインタビューに答えていた。

裏金作りお言えば、私の地元の県警でも以前、警官たちの悪事がばれてニュースでセンセーショナルに報道されたことがあった。いわゆるカラ出張や偽領収書による公費のちょろまかしで、何千万円も貯めこみ、慰労会や転任者への餞別などに使っていたという。

偽の領収証に押す様々な名前の三文判を数十本無造作に輪ゴムで留めて、引出しに入れてあった「担当者」の映像が流れていたが、彼も県警の警官なのだった。確かしでかした事に比べて、大したお咎めがなかったはずで、きっと今頃は、当時よりもっと巧妙に悪事を働いていることだろう。

あれほどいい思いを経験した連中である。一度ばれたくらいで改心するはずがないだろう。学校にしても、今回ばれちゃった学校以外で、冷や冷やして成り行きを見守っている学校関係者がいるに決っている。酒飲みは、ただ酒ほど旨いものはない、と言うではないか。

「侵略」「植民地支配」で正しい歴史認識を!

2015年03月26日 | 日記
「正しい歴史認識云々」が、ありもしなかったことに対して謝罪したり、賠償したりすることでないことくらい、当然な事だと思うのだが、そのありもしないことを、何度も何度も大声で言われると、ここは一旦謝罪して波を鎮めておこうと思うのが、日本人の悪い癖だと思う。

海外に出るとき、私は「外国では、何かあっても簡単に謝ってはいけないよ。特に自分が悪いかどうかはっきりしないときに簡単に謝っちゃうと、前部君の所為になるからね。」と、先輩諸氏から強く言われた。その言い方は、絶対に謝るなという意味ではなく、「簡単に」謝るな、という点に力点が置かれていた、と理解して胸に刻んだものだった。

アメリカ人は、人ごみで肩が軽く触れただけでもすぐに、「エクスキューズ・ミー」と口にするが、あれはあれで見習うべきエチケットだと思い、すぐに私もマネをした。

日本では、特に大人の、しかも年配の女性に多いようだが、会話の始めや終りに口癖のように、「ゴメンね」と言う人がいる。「ゴメンね。これ、ちょっとそこに置いといてくれる?」とか、「来週の火曜日は階段掃除の当番だからお願いします。ゴメンね。」とかいった調子で、激しい人は、前と後の両方に「ゴメンね」を入れたりする。「ゴメンね」の大安売りである。

政治家の謝罪も似たようなところがあって、その場を収めると言う意味の謝罪のつもりでも、言わせた方にしてみれば、これほど大きな成果はないのであって、言質をとった意味は極めて大きいだろう。河野談話だとか、村山談話だとか、一体なぜどういう機会にあのようなことを言ったのか、当時の記憶はないのでよくわからないが、その内容はどうも私は理解しがたい。

現政権では、近々安倍談話を発表する予定があるそうだが、「とりあえず謝罪」は勘弁して欲しい。「侵略」と「植民地支配」という言葉は必ず入れて欲しいと要求する人がいるなら、この際その二語を入れた、正しい歴史認識を堂々と公言すればよい。私ならこんな風にまとめるのだが、どうだろう。

「日本は70年前に、敗れはしたが大きな戦争を戦った。それは、16世紀から続いた欧米による南北アメリカ大陸の侵略・虐殺、そして卑劣な植民地支配がアジアまで及び、日本の安全と独立が脅かされんとしたときに、敢然と立ち向かった結果であり、このため東南アジア諸国が植民地支配から解放され、独立国家となる道を切り開くことになったのである。」

抗日戦争勝利記念? ハァ??

2015年03月25日 | 日記
夫婦で九州に温泉旅行に行ってきた友人が、「どこに行っても中国人だらけだったよ。」とボヤキまくっていた。土産物屋だけなら我慢するが、泊まった旅館に中国人のツアー客がいたら、ホントに悲劇だよ、と語っていたが、特に楽しみの温泉に入れないのが辛かったそうだ。

とにかく喧しくて、喧しくてゆっくり温泉に浸かっていられないのだ、とため息をついた。同じような経験を、私は北海道でしたことがあった。記念撮影が大好きなようで、立ち入り禁止の所にも大勢で入って記念撮影をしていた。

韓国人も似たようなところがあるが、一対一で話すと極普通の人に見えるのだが、複数になると人格が変わったように日本の悪口が始り、大声で喚き散らすのだ。

今後、外国人労働者が益々増えて、移民が滑った転んだということになれば、該当するのは中国人か、韓国人になるのではなかろうか。考えただけで、鳥肌が立ってくるので、考えないようにしている。

中国政府が、抗日戦争勝利70年の式典に安倍首相を招待したそうだが、どうも安倍首相は出席しないようだ。それはそうだろう。70年前、あの国はまだ存在していなかったのだから。独立したのは1949年じゃなかったかな?

建国の独裁者、逝く

2015年03月24日 | 日記
シンガポールの建国者がとうとう他界したようだ。この国に対する日本人の抱くイメージは、概していいものだが、私が1年弱赴任していた経験から見ると、決して住みやすい国だとは感じなかった。

確かに、予想していたほど人工的な景色ばかりではなく、街並みはゴミが落ちてはいなくて清潔感はあり、その前に赴任していたマニラの街並みなどと比較するまでもなく、安全できれいなものだった。鉄道は安い交通手段で、どこへでも気軽に行けて大変便利だった。

ただ、電車の中も、駅の構内も、プラットホームも、すべてで飲み物・食べ物は禁止されているので、あの熱い国ではいくら冷房が効いているからといってものどは渇くので、私はつらかった。電車の中で、知ってか知らずかペットボトルをラッパ飲みする欧米の観光客を何度も目にしたものだ。

決められた場所以外での喫煙も罰金の対象で、愛煙家にとっては辛いものらしく、広い公園だからいいだろうと思って一服したら、私の前任者は私服の公安に捕まって、罰金を払わされたそうだ。

いたるところに、「○○禁止」の看板が立てられているのはいいとしても、その看板の下の方には、必ず金額が書かれていて、それは罰金を表している。この辺りは、我々日本人の感覚とはまったくかけ離れている、と感じたものだ。

たまに、電車の中に警官らしき格好をした集団が巡回しているのを見る位で、街中に交番が点在するわけではないし、おまわりさんのような人も見かけないのだが、その代わり私服の公安が結構目を光らせているという話を聞いた。これは、治安を守るというより、政治犯を監視する目的が強いということだそうだ。

政府はマスコミを厳しく検閲しているため、報道の自由はなく、国民に政治の話を振っても皆無関心を装って、話には乗ってこない。権力は世襲されるし、「明るい北朝鮮」と揶揄されるのも無理はないだろうな、と妙に納得したものだった。

インドのカンニング・・・

2015年03月23日 | 日記
インドの進学試験でのカンニングの凄まじさのニュースには大笑いしてしまった。人生が決ってしまうような試験らしく、必死になるのは分かるが、試験管が見てみぬフリをしているのはどんなものか。

カンニングといえば、私も思い出すことがある。二十数年前、フィリピンに赴任したとき、通勤で社用車を運転するので、国際免許証を持参するように言われ、暫くはそれで運転したが、やがて地元の運転免許を取るように上司から指示された。会社の顧問弁護士がマニラの試験場に同行してくれるから心配ないと言われたので、少し安心して、当日は特に何も用意せずマニラ市内の運転免許試験場に出向いた。

筆記試験は地元の人達と一緒に受けるので、外国人だからといって特典はない。まず、5パターンある問題集を閲覧して、出題される問題の傾向を学習した。5択の問題が、確か25問あったと思う。フィリピンの交通法規を勉強することなく、ぶっつけ本番で受験するので、自分の常識で考えるしかなかった。

「霧の出たときは、ヘッドライトを下げる」とか、「見通しのよくない交差点では、いったん停止をして左右の安全を確認する」といった、極々常識的なことを確認する問題ばかりで、合格する自信はあった。さて、20人も座れば満席になる部屋で、試験が始った。

順調に問題を消化していると、巡回していた試験官が私の机の横に立ち止まり、私の答案用紙をジロジロ見出した。その内またいなくなって、受験者の周りを巡回している。すると、私の横に来て立ち止まり、私の解答用紙の空欄を指差し、次に問題用紙の空欄と同じ番号の問題の選択肢の一つを、人指し指でトントントンとやってから、私を見て、「わかった?」といった表情をした。

最初、私は意味がよく理解できなかったが、どうもその試験官は私に答えを教えたがっているようだった。試験官が私のところで立ち止まるたびに、他の受験者たちが私たちの方をジロジロ見るので、私は迷惑千万だった。

試験時間はまだ半分ほど残っていたが、私はすべて終わってたので許可を得て退出しようとした。試験官は答案用紙を前に提出するように言って、その場で採点した。結果は2つ間違えただけで、合格だった。

視力検査を終えて実技試験を待つ間、同行した顧問弁護士に筆記試験はそれほど難しくはなかったと言うと、彼は、ニヤリとして500ペソは効果あったかい?と聞いてきた。どういうことだ、と聞くと、筆記試験の担当官と実技試験の担当官に500ペソずつ渡してある、との事。「税金みたいなものですよ。」と言って、弁護士の老人はゆっくりと首を左右に振った。

500ペソと言えば、マニラの労働者の一日の最低賃金の1.7倍ほどだった。英語がほとんどできない先輩の駐在員たちがみんなフィリピンの免許をもっている訳がようやく分かったのだった。

欧米礼賛はほどほどに・・・。

2015年03月22日 | 日記
22歳のとき、渡米する前は、アメリカという国に対する私の印象は、繁栄と自由の象徴、世界一の先進国、といった感じで非の打ち所がありませんでしたが、渡米前に読んだアメリカの歴史に関する数冊の本や、実際に渡米して見聞き体験したことで、徐々に印象が変化してきました。

中でもアメリカの黒人奴隷の実態を知った時は、それまで抱いていた正義の国というイメージが音を立てて瓦解し、当時でもKKKという人種差別結社が歴然と存在することは、俄かに信じられませんでした。

また、東海岸に入植してから、西へ西へと進出していく上で、先住民族の「インディアン」を次々と皆殺しにしていき、その数は1千万人から25万人程度まで激減したそうです。その殺し方も直接戦って虐殺していくというより、インディアンが衣食住の拠り所としていた、バイソンを殺すことで、彼らの糧道を断つという、極めて卑怯なやり方を採ったといいます。

バイソンを殺して殺して殺し続けた結果、6000万頭いたバイソンが何とわずか750頭までほぼ全滅したようで、殺したバイソンの頭蓋骨が山のように積まれた写真をウィキペディアで見る事ができます。(「アメリカバイソン」で検索すれば見られます)

このやり方は、大東亜戦争のときも採用されたやり方で、東京大空襲などで、銃後の民間人を一網打尽で虐殺したのと共通しています。いかに効率よく東京の民間人を虐殺するかを検討するために、ハワイにわざわざ日系人を本土から連れてきて、日本家屋を造らせ、その燃え方などを研究した結果をもとに作った焼夷弾をB29に積んだといいます。

帰国してからも、戦史に関する書籍を通して、実は当時のルーズベルト大統領は日本に最初の一撃を攻撃させることで、アメリカ国民を戦争に巻き込ませることができると考え、そのように計画を練って実行したことが明らかになってきています。

他にも様々な真実が暴かれていますが、それを知ってアメリカ人を憎もうとか、謝罪を要求しようということではなく、こういう歴史のあらましを知った上でアメリカ他の国々と関わっていくことは意義深いことだと思います。何でもかんでもアメリカや西洋礼賛ではなく、彼らの腹黒さを知っておいて、損はありません。

異文化は時には理解しがたい。

2015年03月22日 | 日記
フィリピンには、勤務で9年弱駐在したが、フィリピン料理はとうとう好きにはなれなかった。日本から来た方を民族料理を看板に掲げたレストランに何度かお連れしたことがあるが、そこは小さな舞台があって、民族舞踊などを楽しめる所として便利なところだったので行っただけであって、おいしい料理を堪能するためではなかった。

テーブルに着く前に店内にある手洗い場で手をよく洗うのは、出された料理を地元の人と同じように、手で食べるからであった。もちろん、希望すればフォークでも箸でも持って来て貰えるから、手で食べることは強制ではない。

私も初めてそのレストランに行ったときは、出された料理を手で食べたが、途中からはスプーンとフォークを頼んだ。特にパサパサのタイ米を右手の三本指でつまんで、口に入れるとき、指の間や口元からポロポロ落ちて、ほんの数粒しか口に残らないというのでは、とても食べた気になれなかったからだ。

勤め先で毎年あった従業員によるクリスマスパーティーでも、必ずフィリピン料理が並んでいたが、見ても食べたいと思わせるような料理はなく、食材が何かも分からなかったので、敬遠した方だった。ただパンシット・カントンとかいう焼きそばは食べた。しかしこれは名前で分かるように、支那料理だろう。

あるとき幹部の一人が「日本人は犬の肉を食べますか?」と聞いてきたことがあった。日本でもかつては赤犬を食べる習慣があった、と聞いたことがあったので、「私は食べないが・・・」と前置きした上で、そのように返事をすると、今度一度食べてみないかと誘われた。あまり、気乗りはしなかったが、社交辞令として、機会があれば誘ってくれ、と言った。

そんなことがあってからすぐだった。「次の週末にジャンの家でちょっとした飲み会があるから、来ませんか?ジャンが犬を料理するんです。」と誘われた。ジャンとは、機械の保全を担当している体幹部の一人で、John と書くのでジョンかと思いきや、彼らの発音はなぜかジャンだった。彼らの飲み会は食べて飲んで喋って、飲んで・・・酔いつぶれるまで続く。

犬の料理はどうでもよかったが、言われた時間にジャンの家に行ってみると、みんな集まっていたが肝心のジャンの姿がない。尋ねると、彼は奥の台所で料理を作っているという。「犬か?」と言うと、ニコニコして「もちろん!」との返事だった。

庭というか、テラスのような場所があったので、そこに出てタバコを一服吸っていたら、地面に点々とシミがあるのが気になった。これはもしかして・・・と思って聞いたら、思い通り血痕だった。料理する犬の血痕だった。急に食欲がなくなって、家に帰りたくなったが、もう後戻りはできないと腹をくくった。

暫く待つと、料理が出来上がり、粗末なテーブルに並べられたが、何種類もあって、一体どれが犬の肉料理なのかは判別できなかった。パーティーは始まり各自紙の皿を手に、料理とご飯を盛り始めた。彼らはいつも飲む前にしっかりと腹ごしらえすることは分かっていたので、私も続いた。

親切に、これが犬の料理ですよと教えてくれる者がいた。ミンチした肉を何かの野菜と煮込んだような黒っぽい料理で、言われなければおいしく食べられたかもしれなかった。

私は物心ついた頃から家にはいつも犬と猫がいて、犬の餌やりと散歩は子供の私が担当していた。大の犬好きだっった。その犬を食べることなど・・・。しかし、大柄のジャンがニコニコしながら私を見ていたので、勇気を出してスプーン一杯だけ皿の隅の方に載せた。立食形式で和気藹々というより、みんな黙々と腹ごしらえしている感じだった。

私は、犬の肉料理をスプーンの先端に少しだけ載せて食べてみた。ご飯と混ぜて食べたせいか、味など分からなかった。二度ほど噛んで飲み込んだので食べたとは言えないかもしれないが、それ以上は無理だった。日本の実家にいる愛犬シロの顔が脳裏に浮かんでくるのだった。

やはり、私にとっては犬は家族の一員であって、殺して食べる食材の対象ではなかった。

先日、韓国人によるテロの被害に遭った在韓アメリカ大使の入院先に犬の肉を持参してお見舞いに行った韓国人がいた、というニュース記事を読んで、忘れかけていた犬の肉料理にまつわる私の思い出が蘇ったのだった。

それにしても、愛犬家だという件のアメリカ大使は、犬の肉をもらって、どう感じたのだろう?異文化を理解するということはつらいものだ。

還暦祝いの焼肉100分食い放題ねぇ・・

2015年03月22日 | 日記
実は、私は焼肉自体は嫌いじゃないんですけど、道路沿いにニョキニョキできた焼肉店の焼肉は、どうも好きになれないんです。ああやって、肉を薄く、長方形に切るのは、早く焼けて一口でパクッと食べられるからなのでしょうが、あれが嫌なのです。

今日、家族が還暦のお祝いに焼肉を食べに行こう!と言い出したのでダシに使われたのは承知でお供してきました。予約してあったようで、着くとすぐに店員がテーブルにまで案内してくれて、100分の食べ放題コースで腹を満たしてきました。

次男夫婦一家も来てくれて、ひたすら肉や野菜を胃袋に詰め込んだのですが、小さな肉片をチマチマ焼くのは、面倒で仕方ありませんでした。うかうかしていると、初めに載せたピーマンやキャベツが、見るも無残な炭になってしまいます。

やはり、肉は厚めのステーキで食べるのが好きです。マニラにある「ゲルニカ」という小さなステーキハウスのペッパード・ステーキがおいしくて、よく通いました。豪州産の牛肉が柔らかくて、胡椒の風味が効いた一品は、値段も日本円に換算すると1000円くらいと実にリーズナブルでした。

今日連れて行かれた焼肉店は、週末ということもあってか、超満員の上に入り口には順番を待つ人が10人ほどいて、多分地元の人気店なのでしょうが、客層は20~30代がほとんどでした。中高年が落ち着いて食事する場所ではありません。

隣の人と世間話もできないほど、騒々しい上に、店内が薄暗くて、ひたすら口をパクパクさせただけの100分でした。そろそろお開きにしようかという時、次男の嫁が中座したと思ったら、花束を手に席に戻ってきて、私に手渡してくれました。還暦のお祝いだそうで、こじんまりとした花束と、孫が描いたという私の似顔絵がセロテープで留めてありました。

何とも照れくさかったのですが、大きな声でお礼を言いました。聞こえたかどうか、あの騒々しさでは分かりません。ただ、このサプライズの演出・・、実は私は知っていたのです。なぜなら、店に入るとき、孫が私の所に来て、「おじいちゃんはお花が好きだから今日買ってきたんだよ。」と小さな声で耳打ちしてくれたからです。