孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

何度でも言う。幼児に英語教育は、反対。

2015年02月21日 | 日記
次男が、家が完成したから見に来てくれというので、新築祝いの花と孫娘へ絵本のお土産を持って、行ってきました。30歳前で家を建てるんだから、親ばかといわれるかもしれないですが、たいしたもんだと思います。これからが大変だと思います。

食事をしながら4歳の孫娘の話題になり、そろそろ何か習い事をと考えている、ということを知りました。孫の教育に口を出すつもりは毛頭ないが、と十分前置きをしてから、私は自論の「英語の幼児教育」ブームについて、絶対に賛成はできないと言ったら、お嫁さんが驚いたように、「どうしてですか?」と聞いてきました。

どうも、幼児向け英会話教室に出そうかと考えている様子でした。口論はするつもりはないので、さらりと子供のうちは母国語をしっかりと覚えさせる方が、後々外国語を学習するにしても役に立つものだ。英語が外国人並みに話せるようになったとしても、英語で何をどう言うかが大切であって、母国の文化も歴史も何にも知らない、どこの国の人間なのか分からないような大人にすることになりかねない。今はそんなのが世の中に溢れている。それよりも漢字を覚えて、自分の興味のある本を自分で読めるようにした方が良いと思う・・・という内容のことを言いましたが、果たして真意は通じたかどうか。

ママ友といって、幼稚園の同級生の母たちと話をしては、同じような行動をするのが普通の母親みたいですから、これ以上とやかく言わないつもりです。

植民地根性を見たようで

2015年02月21日 | 日記
最近はテレビを見なくなって、その分 youtube やBSなどを観るようになってきました。多分、どれも似たような民放のバレエティー番組に飽きたからでしょう。

そんなとき、BSで以前訪れたインドネシアの仏教遺跡、ボロブドゥールの放送をやっていたので、懐かしさで見入ってしまいました。ジョグジャカルタという街にある石でできた巨大な仏教遺跡です。この街にはもう一つ、プランバナンというこちらも仏教遺跡に負けないくらい巨大なヒンドゥー教の遺跡群があり、どちらもユネスコの世界遺産に登録されています。

こぎれいな箱庭に監禁されたような、シンガポールの生活に飽きた頃、インターネットで偶然見つけたので、すぐにLCCを予約し、格安ホテルを探して週末を利用して行って来ました。即断即決でした。

インドネシアに着くと、街の雰囲気がシンガポールとは打って変わって、いかにも東南アジアだなあと思わせてくれ、そのシンガポールとは違う、少し小汚い感じが私の性格に合っているのか、なんとも心地いい気分にさせてくれました。

ボロブドゥールは、長いこと森に眠っていた遺跡だったそうですが、見事に復元されていて、そのデカさは想像をはるかに凌いで、思わず息を飲み込みました。曼荼羅を立体的に表現したそうですが、その容姿を写真に撮ろうとすると、かなり離れないと無理なくらいでした。

石段を上って石の回廊を歩いて歩いて、汗だくになってしまいましたが、一番上まで行くとストゥーパという籠のような中に大きな石の仏像が鎮座していて、意味はよくわかりませんでしたが、何となく心を和ませてくれる気がしました。

現地のガイドがあちこちで立ち止まっては、小グループの外国人観光客を伴って遺跡の説明をしていました。日差しは強かったですが、高台にあったせいか、少し風が吹いていて耐えられないほどではありません。それでも、現地の人は日傘をかざすというサービスで、チップを稼ぐ仕事をしています。ゴルフをするときに使うような、でかい傘を横から観光客にかざし、小銭をせびるのでしょう。

かつての宗主国・オランダはこの国をどうやって350年もの間植民地支配したのか、よもや忘れたわけではないでしょう。農民は、ほとんど奴隷扱いで、言われた商品作物をオランダのために作らされ、食料が不足して餓死者が続出し、人口が激減しました。

愚民政策で、教育を受けることは許されず、いくつもある言語は故意に統一されませんでした。民族や宗教や言語が違う部族を争わせることで、団結をさせないという、「分割統治」を徹底し搾取を続けたのです。しかも、ごく少数のオランダ人たちはそれをインド人や華僑を使ってやってきたのです。

そして、ちょっとしたきっかけが、積年の恨みを一気に集結させ、民族を団結させ戦いの末、見事に独立を勝ち取ったのではなかったか?

私はそういう背景のある国の人が、外国人観光客に媚びへつらうように、後ろから中腰になって日傘をかざす姿を目の当たりにして、ああ情けないとちょっと失望し、いや彼らも生活のためなのだろうと同情し、同時に何百年も酷い植民地支配を続けてきた当時の外国勢力に強い憤りを改めて感じたのでした。