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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 501 実力派5人衆 ②

2017年10月18日 | 1985 年 



ヒットは打たせてやるが点はやらない。円熟タカマサは肉を斬らせて骨を断つ
鈴木投手が珍記録を作った。25連続 " 被単打 " 。つまり打たれた安打が連続で単打、シングルヒットであったという事。6月8日の巨人戦の4回から始まった。4回以降が3安打。15日のヤクルト戦は大量16安打(3失点)を許したが全て単打だった。25日の巨人戦は5安打。ここまで連続24安打全てシングルヒット。27日の阪神戦で記録はストップしたが計25連続被単打の珍記録を樹立した。それを知らされた鈴木投手は「25本も打たれたの?」と先ずは驚き、続けて「若い時なら途中でムキになって大きいのを2~3発は喰らっていただろうね。我ながら大人になった、という事かな」と感想を述べた。

投手にとって安打とは肉を斬られたも同然だろう。だがこの間の防御率は 1.30 と深手は負っていない。低迷する中日にありながら黙々と踏ん張る32歳のベテラン投手が作った記録は、そっくりそのまま鈴木投手の生き様でもある。「若い頃は力勝負をして抑えれば勝ち、打たれれば負けと考えていた(鈴木)」と振り返る。そんな鈴木投手が転機を迎えたのは昭和57年5月23日の大洋戦だった。当時は火消し役で名を売っていたが長崎選手に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴び、近藤監督(現大洋監督)から抑え役失格を宣告された。「あの年は開幕してもヒジ痛が酷くてようやく投げられるようになって、さぁこれからと前向きになれた矢先の一発だったから俺の野球人生も終わったと思ったね」と当時を懐かしむ。

その後1ヶ月近くは病院通いが続いた。迎えた7月1日の巨人戦で先発する。期待されての起用ではなく、ローテーションの谷間で他に投手がいなかったのだ。しかしこれが二度目の転機となる。「ダメでもともと。失点しなければヒットは何本打たれても構わない」と開き直った。終わってみれば被安打5でプロ入り初の完封勝利のオマケ付きだった。鈴木投手の第二の投手人生はここから始まった。打たれても辛抱。血気盛んな若い頃ならそんな心境には至らなかったであろう。「野球は点取りゲーム。たとえ1イニングに3安打されて塁を埋められても後続を抑えてホームに還さなければ俺の勝ち。そう思ったら気が楽になった(鈴木)」と。

ただし辛抱と言ってもジッと奥に引っ込んでいる訳ではない。打者に向かって行く気力は前面に押し出さなければならない。鈴木投手は捕手から、或いは球審からの返球を受け取る際は必ず一歩前に出る。それは彼なりの打者に向かう気力の発露なのだ。「この記録はこうした全ての結果じゃないですかね」と鈴木投手は静かに振り返る。低迷するチームにあって孤軍奮闘する鈴木投手。「だってね、プロ13年目の今年に借金をして鉄筋コンクリートの三階建ての家を買ったんだもの、1年でも長く投げなければならないじゃないですか。人生でも失点はなるべくしたくないですから」と苦笑して話す言葉には表現できない程の重みがあった。



パ・リーグの静かなる "黒い旋風"。三冠王・落合もその脅威に怯え始めた
三冠王への返り咲きを目指す落合選手(ロッテ)に真顔で「怖いのは近鉄の外人さん」と言わせた外人こそデービス選手だ。落合にライバルになると名指しされた当のデービスは「そうかい。オチアイがそんな事を言ってくれたのか、嬉しいね。日本でナンバーワンの打者に褒めてもらえるなんて光栄だね」とウインクした。デービスは実に不思議な選手だ。普通の外人選手ならオーバーアクションで自分の存在価値を誇るものだがデービスは違ってタイトルやお金には無頓着なのだ。「野球は楽しんでやるもんだ。お金やタイトルなんか二の次だよ。俺が日本に来たのもお金の為じゃない、好きな野球がやれるから来たんだ」と話す。

昨季、シーズン途中で退団・帰国したマネー選手の補充として緊急来日したデービスだが過去それなりの経歴を誇る。ブリュワーズ➡フィリーズ➡パイレーツ➡ブルージェイズと渡り歩いてきたバリバリの大リーガー。来日2年目の今季は打撃3部門で好位置をキープ。今の所マスコミに大騒ぎされず目立たないが落合が密かに恐れる存在なのだ。母国では父と妹が弁護士として活躍している裕福な家の生まれだが「俺だけが家族の中で異色。でも野球を仕事にしたのは間違ってなかったと思っている(デービス)」と笑う。「大好きな野球が面白くなくなったらアメリカに帰るだけ。不動産のビジネスでもやるさ」とひょうひょうと話す姿は日本流に言えば無欲の快進撃という所か。

しかし野球に関しての取り組み方は緻密だ。「俺の中では投手という生き物は必ず同じ攻め方をしてくると考えている。途中の攻め方は色々でも最後は同じように攻めてくる。それを待っていれば打てる確率が増すのさ」と外人らしからぬ計算と準備で攻略法を練り上げる。対戦した投手の特徴や配球をメモして財産にしている。不名誉な退場第1号になってしまった場面もそうだった。6月20日のロッテ戦の6回、村田投手がカウント2-0から投じた3球目をデービスは悠然と見送った。村田投手の配球を調べ尽した結果、投手有利のカウントでは必ず誘い球を投げてくると分かったからだ。3球目は確かにボール気味だったが判定はストライク。判定に不服なデービスは思わず球審の胸を突いて退場となってしまった。

こと野球に対しては熱くなりがちなデービスだがチームメイトとの仲は陽気な性格とあってバッチリで退場処分となった時もデービスを批判する選手は皆無だった。特に大石選手との仲の良さは格別で「ヘ~イ、ダイ」「何だいディック」と凸凹コンビは顔を合わせると野球談議に花を咲かせる。また自軍の投手陣にも気づいた事を気軽にアドバイスするなどチーム愛も持ち合わせている。無欲で少し変わった性格の持ち主だがタイトル争いについて問われると「夏を過ぎて9月頃に今のようなポジションにいたら狙ってみるか」と本音を漏らしたが、パ・リーグを席捲する " 黒い旋風 " は最後までバットマンレースの中心に鎮座していそうだ。



投げれば投げるほど良くなる驚異のスタミナ。いま20勝という三度目の奇跡に挑む
西武を追う上田阪急の大黒柱は今や佐藤投手。左ヒザ痛の影響で万全でない山田投手や不調で出遅れている昨季の20勝投手・今井投手の穴を補って余りある大活躍、文字通りフル回転の働きだ。「ヨシ(佐藤)はピッチングというものを完全に覚えたね。カーブを使う、つまり抜く事を覚えた。これ迄のただ力いっぱい投げて球が走らなければ今日はオシマイ、という投手から脱皮できた」と語るのは梶本投手コーチ。ハーラーダービー単独トップを突っ走るのも実は当然なのかもしれない。6月24日の南海戦は大量20点の援護があったが気を緩める事なく2失点完投で12勝目。これで9連勝、そのうち7完投と安定した投球で4月29日の近鉄戦の敗戦以来2ヶ月も負け知らずだ。

「ウチの打線なら前半さえ頑張っていたら必ず点を取ってくれる」と佐藤は先ずは打線への信頼を挙げる。例えば6月8日の南海戦で佐藤は味方のエラーで初回に1失点した。南海の先発は藤本修投手で6回まで阪急打線をノーヒットの快投を見せたが佐藤も根負けせず2回以降は無失点に抑えていた。7回に阪急打線が遂に藤本を攻略して佐藤は勝ち投手になった。続く15日のロッテ戦では台湾から新加入した荘投手と息詰まる投手戦を演じ、熱投160球の末の延長10回裏に福本選手のサヨナラ本塁打で劇的勝利を得た。上田監督が言うには「投げれば投げるほど良くなる男」だそうだ。無類のスタミナと忍耐力が佐藤の武器である。

この武器は故郷の北海道・奥尻島の厳しく豊かな自然が育んだ。「子供の頃から暇さえあれば小舟を漕いでアワビやワカメを採っていた。漁師をしていた親父の手伝いもしていた。嫌な時もあったけどまぁ楽しかったな」と懐かしそうに話す。夏の海が佐藤の強靭な身体を作り、厳しい冬の荒海が粘り抜く精神を植え付けた。高校、大学を経てプロ入りした後も順風満帆ではなかった。最大の危機は昭和56年の自主トレでギックリ腰になり1年を棒に振った挙げ句、翌年には任意引退を言い渡された。実際は治療に専念する為の措置だったのだが本人にとっては先の見通しが立たない絶望状態だった。その後奇跡の復活(4勝13S)を遂げ、昨季は抑え役から先発に転向し17勝と二度目の奇跡を起こしたが今季は20勝という三度目の奇跡を目指す。

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