毎年師走に入ると、私はそこかしこで、「師走になると、『ああ、今年も忠臣蔵の時期になったなあ』って思うんだよね。」と言うと、たいてい「ええっ!年の瀬を感じるのはジングルベルじゃないの、普通は。」などと反論される。
しかし、実際私はクリスマスなどまったくどうでもいい事で、まったく楽しい気分にもならないのである。今年もそうだった。
勤め先のオフィスには、高さが1.3mほどのクリスマスツリーが置かれたが、「厳しいコストダウンを強いられて、シャープペンの芯すら満足に買えない状況なのに、オメデタイ連中だな・・・」とまったく白けた気分にしかならなかった。
世間のオメデタイ連中は、それだけでは足りずに、最近ではハロウィンという西洋のお祭り騒ぎを真似ようと、必死な取り組みをしているようで、腹立たしさすら覚えてしまう。
そんなモヤモヤした気分が晴れずにいるところ、今朝の新聞にあった曽野綾子氏の「透明な歳月の光」という定期コラムを読んで、私のモヤモヤは少し和らいだ。
曽野氏のコラムはいつも楽しみに読むが、その冷静に社会を見つめる感覚と、軽妙洒脱な筆致はとても勉強になり、お手本にしている。
今朝の彼女は、今年一年を振り返って穏やかな年だったと思うが、『心理的にはどこか疲れている。』とコラムを始めていた。
それは、『年齢のせいだとも思えるが、日本人の精神が変わってきているように感じているからでもある。』そうだ。
『相変わらずテレビは食べ物の話と、ひな壇に人を並べて「うわぁ」とか「へぇー」とかいう声を聞かせる番組でことは済むと思っているようだし、ハロウィーンとかクリスマスとか、キリスト教徒でなければ関係ない祭日を、単なる遊びの機会として捉えている軽薄な日本人もめだつようになった。』
曽野氏も私がカミさんに言われるように、『たわいないことだから、いいじゃないの』と言われるようだが、『私は良くないと思っている。』ときっぱり。
それは、『こうした心の問題に、慎重に行動することが、その人の思想となり、責任ある振る舞いだいえる。』からだそうだ。
まったく同感で、私も随分前から「節操のない大人たち」がジワジワ増え続けているのを感じていた。
曽野氏は続けて、私の言いたくても言い表せなかったことを見事に代弁してくれる。
『愛とか、平和とか、人権とかいうことを口にしたい時も、昔はどれだけそうしたものを命にかけて守れるだろうか、と思うと忸怩たるものがあって、あまり軽々には口に出来なかった。』
それは、『平和は、スローガンやデモやチャリティーイベントでは守れない・・』からで、『・・生涯をかけて、命か、全財産を差し出すくらいの決意を持った人だけが、そのために働いているということができる。』
『平成27年には、言葉だけが洪水のようにあふれて、私はそれに溺れそうになってしまったのだ。』
以前、マニラに赴任しているとき、コンビニなどで買い物をして外に出ると、幼い子供たちが、ワッと手を差し出して駆け寄って来て、小銭をせびることがあった。概して日本人はこういうのに弱く、つり銭をすべて子供たちに与えるのだが、私は敢えて無視した。
私には、マニラ中のこの手の子供たちを助けることは、できないと分かっていたからだった。
だから、曽野氏の言わんとすることは、非常によく理解できる。
曽野氏は続ける。『昔の日本人の行動や表現には、羞恥や含みなどという微妙な要素があったから、平和などという「ご大層な言葉」はめったに使わなかったのだ。』
羞恥心を忘れた日本人が増えているということだろう。