Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#173 天才二塁手 

2011年06月22日 | 1981 年 
   


二塁手はポジション的に地味な扱いを受けがちですが、高木守道は攻守ともに一流選手でした。
特に併殺プレーのグラブトスを初めて見た時は度肝を抜かれました。それまでにもグラブトスを
見た事は有りましたが、高木のそれはグラブ&バックトスだったからです。



「タイム」…新監督として乗り込んだ昭和44年のキャンプで水原はチームプレーの練習を中断させて高木を呼び寄せた。
内野手出身の水原にとっても高木のバックトスには驚いたのだ。「なぁモリミチ、やっぱりバックトスは右手でやった方が
確実じゃないか?」「いえ監督、併殺プレーではコンマ1秒でも削る必要があるんです。大丈夫です」ズバリと言い切った
高木の言葉に水原も黙って引き下がった。なんと言う自信だろうか、「俺にしか出来ないプレーをする」この信念が名人・
二塁手の支えだった。「バックトスは日系2世のカールトン・半田さん(昭和36年に南海から移籍、その後に内野コーチを
務めた)から教わったんです。日本では打球は全て身体の正面で捕れと教えますが半田さんから教わったのは臨機応変
固定観念に囚われる必要は無い。ファンが見て『これこそプロのプレー』と思わせなければ一流とは言えない」とね。

高木の天性の勘やセンスを最初に見抜いたのは岐阜商の野球部長だった。「身体は大きくないし中学校からの推薦も無く
目立たない存在だった。でも何をやらせても群を抜いていたし変な癖が全く無かった。自然にスクスクと育った天才児と思い
ましたね」野球部長の言葉通り、高木は1年生ながら名門・岐阜商の正二塁手になった。もう一人その能力を見抜いたのが
当時、立教大4年の長嶋だった。岐阜商OBの丹羽捕手と共にコーチにやって来た長嶋は高木少年に「君は抜群のセンスを
持ってるゾ」と声を掛けたそうで、高木はそれを心の支えにして苦しい練習にも耐えたと懐述している。

しかし名人・職人にありがちなムラッ気が高木にもあった。誰でも捕れる何でもないゴロをよくファンブルしトンネルもした。
「何となく気が乗らない日」はプレーが雑になったと後悔している。高木ほどの名手がダイアモンドグラブ賞を3回しか受賞
していないのはムラッ気が災いしていたのだろう。一方の打撃も高卒1年目のプロ初打席で本塁打を放つなど若い頃から
光るモノがあった。当時の杉下監督は「1年生がベテラン選手でも打てない低めを苦も無く打ってる。今のままでも3割は
黙っていても打てる。足と器用さを磨けば首位打者も夢じゃない」と絶賛した。

そんな順風満帆なプロ生活を送っていた高木に試練が襲って来た。昭和43年5月28日の巨人戦、堀内投手の投球を
左側頭部に受けた。頭部挫傷で即入院、全治まで2ヶ月かかった。 その後、首のムチ打ち症状が何度か起きたのも
この時の後遺症だ。「自分ではボールは怖くないと思っているのに、人の目には腰が引けているように映っていたそうで
あぁ、俺も結局その程度の選手なのか・・」と一時は成績も精彩を欠いたが、それまでのアッパースイングからダウンに
変えて昭和48年には元の成績に戻った。生涯最良の年は昭和49年で、1番・二塁手として牽引し20年ぶりの優勝に
貢献した。「球場でファンに胴上げされた時は初めて声をあげて泣いたなぁ」 10月13日、高木33歳の秋だった。

その翌日、高木は自宅で長嶋引退のニュースにもう一度泣いたという。「プロ野球の英雄がグラウンドを去る日に戦う
相手の中日にレギュラー選手が一人もいないのは失礼じゃないか。優勝パレードを欠席してでも後楽園に行きたい」と
球団に掛け合うが一蹴された高木は、その夜に長嶋宅に詫びの電話をしたという。現役生活の中で最大の悔いだそうだ。


ちなみにプロ野球人生での悔いは長嶋と監督同士として戦った、1994年10月8日の「10.8 リーグ
同率優勝決定戦」で槙原・斉藤・桑田の3本柱を使い切った長嶋とは対照的に、エース格の山本昌や
郭源治を使わずに敗れた事だと『中日ドラゴンズ70年史』のOB座談会の中で述べています。

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