Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#49 名投手列伝 ③

2009年07月25日 | 1979 年 
今回は 「東の尾崎」・「西の池永」と称された池永正明投手です。歳は尾崎が2つ上でしたが
ほぼ同時期に活躍しました。尾崎は全盛時の5年間で98勝、池永は99勝 2人とも1年目に
20勝するなどライバルとして競い合うように成長しました。

池永はピッチング同様 その言動も"高校生離れ"していました。夏の甲子園大会で試合後の
インタビューで愚問を発した記者を睨みつけて 「そねぇなこと、答えんでも分かるじゃろ」とか
自ら二塁打した後に記者から「良く打ったね」と言われて「五番を打っとるけん、当たり前じゃ」
こうした応対に記者クラブから主催の朝日新聞社に対して「あの生意気さは度が過ぎるのでは
ないか」との厳重注意の申し入れがあった程でした。超高校級投手だった池永の不幸は野球
への適応性だけが進み過ぎて、社会へのそれが欠落してしまっていたことでした。

高校3年 夏の地方予選で敗退した池永は、自ら上京して各球団を訪問し売り込みをしました。
巨人・川上、大洋・三原、南海・鶴岡といった監督に直に会い「ボクを幾らで買いますか?」と
聞いて廻ったそうです。その時すでに西鉄が3千万円を提示していて、それを超える額を要求
しましたが「高校生に多額の契約金は出せない(巨人)」「生意気な態度が気に入らない(大洋)」
「3千万円は無理(南海)」となり西鉄入りが決まりました。実はこの3千万円の他に、学校筋・
野球部関係者・地元の有力者・親族などへの説得や謝礼で合計6千万円以上かかったそうで
西鉄の西亦球団社長にドラフト制の強行提案を決意させる引き金になったのは有名な話です。

順風満帆なプロ野球人生に黒い霧が蔽ったのは昭和44年 暮のことでした。池永本人によると
「先輩の田中投手に100万円を押し付けられ、返すことも出来ず預かっていただけ・・」との事で
「この金が八百長の胴元から出ていたとは知らなかった」と釈明しましたが昭和45年5月25日に
球界からの永久追放処分を受けました。 同じく追放処分を受けた選手からは池永を擁護する
発言がありましたが、池永を喚問して事情聴取した委員会では「たとえ八百長をやってなくても
あの ふてぶてしい、生意気な態度はプロ野球選手にふさわしくない」との声が多数でした。あの
夏の甲子園で顰蹙をかった少年のままだったようです・・・

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