孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

信心深かった同級生

2015年02月01日 | 日記
学生のとき、1年間は賄い付きの下宿アパートに住んだ。2階建てのアパートで、上下に4部屋ずつ8人が住む木造アパートだった。朝と夕方は食事を大家さんの食堂で食べ、風呂も大家さんの風呂を順番に使わせてもらった。8人のうち、一人だけ大学院の先輩だったが、あとの7人は同級生だった。北は青森、それに群馬、名古屋、東京、京都、それに千葉の出身者だったと記憶する。

私の部屋は2階の東端っこの部屋で、その下が千葉から来ていた新入生だった。名前は忘れてしまったが、妙に気が合って、よく語り合ったものだ。彼は当時仏教に興味があった様で、部屋には禅の本などがたくさん積まれていた。

初めての夏休みはみんな故郷に戻り、自動車の運転免許を取ることに精を出すのが普通だった。私もたっぷり1ヶ月費やして無事免許を取得して、下宿に戻った。次々に故郷から戻ってくる同居人たちだったが、私の下の住人はなかなか帰ってこなかった。

そして、休み明けに私が彼を見たのは、授業が始まって1週間ほど経ったときだった。しかも、商店街の買い物客で込み合う通りで彼を見かけたのだった。彼は小さな黒板に何かを書きながら、片手に分厚い本を持ち、ボソボソと通行人たちに話しかけていた。

立ち止まって何を言っているのか耳を済ませると、「神が・・・」とか「お父様・・」とかいった言葉が聞こえた。予定があって長居できなかったので、その場は離れたが、何がどうなっているのかさっぱり理解できなかった。

その日の晩、下宿に戻る彼を待って、一体今日は商店街で何をしてたのか単刀直入に聞いてみた。すると、彼はとある宗教に入信したのだと言った。いきさつは、夏休みに商店街を歩いていたら、若い女性が小さな黒板を背に、熱心に何かを講義していて、それを聴いて関心を持ち、東京大学での集中講義の合宿に参加したのだそうだ。

1週間ほどの合宿で入信を決意し、もう少ししたら他の信者たちと共同生活をするので、下宿を出るのだと語った。表情が以前とは変わった感じで、私もその合宿に参加すれば目の前が明るくなると、熱心に勧誘された。

その彼とは、それっきり会うことがなかったが、卒業して3年ほど経って再開できた。彼はすでに結婚していて、その町にできた教会支部の支部長になって布教活動に精を出していた。すでに私とは別世界に住んでいる人間に変わっていた。

親日国・インドネシアへ

2015年02月01日 | 日記
次男がインドネシアの工場に赴任となりそうです。まだ決ったわけではないですが、最有力な候補者の一人だそうで、本人も断ったわけではないとの事。私は、特に相談を受けたわけではないので聞き流しているが、内心やっぱり自分の息子なんだなと思った。

会社の先輩たちや同僚たちは、みんな海外勤務をなんだかんだと理由を言って、拒んだのだそうだ。特に、温暖なこの辺は外に出たがらない傾向が強い若者が多いのが特徴だと前から耳にしていた。

只でさえ最近の若者は内向きになっているそうで、海外に留学する人も減っているようである。その点、次男は海外勤務にあまり抵抗はないようで、やはり私のDNAを引き継いでいる所為もあるのかもしれない。

インドネシアは、日本のおかげでオランダの300年以上という長い植民地から解放され、更に戦後すぐに攻めて来たオランダと戦って独立を勝ち取った国である。その時手を貸したのが旧日本軍の残党だった。日本精神を叩き込まれた青年兵たちが見事にオランダを打ちのめしたのだった。従って、インドネシアは親日国の一つである。

日本人が、感謝され敬意を抱かれる国で仕事ができるのは技術者として本望だろう。残された家族は少々寂しいかもしれないが、時が解決してくれる。時間があったら、ジャカルタを訪れることも今から考える私である。


いずれ訪れたい親日国・トルコ

2015年02月01日 | 日記
以前、熊野古道や熊野三山を巡るバスツアーに参加したとき、和歌山県の串本町近辺をバスが通過しました。その時、バスガイドさんが話してくれたエピソードが、いまだに心に残っています。

その話し振りも上手だったのでしょうが、ストーリーも感動的で当時そんなことがあったとは知らなかった私は、帰宅してすぐにインターネットで詳細を確認し、あらためて感動を味わいました。

明治23年のことでした。オスマントルコの軍艦エルトゥールル号が明治天皇に親書を渡したあと、帰国する際に紀伊半島南端の串本町沖で台風に遭い座礁してしまった。乗組員600名は嵐の中に放り出され、かろうじて何名かが灯台をめざして岸に泳ぎ着き、燈台守に助けを求めたのです。当時の燈台守は血だらけの船員を見て、どこの国の船か確認するため話しかけたが、言葉が通じない。

各国の国旗が載っている本を見せると、指差した国旗はトルコの旗でした。オスマン帝国海軍の軍艦が遭難したと分かった灯台守は、当時の大島村村長に通報し、他に救助できる遭難者はいないか暗闇の中捜索に向った。村民たちは自分たちの食べ物を与え、献身的に介護した結果、69名が助かりました。

怪我をした乗組員たちは、その後病院に搬送され、事の顛末が当時の日本政府にも知らされ、国を挙げて可能な限りの援助をするよう指示を受けたそうです。翌年、回復した船員たちを日本の軍艦2隻に分譲させ、イスタンブールまで無事に送り届けたのでした。

話はこれで終わりません。遭難事故から約100年後の昭和60年。イランとイラクは戦争中です。イラクのサダム・フセインは、イラン上空を飛ぶ飛行機は無差別に攻撃すると宣言しました。当時イランには在留邦人が215名いました。日本は自衛隊機を出すことはできない。日本航空は、安全の保証がないので飛行機は出せないという。イラクの設定した時間は刻々と迫っている。

日本の在イラン大使は、トルコの大使に窮状を訴えた。期限が迫り空襲警報が響く中、2機のトルコ航空機が飛行場に着陸しました。JALは飛行機を飛ばさないと聞き、絶望感に包まれていた邦人たちはこれに分乗し全員が無事に脱出できました。イラン国内にはトルコ人たちも500人いたが、何と飛行機に乗れなかったトルコ人たちは陸路自動車で脱出したのだそうです。


日本人たちを乗せたトルコ航空機がイラン・トルコ国境を無事に越えたとき、機内では機長による「ようこそトルコへ」というアナウンスがあったそうです。トルコ国内ではこの政府の対応に非難はまったくなかったといいます。なぜでしょうか。

在日トルコ大使がその質問に応えました。「100年前のエルトゥールル号の借りを返しただけです。」

蛇足ですが、このトルコ大使のコメントに対して、「日本からの援助を期待しての行為だったに過ぎないのでは。」といった、何ともひねくれた味の悪い、コラムを載せた新聞がありました。朝日新聞です。

恐らく今はいい時期ではないだろうが、トルコは一度訪れてみたい親日国です。

海外で身を守る極意

2015年02月01日 | 日記
もう20年以上前になるが、私が初めて海外赴任したのは、フィリピンの首都、マニラから車で4時間ほど走ったバターン半島の先端にある工業団地で、病院もスーパーもないど田舎だった。近くの山には共産ゲリラが潜んでいるという話もあり、実際町中では銃弾の跡を見ることができた。

マニラとて大きな町だが、決して安全な町とは呼べなかった。歩道にはボコボコ穴が開いているので、うっかりすると落とし穴にはまるようなことになるし、街灯もまともな明るさを保っていない通りが多かった。ちょっとした買い物をして店を出ると、出口には幼い子供達が小銭を求めてワッと群がってくる。最初はそれとて恐怖を感じたものだった。

哀れに思って小銭を与える日本人は多いが、私はいつも無視した。子供達は私の後ろをゾロゾロついて来るが、振り返らずひたすら早足で歩いた。一度、日本人らしき中年男性が、そういう子供達に囲まれ小銭を与えたところ、後から後から子供が集まってきて、その中年男性はとうとう小銭が底をつき、再度店に入って小銭を作ってきたようだった。

日中ならば安全かというと、とんでもなかった。高級時計を売りつけようとうろつく男や、相場よりかなり良い交換レートで両替すると近づいてくる男など、目つきの悪い男たちが獲物を物色しているようだった。

われわれは、前から近づいてくる人が何か話しかけようとしてくると、何だろうと、その人の目を見るものだ。まずは、その癖をなくすことが、身を守る第一歩である。目線を合わせようとしないで、スッとずらすことだ。話しかけられても聞こえないフリをして、相手をしてはいけない。

相手は何とか話のきっかけを作ろうと、片言の日本語で話しかけてきたりするが、そのワナにはまってはいけない。徹底的に無視することだ。それでも付きまとってきたら、人がたくさんいるところに向かって歩くのがよい。問題が解決しないようなら、(いざとなったらHELPとか大声で叫ぶ覚悟)を心に決めることだ。

面白そうなところに行きたい心境は理解できるが、被害にあった人を見ると、いかにも金払いのよさそうなお人よしに見える能天気なタイプだった。危険を察知して、近づかない。これが海外で他人に迷惑をかけない極意である。