孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

名は体を表さない。

2017年09月30日 | 政治ネタ
上野動物園のパンダの名前は、何と決ったのか知らない。パンダに関する関心がなくなったのは、ある事実を知ってからのことだった。

それは、つまり「ジャイアントパンダは、そもそもチベットで生息していた動物」という事実であった。

  支那人?何それ?

何年前であっただろうか、上野動物園にパンダが贈られたことで、日本中大変な騒ぎになり、長い行列を我慢してパンダ見たさに動物園にいったところが、いるはずのパンダが姿を現さず、一目すら見る事が出来ないなどという可哀想な観客もいたようだ。

パンダは集客力が抜群だ、ということで、客を大勢呼ぶ事が出来るゲー人などを、「人寄せパンダ」などと揶揄するようになった。そこには、何にも無いけど人は集まる、という皮肉も込められていたと思う。

  アトラクティブなのよ。

東京都知事として、パンダの名前を発表したのだが、表情こそいつもの作り笑いをして見せたが、どうもその発表には、どこか喜び、楽しさ、ワクワク感を押し殺しているようにも見えた。そして、その理由はすぐに分ったのだった。

国政は家来の若狭議員に任せるようなことを言ってたのに、突然すべてをチャラ、『リセット』して、ご自分の「小池演芸場」の舞台に、主役として踊り出たのだった。

その瞬間、東西の横綱のつもりだった若狭・モナ男の両人は、横綱・ユリコ山の太刀持ち・露払いに格下げとなったのだった。

  チャンスをゲットするのよ!


日本新党をスタートに、新進党、自由党、自民党、都知事、と政界渡り鳥と呼ばれるだけあって、時の権力者を選びながら、機を逸せずに今日まで政界に存在してきたのは、自らの『希望』である、総理大臣になる目標を実現するためであったのだろう。

 失望の徒党決起!

しかし、以前世話になったからと言って、小沢一郎を仲間に入れたり、旧民進党の反日議員を一人でも抱き込んだりすれば、もうすぐにも化けの皮ははがれたようなもの。

政治資金にしても、どう工面するのか不明。

何より、私はあの厚化粧のパンダ顔で、やたらとカタカナ言葉を多用する姿勢に、彼女の国家感がまったく感じられないのだ。日本という国柄をどちらかというと破壊する側に立つ人ではないかと感じるのだ。

名は体を表す、と言うが、名を見た瞬間ドン引きすることも結構あるものだ。

道を訊くにもコツがある

2017年09月29日 | 社会観察
一昨日、横須賀に日帰り旅行をしたときも、私は4~5回道順が不安になって、通行人などに道順を尋ねた。

実は、私は自分でも怖いくらいの方向音痴である。中高生の頃など、私は映画鑑賞が好きだったので、よく大きな街の映画館まで出向いてロードショーなどを観に行っていた。

映画を観終えて、駅に向かって歩いていると、次第に町外れに景色が変わってきて、不安になって通行人に「駅はこの方向でいいんですよね。」と尋ねると、「ええ!駅はあっちですよ!」と真逆の方向を指差すのだった。

 こっち? あっちよ!

社会人になって海外に出かける際も、事前に出来るだけ詳細な地図を持参することは必須で、迷ったなと思ったときは、よくタクシーを拾って急場をしのいだものだった。

横須賀の旅でも、JR横須賀駅を降りて、海沿いの公園をただただ海に沿って歩いていけば、海軍基地に着くものだと考えていたのだが、歩いているうちに次第に不安になってきて、そんな時三叉路などに出くわすと、もうほとんど頭がパニックになりそうになった。

そんな時、向こうから運送屋さんの制服をきた男性が歩いてきたので、「すみません、海軍基地はこっちの道を行けばいいんですよね?」と訊くと、彼は困ったような顔をして、「すみません、僕この街に住んでいないので・・・」ときた。

何だかんだ言っても「海軍基地」だから、海沿いだよな、と考えて、一番海沿いの道を選んで歩き続けると、「横須賀基地こっち」の標識があったので、私の予想は的中したのだった。

  米軍基地はこっち

三笠公園も記念艦三笠も海沿いなので、問題なく着いてたっぷり時間を費やしてから、どぶ板通りに向かった。

頭に入れた地図では三笠公園から、右手40度方向に山の手に向かって歩いていけば、横須賀の繁華街があるはずだった。しかし少し歩くと、繁華街らしい街並みはまったく見られず、私は急に不安になってきたのだ。

丁度そのとき、歩道の向こうから、中年のご婦人が二人でおしゃべりしながら歩いてきた。一人は自転車を押しながらだったので、地元の人に間違いないと思った。「すみません、道を教えて欲しいんですが。どぶ板通りはどう行けばいいのでしょうか」

自転車を押していたご婦人が、「ああ、ここを真っ直ぐ行って、ほら信号があるでしょ?そこを渡って右に行くのよ。」「タバコ屋があるわよね。」と連れの女性。

「そう、そう、そこをちょっと行って右に曲がるのよね。」と自転車のご婦人。「国道から中に入るのよね。」と連れの女性。「そう、この通りが国道16号なのよ・・」と自転車のご婦人。「16号線と平行の通りかな・・」

「果物屋のご主人に聞けば教えてくれるわよ。」と連れの女性。「ああ、そうよねえ。」と自転車のご婦人。

  道順を訊くにもコツが

二人のご婦人の掛け合い漫才のような道案内は、私にはほとんど理解できなかった。「じゃあ、あの信号を渡って左に入っていけばいいんですね。どうもありがとうございました。」とお礼を言って会釈してそっちの方向へ歩き始めた。

これは、今後の教訓として、記憶に留めておこう。

『二人連れの女性に道を尋ねてはいけない』


途中、店の前を掃き掃除していた老人に道を尋ねると、丁寧に分りやすく教えてくれたので、もう迷うことなく目的地に着く事が出来たのだった。

正しい敬語、使ってますか?

2017年09月29日 | 社会観察
もう、10年近く前のことだと思うが、夜遅く小腹がすいたので、国道沿いの牛丼屋に入ったことがあった。

見たところ20歳くらいのアルバイト店員が、注文を取りにカウンターの私の席にやってきた。「ご注文、お決まりですか?」と聞かれたので、「牛丼並盛りと、サラダ、味噌汁。」
と注文した。

すると、その若者は私の注文を繰り返しながら、注文入力端末をパパッと押して、「ご注文は以上でよろしいですか?」と聞いてきた。

私は彼の言った言葉に軽い衝撃を受けて、「珍しいねえ、若いのに・・」と呟くと、彼はキョトンとして、「はあ?どういうことですか?」と不思議そうな顔をして私の顔を見つめたのだった。

「いや、最近のファミレスなんかじゃ、『ご注文は、以上でよろしかったですか?』ってきくじゃない。どこでも・・・。」

  指摘されないと直らない

私の説明に、彼は安心したように、「あぁ・・」と呟き、「だって、変じゃないですか、『よろしかった』って過去形にするのは・・・」と、当然だろうと言いたげな表情をして、
注文端末機をポケットに入れ、メニューを回収したのだった。

「君のようなまともな若者もいるんだねぇ。」と言うと、彼は一瞬、首をかしげてから厨房の方へ去った。

よく行くスーパーマーケットのレジ担当のご婦人は、レシートを渡す際に、必ず「こちら、レシートになります。」と言う。

「~になります」というのは、「~に変化します」という意味なので、真っ白な紙切れを手渡しながら、「(私が、フッと息を吹きかけると、数字が現れて、)こちらレシートになります。」こういう場面なら、問題ない。

また、「とんでもございません」も、しょっちゅう耳にする間違った敬語である。
つまり、「トンデモ」+「ナイ」の「ナイ」を丁寧に「ございません」にしたつもりだろうが、これが誤りである。

正しくは、「トンデモナク + ナイ」なので、ただ「とんでもないことです」と言えばいいのである。

  謙譲語は要注意


先日、あることで取引のある会社の若者から、メールが届いた。

立場上は、私が彼の客に当たるので、メールの文面は丁寧語や尊敬語が目立っていた。これまでと手続きが少し変更になるという情報に関する内容で、「お間違いなきよう、ご承知置きください。」と締めくくっていたが、私は「うん?」と気になった。

何だか「間違えないよう、しっかり覚えて置けよ。」と言われたような気がしたのだ。

気になって、ネットで調べてみたら、「承知する」とは「理解する」の謙譲語で、承知する方がへりくだって使う言葉であることが分かった。

「承知してくださいね」という言い方を、上の立場の「客」に向かって言うべきではないのである。言うなら「お含みおき下さい」と言うべきだそうだ。

確かに、そう言われればすんなり理解できただろう。

さらに彼のメールの中には、「弊社の○○より承った情報ですが、・・・」という部分があった。○○さんは私も知っている方で、その若者の後輩であったはずだ。

つまり、自分より目下の後輩から「承った(うけたまわった)」と言うのは誤った使い方である。そもそも、「承」という漢字がへりくだった意味を持つことからきているわけだ。

若い事務員が電話を受けて、「部長さんは、本日お休みを戴いております。」なんて応えているのを耳にすると、「誰か注意してやれよ。」と思うのだが、多分みんな自信がないんだろうなあ・・・。

若者に伝えたい、日露戦争

2017年09月28日 | 旅行
以前何かの番組で、竹田恒泰(タケダツネヤス)さんが地下鉄車内で体験した話を面白おかしく語っていた。

それは、竹田さんが座っていた近くに立っていた茶髪の大学生風の二人連れの会話についてだった。

一人が、「この前の戦争で、日本がアメリカと戦ったときさぁ・・」と言いかけると、もう一人が、「えぇっ!日本がアメリカと戦ったぁ?!ウソォ! マジでぇ?」と驚いた。

「日本、アメリカと戦争したじゃんかよ!」「ウソだろ?マジかよ。・・・で、どっちが勝ったん??」竹田さんの方が、「マジかよ?!」と叫びたかったそうだ。

これと似たようなことを、以前近所の中学生たちに英語と数学を教えていた時、私も体験した事がある。

何かで話が脱線した時、「日本が日露戦争でロシアをコテンパンにやっつけた時ね・・。」と言いかけたら、一人の少年の目がパッと大きく開いて、「えぇ?日本がロシアと戦争やったんすか?」と驚いた様子で呟いた。

私は、「あれっ?学校で習わなかった?」と言って、簡単に当時の近代史を説明した。

日本が当時、日清戦争や日露戦争で連勝して、世界中がそれに驚いたこと。さらに、その後列強諸国の白人たちとも戦争して、その結果しばらく日本はアメリカ軍に占領されたことを話すと、「アメリカとも戦争したんすかぁ?」とびっくりしていた。

学校の授業がまだ近代史まで進んでいなかったのか、あるいは教師があえて丁寧に教えなかったのか、理由はよく分らなかったが、私も竹田氏に負けないくらい驚いたものだ。

日露戦争での日本の勝利は、世界中で大騒ぎとなったそうだ。当時ロシアに悩まされていた小国は特に、弱小国と思われていた日本が、世界最強のバルチック艦隊に完勝したことを知り、溜飲を下げるだけでなく、自分たちだってやれば出来るんじゃないかという勇気を感じたのだった。

今回の横須賀日帰り旅行は、死んだ親父の替わりに企画実行したものだったが、私としても、興味津々でワクワクする小旅行であった。

親父は戦死ではなく、老衰で死んだのだが、あえて「英霊」と呼ぶとすると、それは親父の英霊を慰めるものであった。総意識すると、なんだか昨日は一日中、私の右斜め40度くらいの離れた空間に、親父の英霊がフワフワ浮かんでいるようだった。

午前10時ころJR横須賀駅に降り立ち、そこから海沿いに出来た公園を散歩しながら、昔、横須賀海軍工廠(こうしょう)のあった場所に向かった。

     

フランス人技師のヴェニールに因んで、ヴェニール公園と名付けられた公園には、途中当時の幕臣、小栗上野介の胸像が立っていて、ここは以前から私が一度訪れたかったところだった。なぜ小栗上野介かを説明すると長くなるので、別の機会にしよう。

     

途中、ベンチがあったので、休み休みゆっくり歩いていくと、「横須賀基地はこちら」の交通標識が見えた。今はアメリカ海軍基地となったが、その前は横須賀海軍工廠のあったところで、親父たちが養成所で、軍艦の造り方の講義を受けていた場所だった。

     

基地が近づくにつれて、歩道を歩く米軍将校らの姿が多くなってくる。みんな背が高く足が長く、体格は筋骨隆々としていて、よくまあ当時の日本兵たちは、こんな奴らを相手に苦しめ、戦ったものだと改めて感心する。

基地正門からさらに道沿いに10分ほど歩くと三笠公園にたどり着く。ロシアのバルチック艦隊を見事に全滅させた、日本海海戦の連合艦隊司令長官、東郷平八郎の載った旗艦「三笠」が記念艦三笠として、現存する公園である。

     

     

日本海海戦の当時の名セリフは、今でもよく耳にするものだ。例えば・・・

「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。

さらに、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した。

私は、昭和30年生まれだが、この私でも当時のこういうエピソードの数々を聞くたびに、胸がジーンとなり、ワクワクさせられてしまう。

艦内では、こういうエピソードが色々なVTRや写真、展示物で紹介されていて、年配者だけではなく、結構若い方も真剣に観ていた。

     

親父がよく口にしていた「どぶ板通り」にも行ってみた。ネットで調べたところ、今では米軍グッズの店や、飲食店が多く、どちらかというと夜になって人が集まる通りのようだ。

     


やはり、どぶ板通りは、昼間来るところではないようだった。右斜め上からフワフワ付いて来ていた親父はどんな感想だっただろうか。懐かしさを感じただろうか。

最後に、小腹が空いてきたので、海軍カレーの看板がかかった店に入って、その名物「横須賀、海軍カレー」を注文した。

  サラダと牛乳がセットになったカレー。艦内で食べたら最高だったろう。

発狂!泥船船長

2017年09月28日 | 政治ネタ
政権交代選挙は、わずか8年前の夏行われた。

あの時は、麻生内閣に対する国民の失望が、朝日・毎日をはじめとする反日偏向マスコミ各社の、執拗な反政権プロパガンダで増幅され、反対にそれが鳩山由紀夫などのまったく未知な野党に対する勝手な期待を倍増させることとなった。

その結果、予想を大きく上回る308議席を獲得、中でも比例区の得票数は3000万票近くを獲得するという、選挙史上過去最高を記録したのだった。

この選挙結果を見れば、いかに当時の有権者がテレビ・新聞の煽りに載せられたかが理解できよう。実際、「街の声」も『自民党にお灸をすえる』とか、『今回は民主党にやらせてみる』などといったものをよく耳にした。

これまでは自民党や公明党に投票してきた層が、大きく反動した結果によるものだったことが良く理解できたものだ。


前回の東京都知事選挙のときも、これと同じ背景の下で、同じ結果を生み出した。

つまり、来る日も来る日も、テレビのワイドショーではマスゾエ都知事の悪事を話題に取り上げ、いわゆるネガティブキャンペーンを繰り返し、都民の失望感を煽りにあおった。

そこに登場した未知の候補者に対する期待度は、当然のように膨らみ、同時に野党候補者の顔をしかめたくなるような、えげつない女性スキャンダルも相まって、結果は小池都知事の誕生となったわけだ。

「敵を造って攻撃する選挙運動は巧みだ・・」などと、揶揄する評論家もいるが、あれからすでに1年経過した現在、果たして彼女の実績はどうだろうか?

彼女に期待して一票を投じた都民は、今の状況に満足しているのであろうか?? リセットなのよ。何か悪い?


現状に失望して、未知の者に期待をかける・・というのは、自然な情感なのだろうが、先に挙げた二つの例では、その結果がほぼ出ていると言えよう。

当時の民主党政権は、彼らには政権を担う能力などほとんど皆無であったし、日本を内部から崩壊させようとする、極めて明快な彼らの意図が存在していたことが分った。

民主党では選挙が戦えないということで、党名を変えてみたり代表を変えてみたりしたところで、中身が変容するものではない。

期待など出来ないが、「消去法」で代表になった、通称「立ちバック・前原」代表は、今度の総選挙には無所属で立候補するのだそうだ、

   男女関係ないです!

最大野党の代表が、総選挙で「無所属」での立候補・・・とは、寝起きの頭では到底理解できない。今の状況が読めなくて代表自らが自暴自棄になってしまったのだろうか。

 暴走機関車運転士です!


今や、「政界駆け込み寺」の様相を呈している「希望の党」こと、「失望の徒党」の党首は、いわば『駆け込み寺 管長、小池ゆり子』ということになるのか。

都政などはつまらないから、「リセットして、国政進出よ。アウフヘーベンよ。お分かり?」とでも言いたげに、毎日自分が話題の中心になって、ご満悦で夢想に耽っていることだろうが、都民のみなさん、選択は正しかったですか?

全国の有権者のみなさん、国家感が皆無だった野党に政権を取らせた結果、この国は崩壊まで後一歩ということになったのです。国家感のあるように演出する、「駆け込み寺・管長」に、この国を託す勇気がおありですか?

親父の替わりに横須賀へ

2017年09月26日 | 旅行
生きていれば、親父は来月3日で93歳になることになる。

晩年は、入退院の繰り返しで、ほとんどやりたいことはできず、テレビと新聞だけが楽しみであったようだ。

私が中学生のころであったと思うが、親父の学生時代のことを聞いた事があった。「どこの学校に進んで、何の勉強をしたのか?」と聞いただけだった。

親父は、「お父さんは、横須賀海軍工廠の養成所で、軍艦を造る勉強をしたんだ。今の工業高校みたいなもんだな。」そう言ってから、当時の同級生たちとの壮絶な勉強の競争について、長々と聴かされた。

消灯になってからも、みんなロウソクをもってトイレに入り、こっそり自習したり、英語を覚えるために、辞書を破ってムシャムシャ食べてしまう奴もいた、、などなど。

カッターボートの訓練の辛さなどは、何度も何度も聞いて、耳にタコが出来るほどだった。

卒業する頃は、大東亜戦争も末期で、すぐに親父は海軍に入ったようだが、入って間もなく戦争は終わりとなったそうだ。

親父にとっては、青春は横須賀にあった。テレビのニュースやドラマで「横須賀」と聞こえると、何をしていても手を止めて、テレビもボリュームをグッと回して音をでかくして、テレビの真ん前にドカッと座り、ブラウン管を食い入るように見つめていた。

見たことのある映像が映ると、ニコニコしてここは何だ、あっちは何だと勝手に解説するのだが、聞いている者は誰一人いなかったと思う。

他界して四年になるが、今週は時間が出来たので、明日日帰りの旅をしてこようと思い立った。行先はもちろん横須賀。

やることリスト。

1.どぶ板通りを散策する。(親父がよく口にしていた)



2.海軍カレーを食べる。(親父もきっと食べただろう)



3.三笠記念艦をじっくり見学する。(これは私の念願だった)



4.小栗上野介の胸像を見る。 (これも私の念願)



5.横須賀海軍工廠跡地に最接近する。 (今は米海軍基地)



デジカメの電池を確認して、i-pod に Youtube からたっぷり録音して寝るることにする。明日は5時起きだ。

親父の供養なんてろくな事が出来ないので、せめてもの供養のつもり。

それに、あそこまで親父が夢中になっていた横須賀を一度この眼で見たかったから。

「希望の党」ならぬ、「失望の徒党」

2017年09月26日 | 政治ネタ
路チュー議員で名を馳せた、静岡の恥さらし「モナ男」こと細野モナ男議員や、貧乏神のような影が薄く「若さ」など微塵も感じさせない若狭議員がチョコマカ動いていた、例の若狭新党の様子が一転して、まるで安物のコントを見せられたようにオチを迎えた。

映画「赤ひげ」に出ていた女郎屋のやり手婆あのような、小池都知事が登場して、これまでチョコマカやってたようだが、「リセットして、私が代表になって新党を立上げる」と仰られたそうだ。

若狭もモナ男も、『ハァ??』といった感じで、腰が抜けたようにあっ気にとられてしまったのではないか。「てめえらのやってることなんか、見てられネーよ。」と言いつつ、老い先短い小泉の処にご機嫌伺いに行ったりして、どうせ無責任な励ましをされたのだろう。

船が沈みそうになると、船内にいるネズミたちは我先にと船から離れていくそうである。党名が変って新代表になったと思ったら、それがどこの馬の骨だか訳の分らぬ女で、人気は失墜。

それでは代表を変えましょうとなった途端に、新代表は実は北朝鮮の工作員みたいな経歴を持つ、火と呼んで「立ちバックの前原』。

こんな時に総選挙などまともに戦えるわけがない、と逃げるわ逃げるわ、ネズミが逃げる。

小が大に事(つか)えること、強い勢力に付き従うという考えを、事大主義といって、好意的な意味では使われない言葉だ。朝鮮半島のことを、昔からロシアに付いたり支那に付いたりするするので、蔑んだ意味で、朝鮮人の専売特許のように言うようになった。

『寄らば大樹の陰』とか、『長いものには巻かれろ』など、処世術としてよく言われるフレーズがあるが、どれもあまり褒められた姿勢ではない気がする。

 やり手婆ア?

  


新党側は。これからオーディションをやって、候補者を選別するようだが、この機会にチャッカリ合流を企んでいるお調子者・職業政治家たちもいるようだ。


  

寄せ集めの、政権交代だけがお目当ての集団が政権を担うとどうなるか。

我々は、その結論を苦い体験と共にまだ記憶しているはずだ。違うか??

違うか?

『希望の党』??   いや、こう呼んだ方がピッタリする。


『失望の徒党』

文化侵略の季節到来

2017年09月24日 | 社会観察
日本人社員同士が、「Hi, Takada-san, Sorry for late reply.」「Oh, it's OK」なんてメールでやり取りする勤め先とようやく縁が切れて、こんなにいい気分になるとは思わなかった。それに、人生最悪の職場環境ともおさらばできて、これも拷問から解放された気分だ。

もちろん、となりのネパール人の酷い体臭のことだ。少し離れたところにいる先輩社員は、私の抱えていた問題を察知していたようで、「今日は彼が休みでよかったですね。」などと
こっそりメールを送ってきたりして、面白がっていたようだが、私には深刻な悩みだった。

特に酷暑の夏に、マスク無しではいられない環境は、まさに地獄だった。

苦情を言ったりすれば、すぐ人種差別だ、文化差別だ、レイシストだ、というレッテルを貼られそうなムードの職場だったので、私はひたすら耐えたのだった。

多文化共生などという言葉が一時期流行って、耳当たりのいい感じで、人類皆兄弟・地球市民などという概念を伴ってよく口にされたものだが、私はこの言葉は胡散臭いと思う。


日本の伝統文化に興味を示す外国人を扱ったテレビ番組が、最近はどの局でもお盛んだ。その一方、軽薄な政治家たちが、やたらとカタカナ言葉を乱用して、最近では真の意味など気にせず、中学生や小学生までカタカナ言葉を使いたがるようだ。

これまでの勤め先のITエンジニアたちの日本語など、もはや幼稚園児レベルでひどいものだった。やたらと耳にするIT関連のカタカナ言葉の意味を尋ねても、まともに解説できる者がいなかったのには、腰が抜けるほど驚かされたものだった。

今日いった100円ショップの入口はこんなだった・・・。私の大嫌いな季節がやってきた。

 いったいなぜ、カボチャなんです?

経済効果が滑った転んだ言っても、所詮「銭になるなら何でもええんや!!」に聞こえる。

子供たちも喜ぶしぃ・・

みんなでワイワイ楽しいよネ ・・・


こういう親たちは、我が子をせっせと子供英会話教室に通わせ、母国語の勉強時間を英語の勉強に廻しているのであろう。

子供たちは学校でも塾でも、英語学習に精を出した結果、しだいに母国の文化よりは外国の文化のほうが優越なのではという心理が植え込まれていくものだ。

それは、ますます母国語の習得にブレーキをかけることになり、漢字を知らない、敬語の使い方を知らない、本に手を伸ばさない少年少女を量産することになる。

何も儲かるからといって、今から2500年前の北欧ケルト人の信仰とお祭りの猿マネを子供にさせなくてもいいだろう。他にやるべき事があるじゃないか。

毎年、私はこの社会現象は、日本文化に対する文化侵略だという眼で観察するのである。

ゲスW不倫、ドイツ前首相(73)

2017年09月23日 | 政治ネタ
73歳の前首相、ゲルハルト・シュレーダーが、南朝鮮人の既婚女性とゲス不倫中だという記事が一昨日の朝刊に出ていた。

お相手の女は、48歳の既婚者で、2年前の国際会議で通訳者として接近して、うまい事ゲットしてお付き合いが始ったようだ。

 独人ゲット!

不倫相手が南朝鮮人なので、シュレーダー前首相は日本批判をするようになったのか、元から彼は反日であったのか、記事からははっきり分らないが、巨乳女郎雲のハニートラップに、やすやすと引っ掛かったに違いない。

彼女の御国にデレデレしながら付いて来て、ありもしない慰安婦の嘘八百話を聞かされ、南朝鮮の大統領・ブン・ザイトラと会談した際にも、愛人にそその増されたのか、日本の批判をして見せたそうだ。会談の通訳はその愛人だったという。

愛人は現在夫と別居中だというが、いずれシュレーダ―氏の住む町に引っ越す予定だそうだ。

記事ではこのお二人は「交際中」となっているが、どちらにも伴侶がいるわけだから、立派な『ゲスW不倫』ではないか。

 いずれ離婚。

民進党の幹事長になり損ねた山尾は、若いツバメと週4回だと、世間を驚かせたが、ドイツのゲス不倫カップルは、男73歳、女48歳だという。

何事も上には上がいるものだ。

同じ43歳、東大卒だが・・

2017年09月21日 | 政治ネタ
6歳の幼子がありながら、それを放って置いて、週4回も若いツバメとせっせと逢瀬を楽しんでいた色魔・山尾議員。

ツバメの女房が実家に帰っていた留守にツバメの自宅に、泥棒猫みたいに入り込んでズッコンバッコン楽しむなんて、まともな神経ではできない芸当ではないか。

 盛のついた婆ぁ

ホテルにしけこむところを週刊誌の記者にバッチリ見られているにも拘らず、ほとんどダブルベッドだけの部屋で、若いツバメと何してたっちゅうねん?あや取りでもしてたんか?

てっきり、議員辞職するものと思っていたら、他人に厳しく自分に甘い女郎みたいなおばさんであることをさらけ出し、また立候補するんだと?

愛知県7区の有権者たちよ。今度の選挙でこういう恥知らずの色情女を当選させるようなことになったら、この選挙区は永久に物笑いの種になるでしょうよ。

瀬戸市
大府市
尾張旭市
豊明市
日進市
長久手市
愛知郡東郷町

ここは、彼女のためにも、熱いお灸をすえるべきです。

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同じ43歳、東大卒の才媛、豊田真由子議員。最初テレビであの「このハゲ~~~!!!違うだろう~、違うだろ!」を見たときは、泥酔した女が発狂してるのかと思ったが。事情が分ってくるにつれて、私は豊田議員はさておいて、ハゲ秘書のやり方に、どうも違和感を感じ始めたのだった。

当時は、テレビのワイドショーが朝から晩まで、「このハゲ~~~!!!違うだろう~、違うだろ!」を垂れ流し、幼稚園の園児たちまで、あの叫び方を真似したようだ。

テレビでは、『被害者』のハゲ秘書が、顔こそ出さぬが、口では「酷い目にあった・・。傷が残っている・・・。いつもあんな調子で罵倒された・・」などなど、盛んに泣き言を言って、同情を買おうとしていた。

冷静に考えれば、慎重に練られ、演出された「ハゲ秘書」の復讐劇であったのだ。しかも、やり方がどうも潔くなくて、私は同情するどころか、胃液が逆流したような不快感を強く味わったのだった。

 応援したい!

一言でいうと、「やり方」が卑怯で、狡猾で、陰険で、こすっからいのだった。(一言じゃなかった・・・)

江戸時代なら、ハゲ秘書は、「武士の風上にも置けぬような」ゲス野郎ということになろうか。まったく、男らしくなかった。

埼玉4区

朝霞市、志木市、和光市、新座市の有権者のみなさん、ここは豊田議員を圧倒数で当選させて、ハゲ秘書の鼻を明かしてやりましょう!

卑怯なハゲ秘書に一泡吹かせ、吠え面をかかせてやりましょう!




山尾色情女と豊田議員を比較するのは、若干無理がある。

山尾は、コーヒー代やガソリン代を使い込んで、誤魔化してポケットに入れた。そして、それをすべて自分の秘書の所為にしたといってもいい。

それをすべて返済した上で、今回の見っとも無い不倫の責任を取って議員辞職し、そうしてから立候補すべきであろう。

今のままでは、死ぬまで不名誉と大恥は付きまとうことになる。何より子供がかわいそうだ。

こいつらに日本の舵取りを委ねられます?

2017年09月18日 | 政治ネタ
人間、ある程度の年齢に達すると、初対面の人を見ても、何となくその人相から、この人は
真面目そうだな、とか、この人は胡散臭いタイプだな、とか臭いで感じ取る事が出来るようになるものだ。外れる時もあるが、大抵は第一印象が正解だと思う。

人を見る目ができる、とか人生経験の賜物だとか言えるのかもしれないが、これは貴重な財産だと思うようになった。

その意味でいうと、こいつらはもうお里が知れる、というか化けの皮が剥がれているというか、弁解の余地はまったく感じられないのだ。

 貧乏神・・

地元の恥を晒すようで、話題にもしたくはないのだが、こいつも情けないくらいの役立たずであり、どんなに口では偉そうなことを言っても、熱海の温泉。湯(言う)ばっかりである。

 モナ男・・

民進党を飛び出したまでは良かったが、くっ付く先があれじゃあ、目糞と鼻糞を指先で丸めるようなもの。

有権者はもう騙されないでしょう。

死ぬまで生きりゃいい。

2017年09月17日 | 社会観察
明日は敬老の日なので、勤め先は社員に有給休暇を消化することを奨励している。奨励だから、従わなくてもいいのだが、みんな一緒に休みたいので、「みんな有休を取るようだから、一緒に取りませんか?』などというメールを何度も送ってきた。

というわけで、3連休なのだが、台風の影響で天気が芳しくないのが残念である。

敬老の日というと、まだ比較的新しい祝日で、制定されたのは1966年だそうだ。老人とは何歳からか、などと聞く人がいるが、今の社会通念では65歳以上といっていいのではないだろうか。

しかし、老人という言葉から抱くイメージは、腰が曲がっていて、顔は皺だらけで、入れ歯をカチカチさせながら話す年寄りの姿が浮かぶ。

どこの街でも多分、この日には市長や県知事が、長老の家庭に出向き、花や賞状や記念品を
恭しく手渡すシーンをニュースで流すが、昔からあれが私には理解できなかった。

 どっちが老人?

学生時代に酒の席でよく歌った軍歌の中に、菊の御紋のついたたばこを吸って、明日は死ぬぞ・・・という歌詞の歌があった。確か、『空の勇士』というタイトルだった。

♪恩賜の煙草を いただきて
 あすは死ぬぞと 決めた夜は
 広野の風も 腥(なまぐさ)く
 ぐっと睨んだ 敵空に
 星が瞬(またた)く 二つ三つ (以下略)

恩賜のたばことは、つまり天皇陛下が臣下の者に与えるたばこのことで、他にも、恩賜の銀時計とか金時計、軍刀などがあり、そういうのを戴くということは、大変名誉なことだったようだ。

まさか、この真似をしたがるのではなかろうが、市長や知事ごときが、老人宅にまで出向いて、記念品を手渡し、写真を撮らせて、広報に掲載したりするのは、胡散臭くて見飽きた。というか、見たくもない。

これを考えると、」私も120歳位まで長生きして、市長か県知事がお祝いに来たいと言ってきた時、「そんなもん、いらん!」と、一蹴するのも気分爽快だろう。

しかし、私はあるとき、それまで医者の言い成りになって飲み続けていた、血圧降下剤や血流を良くするらしい薬など、一切の服用を止めて、もう何ヶ月も近くの町医者への通院や、見ると蕁麻疹が出そうになる薬剤師などと会話することも無くなった。

もしかすると、明日倒れてポックリ死ぬかもしれないし、命は助かっても病院に収容されて死を待つことになるかもしれない。

祖父は案外困らせずに他界したが、父の晩年は例えそれを本人が希望したにせよ、施設や病院を行ったり来たり、次第にやせ細っていき、息を引き取った時も腕にいくつかのチューブが刺さったままだった。

 延命治療の実態

私は、手元に万一私が倒れて延命治療をすべきかどうかの判断を要する時は、絶対しそれを拒否するよう、家族宛に署名入り文書で残してあり、口頭でも伝えてある。

もし、家族に裏切られたら、病院で実力行使に出る覚悟もある。

長寿は悪いことだとは思わないが、自然の成り行きを医者が勝手に変える行為には、絶対に賛同しかねる。

「いつか死ぬまで生きりゃいい。」

それまでは、やりたい事をやり、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んで暮らそうと、心に決めた。

空襲警報と心得よ、Jアラート。

2017年09月16日 | 社会観察
よく、アラートとアラームはどう違うのか、と話題になる。

調べてみると、どちらもイタリア語が語源の言葉で、アラート(ALERT)は、all' etra 「見張り台に立て」という意味で、アラーム(ALARM)は、all'arme 「武器を取れ」という意味だそうだ。

したがって、遠くに敵が迫ってきている、全員武器を取れ!という順番で、アラートからアラームにつながるものだと分る。

このニュースは、かなり前の、「京都新聞」に載った記事なので、もう旧聞に属するが、滋賀県の教育委員会が、弾道ミサイル飛来時の対応について、県立学校と各市町教育委員会に通知を出したことに対する全滋賀県教職員組合が、知事らに抗議文をだしたという内容だ。

以下、京都新聞2017年4月27日記事より抜粋。

【滋賀県教育委員会は、「屋内避難の呼びかけがあった場合は、幼児・児童・生徒の皆さんに周知をお願いします」などとする通知を出した。

これを受けて、多くの学校が保護者向けの文書を作り、児童や生徒に配布した。

全滋賀教職員組合が三日月滋賀県知事らに送った抗議文では、児童生徒に唐突にミサイル飛来の可能性を伝えれば、パニックが起こると批判。(下線は、孫ふたり、以下同)

その上で、『政府・内閣官房はこの機を利用し、国民を煽っている』とし、文書の回収や保護者への謝罪を求めた。

県教委は、「子供の安全確保を最優先に、迅速に対応するためだ」(総務課)として、文書回収や謝罪の考えはないとしている。】

非常識なイチャモンをつけた全滋賀教職員組合は、共産党に牛耳られているようだが、こういう連中が学校の先生たちが属する組合を運営しているのだ。

地上波の反日テレビ局も、Jアラートの報道はするものの、その後で垂れ流す、「街の声」などを利用して、Jアラートに対するテレビ局の姿勢を見せているようだ。

 空襲警報!!

「街の声」は、主婦らしい子供を抱いた婦人が出て『逃げろって言われてもネエ・・』
とか戸惑って見せたり、『どこに逃げたらいいんでしょうか?』と自問自答してみせたりしていた。

あるいは、若者がマイクを向けられて『えぇ?地下なんかないっすよ・・』とヘラヘラ笑ったりしていた。

テレビ局はあえてこういう映像を垂れ流すことで、Jアラートに対するテレビ局の考えを国民に代弁させようとしている、「プロパガンダ手法」なのである。

マイクを向けられた街の人も、もう少し常識ある答え方をして欲しいものだが、多分そういう多くの映像はボツになったのだろう。

北朝鮮がミサイルを日本に向けて撃ったり、原爆実験をやっている最中に、若いツバメとホテルにしけこんで、「週4回」のズッコンバッコンに興じている馬鹿女・国会議員がいるご時世。

日本人には、もう少しまともになって問題の本質を考えて欲しいものだが。




言うだけ、じゃない番長・前原

2017年09月15日 | 政治ネタ
この写真の笑顔といい、ポーズといい、夕べは二人でズッコンバッコン楽しんだことは、先ず間違いないだろうと、見る人が見れば即状況が理解できる。

何せ男が股間を女性のお尻に密着させているのである。そして女性の方も嫌がっている表情ではない。



民進党の新代表、『言うだけ番長』前原誠司の幸せ感溢れる写真は、前の晩あてがわれた、北朝鮮慰安婦の女性のお尻を、自分の息子でグリグリする光景だった。

多分、その晩の裸の二人の写真は数十枚撮られているだろう。



そのうちの何枚かをチラッと見せられただけで、まるで催眠術にかかったように前原は北朝鮮の言い成りになるわけだ。

こんなのが民進党の代表だとさ!!

一度、民主党の党首を経験している前原が。今回代表選に名乗り出た時、不思議だと感じたが、裏で糸を引く北朝鮮工作員の指図通りだったのだろう。

在日朝鮮人に献金をもらい続けてきた前原に、議員でいる資格はあるのだろうか?



言うだけじゃない!やる時ゃやるんです!!とでも言いたいのかもしれないが、どいつもコイツも、男も女も、民進党にはまともな人間がいないのではないか!

こんな連中を議員にしたのはどこの誰だ!

地獄の新型爆弾・ナパーム

2017年09月10日 | 外国ネタ
特に特別なファンでもなかったし、「本屋大賞」などというのも、胡散臭くて、全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本、本屋大賞などと大騒ぎしたところで、本屋の店員が新刊本をすぐ読み終えるほど読書家だとは、到底思えない。

あれは、世間のミーハー向けの販売促進のために、業界の営業マンたちが作ったお祭り騒ぎの一つに過ぎないと思っている。

『海賊と呼ばれた男』が本屋大賞受賞作だから、映画化されたそれも名作だなどとはまったく思わず、ただ『永遠のゼロ』の主人公を演じた、岡田准一、監督:山崎貴コンビの映画だから、「ちょっと見てみるか・・」と見た映画であった。

歳を重ねるごとに、涙腺が明らかにゆるくなってきたことは感じていたが、映画を観終えて場内が明るくなってからも、瞬きをすれば涙がタラーっとこぼれそうで、それを他人に見られるのが嫌で立ち上がれなかった。

一言でいうと、「男気」を強く感じさせてくれる映画だった。「一本筋を通す生き方」のすばらしさを堪能させてくれた映画だった。

映画は、まず大東亜戦争末期の東京大空襲のシーンから始った。この映画の導入部の数分間を現代の若者たちは繰り返して目に焼き付けるべきだ。ここだけでも、この映画を見る価値は充分あるとおもう。



それは、『大空襲』などと呼ぶ生易しいものではなく、『大虐殺』以外に他に呼び方はあるまい。2時間程度の空襲で、死者10万人以上、被災者100万人以上。しかも、全員が民間人の女・子供・老人たちであった。



このとき使用された大量破壊兵器が、M69ナパーム弾であった。

開発者は、当時ハーバード大学の有機化学者であった、ドイツ系アメリカ人、ルイス・フィーザーであった。



彼の任務は、・発火し易く、・長時間高温で燃え続け、・消化しにくい、新型焼夷弾の開発であった。しかも軍部からの要請はこのほかにも4つあった。

1. 入手が容易であること
当初生ゴムの樹液をガソリンに混ぜて、ゲル状にしたものを使用していたが、日本軍がマレー半島を占領してから、生ゴムの入手ができなくなっていたからだ。
2. 長期保存が可能であること
3. -4度C~+65度Cでも変質しないこと
4. 戦地でも調合可能なこと

彼はその時点で、すでにガソリンに粘度をもたせ、ゲル化することで一瞬の爆発で周囲に飛び散ったゲル状のガソリンが付着して燃え広がり、燃え尽きるまで焼き尽くす、という新型焼夷弾のイメージは出来上がっていた。

あとは、いかに与えられた要求事項に応えていくか、という状況だった。膨大な数の組み合わせ実験を繰り返し、見出したのは、ナフテン酸アルミニウムという石油精製時の副産物(ナフサ)をガソリンに混ぜることでゲル化させる方法だった。

しかも、戦地でも調合しやすいように、パルミチン酸アルミニウムというパーム油(椰子油)を少し加えることで、容易にゲル化させることに成功した。ナフテン酸とパーム油の頭文字をくっつけて「ナパーム」と命名した。

このナパームを詰めた38個の筒状の爆弾をまとめた「クラスター型」の爆弾は、投下されると空中で分散して燃えながら落下し、着弾すると中のゲル状ナパームがはじけ飛び、1000度C前後の炎が床や壁に付着して、火災を引き起こすのだった。



















この新型焼夷弾の脅威を世界中に知らしめるためのターゲットが日本の首都である、東京に決ると、アメリカ軍は、ハワイの日系人の中から大工の経験者を本土に呼び寄せ、ユタ州の砂漠の真ん中に、日本家屋を何棟も造らせ、家の中には障子や襖、畳、タンスなどを揃えさせた。



繰り返し上空からM69を投下して、その燃焼効果、燃焼スピード、など詳細なデータを集め、どれもそれまでの焼夷弾とは比較にならない、好結果を得たのだった。

1945年3月10日。グアム島、テニアン島を飛び立った325機のB29爆撃機は2時間ほどで、1000トン以上のナパーム爆弾を投下して、逃げ惑う東京の老若男女10万人以上を殺害し、100万人以上の市民の家屋を焼き尽くしたのだった。

この後も同様な空襲を、名古屋や大阪にも繰り返し、30万人以上が犠牲となった。

この安価で殺傷効果の高いナパームの開発にかかった費用は、520万ドルだったそうだ。

同時に進められていた、名だたる物理学者たちによる「マンハッタン計画」での原子爆弾の開発費用の、何と400分の1という、安さだった。

アメリカはこの結果に味をしめ、その後のベトナム戦争でも、ナパーム弾を使い続け、ベトナム人や村やジャングルを焼き尽くした。

さすがに、その恐ろしい兵器に対する恐怖感は次第に膨らんで行き、1枚の戦場写真が切っ掛けとなって、アメリカはナパーム弾の使用を控えて、ベトナム戦争にも負けた。

それが、この衝撃的な写真だった。



オバマ大統領が、広島を訪れ被害者たちと抱き合っているシーンをテレビで見ていたとき、正直言って私は何の感情も抱かなかった。

強いていえば、被爆者たちは皆さん長生きするものなんだなあ、ということくらいか。

ナパーム弾はの開発者、ルイス・フィーザーは当時のアメリカ大統領から、戦争を早期に終わらせてくれたことで、感謝されたそうだが、これを聞いたときは、私は強い違和感を抱いた。

いい悪いということはさて置いて、私たちは少なくともこういった歴史の事実くらいは、キチッと覚えておきたいものだ。

百田氏の本や映画は、この点大きく貢献している。彼の講演も然りである・