孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

何か買わずにはいられないんです。

2015年02月12日 | 日記
静岡県民はお人よしで、買い物でも、まず値切ることはしないのだという。だからなのか知らないが、他県から転入してきた人は、みんな口を揃えて、「静岡は物価が高い」と言う。

何年か前、北海道バスツアーに参加したことがあったが、そのとき、バスガイドさんが静岡県人にまつわる面白い話をしてくれた。ツアー参加者約45人ほどは、もちろん全員が静岡からの参加者だった。

大手の旅行会社の企画した北海道ツアーで、羽田空港に向う途中の新幹線の中で、添乗員のお嬢さんが目印の社名入りの缶バッジを渡してくれた。

私は缶バッジを胸に付けるのは少し恥ずかしかったが、同行したカミさんは意外と何の抵抗もなさそうに胸に付けていたので、同じようにつけることにした。飛行場に着くと観光バスが待っていて、すぐに乗り込んだ。座席は添乗員が予め決めておいたらしく、入り口のドアに貼られていた。

バスガイドは、50歳台のベテラン風の女性で、ご多分に漏れずかなり恰幅のいい方だった。話し上手で、笑いが絶えなかったが、中でも面白かったのが「静岡ネタ」の話だった。

乗客の7割くらいは、年配のご婦人なので、大体1時間ごとにはトイレ休憩をとって、サービスエリアに止まるから心配するなと安心させたガイドさんは、ところで・・・と最初の「静岡ネタ」を披露してくれた。

静岡のお客様は、サービスエリアなどでトイレ休憩すると、必ず帰りに何か食べ物を買って、ぶら下げてバスに戻ってくるそうだ。「白い恋人たち」は今夜泊まるホテルにたくさん用意してあると、売店に電話で確かめ、何もサービスエリアであせって買わなくても良いですからね、と言っても、皆さん「あったわよ、あったわよ。」と言って買い込んでバスに戻ってくるそうで、他県のお客さんとは明らかに違うそうだ。

さらに、みんながつけている缶バッジには右上の端っこに小さな黒丸が印刷されているが、その意味を知ってるか聞いてきた。みんなそれぞれ自分の付けているバッジの黒丸を確認しては、首を傾げている。

実は、この黒丸入りの缶バッジは静岡県の方だけが付けるものらしい。土産物センターの希望で付けることになったそうだ。なぜか?それは、静岡県人は、ちょっと押せばいくらでも買ってくれるからだそうだ。値切らないし、金払いは良いし、押しに弱いので、全国一の上得意だそうだ。

私は、半信半疑で聞いていたが、翌日土産物を買い漁るご夫人たちを見ていて、まんざら嘘でもないんだろうな、と考えを改めたのだった。

節操があるとは言えないが・・

2015年02月10日 | 日記
初対面の人とは、宗教の話はしない方がいい。これは海外に行っても同じである。しかし、受け入れられないことは、はっきりNOと言った方がいいと思う。

日本人は概して宗教に無頓着で、キリスト教徒でもないのにクリスマスで大はしゃぎして、正月は神社やお寺に初詣。キリスト教徒でもない愚息の結婚式は、グアムの教会だった。

アメリカにいた時、よく教会に来いと、誘われることがあった。特に週末に予定がなかったら、教会にくればバーベキューパーティーをやるよ、と言った誘い方をしてくる。私の同僚たちも私と同じで、食い物には弱い。だから、一度誘いに乗ったことがあった。

ミサと言うのだろうか、牧師が説教をしたり、賛美歌をみんなで歌ったりして数時間を過ごす。中間達は何を牧師が喋っているのか分かるはずもないが、みんな神妙な顔つきで話を聞いている・・・フリをしていた。薄目を開けて見ていると、中には見よう見まねで、十字を切って両手を合わせて祈る者もいた。

私は、目的が食べることだけなので、ミサの間中退屈で死にそうだったが、近くの若い女の子の採点をしてみたりして何とか居眠りを我慢した。賛美歌のときは、頭の中でうろ覚えの般若心経を唱えていた。

別の機会に、知り合ったアメリカ人の青年に誘われて教会に行ったことがある。行ってみると、そこはモルモン教の教会だった。二度目に誘われたときは、はっきりとモルモン教にはまったく興味が湧かないと言って断った。

こういう時、アメリカ人はサバサバしていて、「OK」と言って理解してくれる。こういうところは、好感がもてる。モルモン教が嫌だったのは、タバコが吸えないからだった。当時、私は一日40本吸うヘビースモーカーだったのだ。

カタカナ言葉にご用心

2015年02月10日 | 日記
世はカタカナ言葉で溢れています。面白いことに、わざわざカタカナで言う必要も無いのに、わざわざカタカナで言うところは、何か胡散臭さを漂わせていませんか?

もともと我々の祖先は外来語を巧みに翻訳しあたかも昔からあった言葉のように使いこなしてきました。漢字の本場の中国からもたくさんの留学生が日本に来て、母国にそれらの翻訳後を持ち帰ったため、今の中国人たちはそれとは知らずに、普通に使っているのだそうです。

よく言われるのが、国名である、「中華人民共和国」の中の、「中華」以外は全部日本人が外来語を翻訳した言葉だそうです。つまり、当時はpeople とか republic とかいう概念を表す日本語は存在しなかったため、新たにそれぞれ「人民」とか「共和国」とかいった言葉を作って翻訳語としたわけです。他にも、「経済」、「文化」、「社会主義」、「法律」、「宗教」などたくさんあります。

自然科学に関する翻訳語はたくさんあって、このためにわざわざ外国に留学しなくとも、日本人は国内で研究が可能となり、このため自然科学の分野で外国に遅れをとることはなかったようです。ノーベル賞受賞者が多いのも納得できます。

映画の名前も昔は、なかなか凝った翻訳がされていて、私が大好きなタイトルは、「俺たちに明日はない」で、原題は「Bonnie and Clyde」(ボニーとクライド)です。最近の洋画は、こういう名訳は少なくなって、やたらとカタカナでごまかしているような気がします。やはり昔は映画が花形産業でしたから、才能のある人がどんどん集まってきたようですから、無理もないことでしょうか。

それよりも、これは前にもブログに書きましたが、日本人の外国コンプレックスがカタカナを敢えて使いたがる、使わせたがるという所に起因してるのではないかと私は感じています。運動選手を「アスリート」と言ったり、「ジャーナリスト」がやたらと登場したり、テレビの通販を見ると、健康食品にはカタカナが氾濫しています。「コンドロイチン」、「コラーゲン」、「グルコサミン」・・・

私は、カタカナを連発する人はまず信用しないようにしています。胡散臭さが漂っていて、私の体中の警報が鳴り響くのです。

君が代の意味するところ

2015年02月08日 | 日記
2月11日は建国記念の日で祝日である。が、果たしてこの意味を子供達に説明できる大人がどのくらいいるだろうか。それは、無理からぬことで、学校では教えないし、マスコミもわざとこのことを知らしめようとはしないからです。

私の子供の頃は、学校で君が代の意味を教えてもらった記憶がありますが、、今の学校は式典で君が代を歌わせない教師がいるそうですから、その意味など教えるはずもないし、教師も意味など考えたことも無いのでしょう。

最近、君が代の「きみ」の意味をあらためて知る機会があり、ひとつ利口になった気分がしました。それは、「き」と「み」からできた大和言葉で、「男」と「女」、つまり「夫婦」を意味するのだそうです。「おきな」は年配の男性、「おみな」は年配の女性のことです。

また、神話に登場する「イザナキ」と「イザナミ」という国造りの神様も、「キ」と「ミ」で男女を区別しています。「キミ」は夫婦を意味していて、君が代の歌詞で「高砂」みたいなメロディーをつけて、今でも結婚式の披露宴で謡うところが九州の方にあるそうです。

つまり、夫婦になった二人を永久に続いて子孫を増やしてくれというお祝いの謡い(うたい)が起源だったようです。これを聞いたとき、冗談でなく、私の目からコトンという音をたてて鱗が落ちました。子供達が自分の国の国歌に愛着を抱くような教育を望みます。

20歳の被差別体験。

2015年02月08日 | 日記
人種差別を受けた経験のある人はなかなかいないのではないかと思うが如何だろうか?私は自慢ではないが、20歳のとき、この経験をした。学生のときで、場所はパプア・ニューギニアだった。当時はまだ独立した国家ではなくて、国連がオーストラリアに委託して、統治していた。

なぜそんなところに行ったかというと、話が長くなるが、簡単に言うと、探検部のようなサークル仲間4名と、食料生産の可能性を探りに調査に出かけた訳である。資金不足だったので、小さな客船の一番安い客室を利用した。

横浜港を出てグアム島に立ち寄り、一泊して、確か一週間くらい掛けてパプあ・ニューギニア本島に寄り、ラバウル島を廻って大阪港に帰るという観光クルーズ船だった。私と先輩の二人は、本島で下船し、他の三名はラバウル島で下船して、後から本島で合流するという計画だった。

確か、下船した港はラエという名前の街にあったと思う。登山靴にテント持参という山登りスタイルで行ったので、当初はどこか野宿できる場所を探す計画だったが、港の近くにはそういう場所がなくて、やむを得ず安宿に泊まることにした。

安宿と言っても、オーストラリア人が経営する、朝食つきのユースホステルのような感じの宿泊施設で、25mくらいのプールもついていた。私と先輩は、荷物を置いて街を散策し、食料を買出し、宿に戻って一休みした後、ひと泳ぎすることにした。

何せ赤道直下なので、暑くてたまらなかった。海水パンツに着替え、バスタオルを肩にかけてプールに出向いた。オーストラリア人らしき大人と子供達が二家族ほどにぎやかに泳いでいた。私はバスタオルを金網フェンスに掛け、準備運動を始めた。

その時である。プールサイドにいたお父さんらしき男が、プールの中にいる子供たちに片手で何か合図した。すると、子供達は全員がプールから出て、体を拭くこともせず、慌てるように家族全員でプールを後にした。残された我々二人は最初何が起きたんだろう。何か彼らには急用ができたんだろうか、と思った程度だった。

しかし、その一連の様子を眺めていたガードマンらしきニューギニア人が我々を見て、ニタニタ笑っていたのを見て、待てよ、彼らは我々と一緒にプールに入るのを嫌がって帰ったのではないかと直感した。現地人ガードマンの笑いは意味ありげだったが、どうも私の予感は図星だったと確信したのは、その夜だった。

私は先輩を誘って、映画を観に街へ出た。映画館に貼られたポスターから、西部劇が上映中のようだった。窓口でチケットを買い、中に入っていくと、うす暗くてよく見えなかったが、目を凝らすと映画館の上半分と下半分に座席を区分けする鉄格子があった。係員のような体格の良い人が我々を上に行くように指図したので従った。

映画が始まり、インディアンとアメリカ人の戦闘シーンはクライマックスに達するところだった。インディアンが白人をやっつけるところでは、観客が熱狂的になって大騒ぎした。現地の観客はみんなインディアンの味方だった。口笛や叫び声が鳴り響き、館内は異常な雰囲気になった。

その時、スクリーンから館内に目を移すと、スクリーンに近い下半分は、みんな白人の席で、我々が座っていた上半分の観客は全員がニューギニア現地人だった。それは鉄格子で明確に分けられていた。

オーストラリアは当時人種差別禁止法が制定されたばかりであった。白豪主義国家としても有名で、有色人種の移住を禁止していた国だった。その程度の知識は勉強していたが、まさか自分たちが差別されるとは、予想だにしていなかったわけだ。

日本語は乱れている・・・かな?

2015年02月08日 | 日記
ひところ、コンビニ言葉という奇妙な日本語を咎める風潮があったが、一向に改まっていないどころか、若者の日本語はますます乱れているどころか、いい歳をこいた大人がこれに影響されたり、真似したりしているのを見ると、もううんざりしてしまう。

本当は行きたいのに、店員の発する日本語が嫌で行くのをためらってしまう店がある。本をお売りください、と言う看板を掲げる古本屋のような、そうでないような店がそれである。店に入った途端、店員たちが一斉に声を張り上げる。

「いらっしゃいませコンニチワァァ!!。」これが嫌いで、ここには二度と行かなくなった。店員が自発的に言ってるのではなく、明らかにそう言う様に指導されているのである。客が入ってくるたびに、次々と木霊のように店内に響き渡るのだ。

私が学生で、アルバイトでここに来たら、この掛け声が嫌で、絶対に一日で辞めてしまう。特に、コンニチワァァの語尾を上げるのが、何とも白痴的で吐き気を催させるイントネーションである。

ファミレスやファーストフードの店に行っても、私は耳障りな日本語に遭遇したら、即訂正してしまう、実に嫌なオヤジである。「・・・い以上でよろしかったですか?」と言われたら、即「よろしかった、じゃなくて、よろしいでしょうか、でしょ?」と切り返すことにしている。

中でも、もっとも嫌いなのが、「僕的には・・」という言い方で、先日も60歳を越えた大人が会議の席でこう言ったのを耳にした時は、危うくいの中の消化物を一気に吐きそうになった。

テレビで偉そうに評論する「知的文化人」たちが、語尾に付けがちな、「・・・かな?って思います。」という断定を避ける言い回しも、聞いてて、「卑怯な言い方だ」と感じて、その後の意見はまったく聞く気にならなくなってしまう。

「・・・かも」とか「チョー・・」とか「マジで・・・」とか・・・。気にし出したら、こちらが発狂しそうになるので、気をそらすことに全力を尽くすことにしている。

百貨店は不動産業。

2015年02月08日 | 日記
シンガポールに赴任して一月ほどしたとき、大きな食品見本市があったので仕事を兼ねて見学に行ったことがある。日本にもあるが、シンガポールは国際空港のすぐ近くに、見本市専門の施設があり、駅から5分も歩くだけで着く事ができる便利さは、さすがシンガポールだと感心した。

確か、4日間くらい連続で開催されたと思うが、とにかく広すぎて二日行ったが半分見れたかどうか不明である。国別、食品、関連設備など施設ごとに何百という大小のブースがあり、担当者が熱心に説明してくれる。興味のある展示ブースのカタログやパンフレットを集めていくと、その量も増えていき、次第に手に持つのも億劫になるくらい重くなってくる。

その時、日本の、しかも私の地元の産品を展示しているブースがあり、とても驚いた。和菓子や緑茶、トマトジュースとバラエティーに富んでいて和菓子は何と実演も行っていて観客も群がり、大変な反響だった。何か商売に結びつくかもしれないと思い、各ブースに置かれている担当者の名刺をそれぞれもらって置いた。

後日、名刺やパンフレットを整理しながら、名刺にか書かれたEメールアドレスに、挨拶のメールを送信した。そんなことが縁になって、地元の和菓子屋さんの経営者の方と近況を伝え合う仲になり、数ヵ月後その若き経営者の方からある相談のメールが届いた。

彼は老舗の和菓子店を父親から引継いだ途端、その父が他界してしまったそうで、一気に経営者の仲間入りをすることになったそうだ。海外志向が大変強く、いずれはアメリカに進出したいという大きな夢を抱いていた。メールの文面からは謙虚で礼儀正しく、しかし強い意気込みを感じ取ることができ、とても好感を抱いたという記憶が残っている。

彼は日本でも、百貨店の地下食品売り場に臨時店舗を出店し、和菓子作りの実演販売をしたりして、営業の第一線で活躍していたそうであるが、近々シンガポールの日系百貨店で、日本食フェアを企画しているので参加を考えている、というメールをある日受信した。

ついては、材料の発送とか現地での段取り等で、お助け願えないかという内容だった。私のいたレンタルオフィスは、日系百貨店のビルにあり、シンガポール最大の繁華街のど真ん中に立地しているので、もしやと思って確認すると、なんと同じ百貨店が日本食フェアを企画していて、まさにそれに参画したいというのが若き経営者の思惑だと分かった。

私は、早速その百貨店担当者に電話をして面談のアポを取った。数日後、言われた時間に言われた場所に出向き、自己紹介してから用件を伝えた。相手の担当者は30代半ばの青年で、日本を代表するほどの老舗百貨店の地下食品売り場の責任者らしく、きびきびした応接であったが、どうも「慇懃無礼」という言葉がぴったりする、どこか嫌味をプンプン発散するタイプであった。

その場では、情報交換をするに留め、詳細は改めてメールにてやり取りするということで、面談は15分ほどで終えた。数週間の様々なやり取りがあり、中を取り持つことになった私個人にも、いろいろ状況に変化が生じて、結果的には日本食フェアが開催する前に、私は帰国することになったが、和菓子店の出展は万事うまく終えたそうで、私も安心した。

それにしても、それまで私は何も百貨店業界とのお付き合いは経験しておらず、デパ地下などは大して興味もなかったのだが、その時の経験で実にさまざまなことを知り得て、とても興味深い経験になった。その一つに、例えばシンガポールでは、すでに「北海道」が強いブランドになっていて、食品フェアをする際、もっとも手堅いテーマが「北海道フェア」だということだった。

そう言われれば、シンガポールに進出している日系百貨店がいくつかあるが、たいていどこかで「北海道フェア」を開催しているのが現状だったと思う。あるいは、デパ地下の催事場スペースは、細かく区切って出展者に場所を賃貸しし、細かい管理はすべて出展者の責任で賄うことが条件で、しかもレジは百貨店側に直結させていて、売り上げの2割以上をピンはねしているという現実は、知って驚かされた。

海外なので、通訳や店員の確保、材料の搬入、保管、安全管理等々、一切百貨店側はタッチしない。しかし、衛生管理など厳しい基準を守らせることは決して怠らないのである。出展者は、百貨店の集客力を利用し、それに対する効果を期待して対価を払うのだから当然と言えば当然のことなのだが、多くの出展者は、予想通り、フェアの期間中の儲けなど度外視した上での出展だと聞いた。知り合った、関連業者の一人が、「百貨店は、不動産業ですよ・・・。」と呟いていたのが耳に残っている。

能弁な近所の人たち・・・。

2015年02月07日 | 日記
個人情報保護のためで、今やこんな田舎でも、隣近所の家族構成すら分からなくなってきています。隣組の付き合いなどほとんどなくなっていますので、防災訓練をやっても、参加しない高齢者の健康状態など、突っ込んで聞かなければわかることはできません。

和歌山で起きた小学生殺人事件の報道を見ていると、まあ次々と近所の人が、つかまった犯人のことを喋っていますが、私はどうしても違和感を感じてしまいます。

私が子供の頃は、家の玄関に鍵をかけるなどという事は、ほとんどありませんでしたが、今やちょっと出掛けるだけでも鍵を掛けて出ます。実際、人目で外国人と分かる男が物置に入ってきて、片言の日本語で鉄くずはないかと聞いてきたときは、驚いて鳥肌が立ったことがあった。

和歌山に限らず、日本中の田舎で似たような事件が起き得るのが昨今の状況でしょう。そんな時、私の近所の人たちも、テレビのマイクに向ってベラベラ喋るのだろうかと思うと、おぞましい時代になったなあと寒気がする。

誰の所為でもないのだろうが、こんな状況で外国人労働者がなだれこんできたリ、移住者が海外から入り込んできたりしたら、簡単に共生などできるとは、到底想像できないのだが・・・。

マック開店に狂喜の市民。

2015年02月07日 | 日記
例によって昔の話です。今から大体35年位前のこと。もう完璧に職場の若い連中に話しても、相手にされない話題です。一言、「俺、生れてないし・・・。」と言って無視されます。

当時、私はある研修プログラムのメンバーとして、他の日本の若者たち約100人と共にアメリカの西部ワシントン州の真ん中片にある田舎町にいました。人口は多分2万人弱だったと思います。商店街があるわけでもなく、映画館もボーリング場もなく、若者達もあまり見かけない殺風景な街でした。私たちは郊外にある短大の学生寮に滞在して、一ヶ月間英語研修を受けました。

一クラス十数人に編成され、午前中は中学生レベルの英会話授業を受け、午後はアメリカの文化や産業の短編映画を観ました。プログラムの一環として、途中一回市民の家に週末ホームステイすることがありました。3~4人が1軒に泊まりに行くわけです。ホストファミリーと夕食を共にし、食後は居間でおしゃべりに興じます。

始めに自己紹介をして、日本から持ってきたお土産を手渡しました。私は、益子焼のぐい飲みを持っていきました。確か、一個300円くらいの安物でしたが、なかなか渋い、味わいのある焼き上がりのぐい飲みでした。他の二人は浮世絵の扇子と3メートル位のこ鯉のぼりで、どれもこれも大好評でした。

ご主人は、昔三年ほど北海道で英語教師をしていた経験があるそうで、日本文化にはかなり造詣が深く、好きな映画は「セブン・サムライ」だと言ってました。何の映画かはじめ分かりませんでしたが、少し経って、「七人の侍」のことだと気がつきました。愛嬌たっぷりの中学生の次女が飼っている愛犬の名前は、「太郎」で、一家揃って大の親日家のようでした。

さて、我々の楽しみの一つは夕食で、前日は、分厚いビフテキが食いたいなあ、なんて話していました。ところが、夕方になっても奥さんは夕食の支度をするわけでもなく、我々も一体どうなるのかと少し不安になってきたところ、「実はネエ・・・」とご主人がニコニコしながら語り始めました。

実は、とうとうこの街にもマクドナルドがオープンしたんだよ。ハンバーガーは好きだろ?今夜はそこで夕食だよ。」次女と奥さんはもう大喜びで、早く行こうとお父さんを急かし始めました。マクドナルドと言えば、今でこそ知ってますが、当時は知名度も低く、私は知りませんでした。ただ、ハンバーガーはホットドッグと並んで、アメリカの典型的な食べ物ですから、当然知ってました。

漠然と、今夜はハンバーガーか・・・と特に喜ぶわけでもなく、ついていきましたが、行って見ると、すごい行列にまず驚かされました。店内は満席で、店の外にも長い行列ができていました。20分ほど待って、店内に入り席を確保しました。ご主人が代表で注文しにカウンターに並び、我々は彼の合図を待ちました。

ハンバーガーとポテトとコカコーラの載ったトレイを各自テーブルまで運び、一斉に食べ始めましたが、店内の客は誰もこぼれんばかりの笑みを見せ、多分我々日本人だけが妙に無表情で沈んでたかもしれません。率直に言って、こんなお菓子みたいなもん夕食に食べて、アメリカ人は嬉しいのかね?これが、当時の私の偽らざる感想でした。

そんなにテレビに映りたいか?

2015年02月07日 | 日記
富士山五合目で、登山指導のアルバイトをしたとき感じたことです。山開き初日は、テレビ局各局、ラジオ局、新聞社など、取材陣で五合目はごった返します。お体裁程度に富士登山は無理をしないようにとか、装備をきちんと準備してとか注意喚起しますが、あくまでもお体裁程度で、横で見ていれば、心の底から訴えたいと思っていないのは簡単に分かります。

最近は、「弾丸登山」という言葉を使って、ご来光見たさに不眠で登山するのは避けましょうなどと訴えますが、ご来光、ご来光とはしゃぐレポーターの言葉には、まったく説得力が無く、むしろ「弾丸登山」を煽っているとさえ感じてしまう報道姿勢です。

どの局もレポーターとして五合目に派遣されるのは、キャピキャピの若い女性で、登山の怖さなどまったくどうでもいい感じのギャルですので、カメラマンを連れて登山客にインタビューすると、された方も大喜びでベラベラおしゃべりします。Tシャツにナップサック、運動靴姿というハイキングの格好で登山しようとする若者にインタビューしても、装備をとがめるわけでもなく、どこから来たのかとか、富士山が世界遺産になってどう思うかとか、下らない質問で時間を費やし、通行を妨げていることなどお構い無しの能天気レポーターです。

ところが、私の同僚の中にもカメラを向けられて、マイクを突きつけられると、人が変わったようにベラベラと、どうでも良い質問にご丁寧に答える輩がいました。大方の日本人はなぜテレビカメラを向けられると、ああやってベラベラ無抵抗に喋ってしまうのでしょうか?

事件があると、よく近所の住人が顔を映す、映さないに関わらず、ベラベラ知ってることを喋っているシーンが観られます。街の声にしても然り。喋った映像がどう使われるか分かったものではないのに、ベラベラ自論をまくし立てる通行人には、私はいつも眉をしかめてしまいます。

富士山のアルバイトのとき、一度こんなことがありました。それは、朝仕事を始めて一時間も経ったときでした。電話が鳴り、受話器をとった私はそれがNHKラジオの通信員と名乗る男と知り、嫌な気分になりましたが、用件を聞くと、山開きの五合目の様子を教えて欲しいと、気温とか天候とか、混雑具合とか、延々と質問攻めです。挙句の果てに、私の素性をあれやこれや問いただし始めました。

導火線の短い私は、「いい加減にしたらどうですか?一体あなたは何様だと思ってるんですか?私は今仕事中ですよ。取材をしたかったら現場に足を運んだらどうです?こんな風に電話で取材するのはNHKくらいなもんですよ。」そう言って受話器を置きました。

パーティー玩具、侮る無かれ!

2015年02月07日 | 日記
ヘリウムガスを吸うと自分の声がドナルドダックみたいになって、面白いですが、意識がなくなることもあるような危険性があることは知りませんでした。

食べ物に小さなビニール片が入っていたと、大騒ぎして報道していた各局が、この事件をサラッと報道してそれっきりという姿勢には、首を傾げてしまいます。この危険な商品は、今でも販売されているのでしょうかね?

新聞の捏造報道で耳目を集めた同系列のテレビ局の不祥事だから、あえて大騒ぎにならないように報道を抑えているのでしょうか?そうかんぐりたくなる現象です。

一方、台湾で起きた飛行機事故の報道は、朝から晩までこれでもかと執拗に報道しているのは、これまた違和感を覚えます。日本人が乗客にいたのなら、あるいは日本人観光客がよく利用する便なら少しは理解できますが、そうでもないようなので、あそこまで執拗な報道にはなにか裏があるように思えて仕方ありません。

ISILの報道姿勢も明らかにテロを擁護するものでしたから、ますます妙な報道機関だと感じさせます。何かと言えば、ソースは明かせない。報道の自由があると主張するのもいつものこと。私たちは洞察力を研ぎ澄ます必要がありますね。

非難する相手を間違えるなよ。

2015年02月06日 | 日記
日本人なら誰でも日本が好きだと思っていたが、それがそうでもないらしい。多分テレビばかり見ていたら、そんなことは気付かなかったかもしれないが、最近はテレビよりインターネットを介して情報を得ることが面白くて、新聞やテレビの言うこととのギャップに驚きを感じながらながら、感心する事が多い。

例えば、先月から大騒ぎしていた中東の人質事件に関しても、二人が殺されて落着したかと思った途端、安倍総理を責任追及するような、まるで二人の日本人を死なせたのは安倍総理であるかのような意見をテレビで自慢げに披露する学者や評論家、政治家が後を絶たない。

今回の人質事件は、最初からあんなところにノコノコ出かけていった方が悪いに決っていると、ずうっと思っていた。中東で難民の子供の可愛そうな情景をレポートするくらいなら、中国がチベットやウイグルでどんな悪さをしているかを報道して欲しかった。

余程法外な報酬を目の前にチラつかされ、それに目がくらんだのか、さもなければ人間話せば分かるものとかいう能天気なお方だったのか・・・。自分でも危険な地域に潜入する際、数億円の保険に加入していたそうだから、ある程度死を覚悟していたのではあるまいか。

そして、予想通り殺された後、テレビに出る学者や評論家各氏の多くは、安倍総理の行動が人質事件を誘発した、身代金を払えば二人を助けることは可能だった、ジャーナリストの使命は欠かせないものだ云々かんぬん・・・・。聞いていてあきれ果ててしまう発言を神妙な顔つきでお述べになっていた。

私が、この感情はどこかで以前抱いたことがあったなあと思ったが、そう、それは広島の平和公園の記念碑に彫られた言葉を知ったときの感情だった。原爆を落とされて瞬時のうちに非戦闘員の市民数万人が無残に殺された。当時も今もあってはならない犯罪行為である。

それなのに、公園の記念石碑には、「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから。」と彫られていて、作者は後半の文の主語は原爆を落とした米国ではないと言っているそうだ。原爆を落とされたのは日本が悪いからだと言いたいのだろうか?

金のために人質を殺すのもいとわないテロリストより、安倍総理の責任を問う人たちは、明らかに自分とは信条が異なる人たちだなあと嘆息する。

カラスにパンを与える老人

2015年02月05日 | 日記
お節介だと思ったんですが、つい黙っていられなくて注意してしまいました。言ってから後味の悪い思いをした分だけ、損だったのかもしれません。実は以前から目にしていて、気になっていたのですが、なかなか言い出せなかったんです。

散歩コースの途中にある河川敷の芝生で、よく食パンのミミらしきものを、カラスやトンビに投げて与えている老人を見ました。近くの林のような小高い木々の枝に留まっているカラスは十数羽いるでしょうか、芝生に降りてきては、子供の落とした駄菓子などを熱心に探してはついばんでいます。

年の頃なら七十歳くらいでしょうか、スーパーの袋に入れた食パンのミミをつかみ出して、頭上高く放り投げます。すると、近くの木のてっぺんに止まっていたトンビが舞い降りてきて、上手にパンを嘴でキャッチします。地面に落ちたパンはカラスが地面に降りてついばみます。

「あなたは、カラスが害鳥だと知っていて餌を与えているんですか?」私は、老人に近づいて行き、単刀直入に聞きました。すると、「カラスに餌をやってはいない。トンビにやってるんだ。」という無愛想な返事です。いきなり、自分が楽しんでいるところに、不躾な質問を浴びせてこられた老人は、怒ったような表情に変わりましたが、私は構わず、「先ほどから見ていると、おこぼれを狙ってカラスが何羽も降りてきているではないですか。あなたはカラスがどれほど町民に迷惑をかけているのか知ってますか?」

老人は、意外だと言う顔をしながらも、不機嫌さはますます増長し、ブスっとしています。私は、追い討ちを掛けるつもりで、「町内あちこちのゴミの集積場は、カラスの被害にみんなで悲鳴を上げているんですよ。うちの近くの電柱にはカラスが巣を作り、漏電になりかけたこともあるんです。あなたは、そういう害鳥に餌を与えているんです。」

老人は、「うるさいなあ・・・」と言う表情で、「ハイハイ、じゃあ止めますよ。どうもすみませんでした。だけどね、西の山間部に行けば、トンビに餌付けをしている人たちがいて、みんなで餌を投げ与えるところがあるんだぞ。」とすごんできました。

「じゃあ、あなたもそこに行って思う存分餌付けをすればいいじゃないですか。ここでするのはすぐ止めてください。しかし、私はそもそも野生の鳥を餌付けするのには反対ですがね。」私がそう言うと、老人はプイっと帰っていきました。

先日の日曜日、そこを通りかかったら、同じ老人がパンを空高く投げている姿が見えました。

明るい北朝鮮の今・・

2015年02月04日 | 日記
今日の昼休みにYAHOOニュースを見ていると、今年の四月からシンガポールでは、夜間の公共の場で酒類の販売と飲酒を禁止する法案を可決した、という国際ニュースが目に留まった。シンガポールの国民の大半もこれを支持しているそうである。

私は数年前、一年弱シンガポールに赴任していたが、夜はほとんど出歩かなかったので、どの程度公共の場で飲酒する人がいたのかなど、まったく分からない。しかし、こういう法案を通すということは、余程飲酒による事故や事件が頻発していたのだろう。

そう言えば、シンガポールでは女性の社会進出が活発で、子供や年寄りの面倒はメイドが担当する。そして、そのメイドのほとんどは外国人労働者で、多くはフィリピン人である。週末になるとそのフィリピン人が集まる場所があちこちにあって、それなら私もよく目にした。もともとおしゃべり好きな国民性も手伝って、彼女たちは何時間でも喋り続ける。

同じように、インド系の労働者や、スリランカ系の労働者など、それぞれに集まる場所が決ってるようで、飛び交う言葉が耳にしたこともない言葉なので、ああこの人達は外国人労働者なのだなと、すぐに察しがつくのである。

恐らく、そういう外国人労働者たちが不穏な動きをするのを抑えるための策として、夜間の公共の場での飲酒を禁ずる法案を通したのだろう。人口がたかだか500万人の小国だが、マレー系、インド系、フィリピン、インドネシア、それに欧米系白人・黒人と、典型的な多民族国家といえる。

統治しているのは、人口の75%を占める華僑の末裔たちで、ほとんど独裁国家といっても良い政治を行っているため、別名「明るい北朝鮮」と呼ばれているのは有名である。為政者は、他民族を扱うには、罪と罰を明確に決め、確実に容赦なく実行するしかないと分かっているので、外国人といえども犯罪者には容赦しないことは昔から有名である。

電車やバスの中、公園や駅の構内など国中にやってはいけないこと、守らなければいけないこと、犯したらどうなるか等々、うんざりするほど表示がされている。ファイン・カントリーと呼ばれるのは、すばらしい国という意味もあるが、fine には別に「罰金」という意味もあり、シンガポールは罰金の国、と嫌味を掛けて呼ぶのである。

日本の若者たちも性別を問わずたくさん働いているが、私が赴任中目にした若者達は、不思議に覇気が無く、暗い感じがした。特に女性はみんな能面のような表情で、まったく愛嬌がないのが共通点だったのは、今でも理由がわからない。

日本の政治家の中には、シンガポールを一つのモデルのように捉えて、敢行立国や外国人労働者政策の参考にしたがるようだが、私は心から反対したい。日本があんな殺伐とした国になるのは大反対である。むしろ、他山の石として、ああはなりたくないという見方で考えるべきだと思う。

幼児に英語を学ばせる愚

2015年02月03日 | 日記
小学生から英語を勉強することには絶対反対です。しかし、世の中はすでにそっちの方向に進んでいるようで、私がいくら反対しようがまったく影響しません。

テレビでも子供相手の英語教室のCMが、これでもかと垂れ流され、街中には子供対象の英語教室の看板が目立つようになりました。しかし、それでも私は今の風潮にはまったく違和感を禁じ得ません。絶対に反対です。

もうかなり前のことですが、NHKの特集番組で、どこかの幼児英語教育に熱心な母子のことを紹介していました。日本に住む純粋な日本人の親子であるにもかかわらず、母は幼い娘に英会話学校に通わせ、家に帰ってきてからも英語で語りかけていました。つまり、親子の会話は英語で通しているようでした。

確かにその娘さんは英語が早い時期に英語を話せるようになったでしょうが、果たして大人になった彼女はどのような大人に育っているか、これにはとても興味が湧きます。恐らく、外国に住んでいるか、少なくとも英語を使う職業に就いて、順風満帆に暮らしているのかも知れませんが、私はその確率は低いと思っています。

つまり、幼いときの英語教育は何か彼女に悪影響を与えているのではないかと思います。人格を創るうえで大切なのは母国語です。そして、母国の文化や伝統は言葉がまともに話せないと理解できませんし、身につきません。

外国文化や外人に強いコンプレックスを持つ親ほど我が子の英語学習に熱心になるような傾向があると思います。英語教室に通い始めた子供が、家に帰ってきて外人みたいな発音であいさつをしたのを見て、涙を流さんばかりに感動しているお父さんを見たことがあります。

私の初孫は4歳ですが、最近はクレヨンで「おじいちゃんへ」と自分で書いた手紙をくれます。中には何も入っていないのですが、何でも今幼稚園でこういう遊びが流行っているのだそうです。お節介だといわれるのは嫌ですので、孫の教育のことは何も口には出しませんが、息子夫婦にはまず日本語をしっかりと教えてやって欲しいと念願する「おじいちゃん」なのです。