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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#323 十大秘話 ① 選手の特権

2014年05月21日 | 1983 年 



先日、都内で開かれたプロ野球実行委員会は「昭和27年以降プロ入りした選手にも10年選手制度を適用してもらいたい」と言う選手会の要望を否決し、「10年選手制度を復活してもその特権を行使できる者はごく限られた少人数に過ぎず、寧ろ残りの大部分の選手を含めた全体の将来を考えるべきで現在の養老年金制度の充実を図る方が有益である」と選手会に回答した。ちなみに資格取得ならなかった主な選手を挙げると昭和27年入団の中西(西鉄)、山内(大毎)、森下(南海)、町田(国鉄)、備前(広島)、昭和28年入団には豊田(西鉄)、藤尾(巨人)、小山・吉田・三宅(いずれも阪神)ら全日本クラスがズラリと顔を並べる。【 週刊ベースボール・昭和33年1月21日号『10年選手制度をめぐって』 】


簡潔に言えば10年間プロ野球界に在籍した選手にボーナス或いは移籍の自由を与える「10年選手制度」を巡って最大の騒動となったのが阪神・田宮謙二郎の場合だった。日大から投手として入団して「あと1人でノーヒット・ノーラン」など非凡な所を見せた田宮だったが当時の松木謙治郎監督に打者転向を命じられた。転向後は中心打者に成長し昭和33年にプロ入りした長嶋の新人での三冠王を阻止する首位打者を獲得しプロの面子を保った。その昭和33年に10年選手の資格を得た田宮を複数の球団が獲得に動いた。しかし田宮は阪神が好きで「タイガースの田宮」で野球人生を全うしようと考えていた。だが阪神球団の田宮に対する評価は低かった。

昭和31年の契約更改で税込み13万円から手取り20万円に昇給したのが阪神在籍中唯一の大幅アップ。翌32年、首位打者獲得はならなかったものの打率2位の好成績でも7千円アップの提示額に普段はお金に無頓着な田宮も保留したが結局1万円アップ止まり。翌年には10年選手の資格を取得する事は分かっていた筈で引き留める気が有ったなら7千円などとみみっちい提示はしなかっただろう。首位打者獲得で田宮の株はグンと跳ね上がった。断っておくが田宮自身は金色夜叉の間貫一ではない。少しでも条件の良い球団を選ぼうとしなかったどころか余りに好条件だと金で動いたと邪推されるのを嫌い逆に尻込みしてしまった。こんな欲の無い選手は今後もう現れないかもしれない。【1月21日号『田宮争奪戦大詰めの三転』】

5球団による烈しい争奪戦の末、田宮は大毎オリオンズを選んだ。ゴールデンルーキー・長嶋の一挙手一投足に沸いた昭和33年は野武士集団・西鉄ライオンズが圧倒的な強さを見せつけた最後の年であり、日生球場や平和台球場に照明設備が完備されて12球団全ての本拠地球場でナイターが行われ、一時代を築いた川上哲治、藤村富美男、西沢道夫、小鶴誠らが次々と引退を表明するなど時代の流れを感じさせる年でもあった。

田宮騒動が大きくなり始めた時期と同じくして「ザ・マン」ことスタン・ミュージアルがいたセントルイス・カージナルスが親善野球の為に来日した。大リーグ関係者は日米野球そっちのけで田宮の去就に大騒ぎをする日本のマスコミに「何事か?」と問い、10年選手制度を知ると「選手にとっては魅力的な制度」と関心を示した。今や大リーグ経営者を震撼させているフリーエージェント制は実はこの時に端を発しているのでは、と考える関係者は多い。日本ではこの田宮騒動を契機に10年選手制度を廃止したが、大リーグはこの制度を参考に6年間プレーすれば移籍の自由が与えられる今のシステムを構築した…とすれば10年選手制度とは何と罪作りなモノだったか。



 ※ 参照: 【 # 287 風雲録 ①…A級10年選手  】  


       

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