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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 418 江夏の21球 ②

2016年03月16日 | 1984 年 



「何しとるんじゃ、打者に集中せい!」サチ(衣笠)の一言で我に返った。佐々木にカウント2-1からの3球目は高目のボール気味のカーブをファールしてカウントは変わらず。4球目は直球で誘うが見送られ2-2の平行カウント。続く5球目、内角低目にボールになるカーブで空振り三振に仕留め、ようやく一死。ここで再びサチが走り寄る。今度はヨシヒコ(高橋慶)も来て一息ついた。次打者は石渡(現巨人)、小技も得意な選手でスクイズも警戒しなければならない。初球のカーブを石渡は悠然と見送る。「悠然」と言うより漠然と打席で立っているという感じだった。じっくり球筋を見極めるとか狙い球が外れたとかではなくベンチからの指示を待っているかのように。水沼のサインは2球目もカーブ。投球動作に入った瞬間、石渡がバントの姿勢になった。と同時に水沼は立ち上がった。「来たか!」・・カーブの握りのままウエストボールを投げざるを得なかった。石渡もウエストボールが変化するとは思っていなかったのだろう、球は曲がり落ちてバットの下を通り過ぎて行った。

スクイズ失敗。三塁走者の藤瀬は三・本間に挟まれタッチアウト。二死二・三塁と近鉄圧倒的有利の場面から一転した。それにしても我ながらよくもカーブの握りでウエストボールが投げられたと感心する。とてもその瞬間を理屈・理論づけなど出来ないが思い当たる事が一つある。カネさん(金田正一氏)に教わったのだが、投げようとして打者に球種を読まれていると感じたら投げる球を瞬時に変えられるようになって一人前の投手や、とアドバイスされ自分なりに研究していた。球種だけでなく腕がトップの位置にあっても打者の気配によって投げるコースを変えられるとカネさんは豪語していた。それをカネさんは「間」と表現していたが若造だったワシは頭では理解出来ても実践する芸当は持ち合わせていなかった。しかし長い事やっているうちに時折本能的にそういう事をしている自分に気がついた。カネさんが言っていたのはコレか、と得心がいくようになった。それが一番大事な瞬間に出た。つくづく積み重ねというものは大切であると実感した。

余り語られていないが水沼のキャッチングは見事であった。石渡のバントの構えに反応して慌てて立ち上がった時点で恐らく水沼は自分がカーブを要求した事など頭から消えていただろう。石渡がウエストボールが予期せぬカーブだった事に対応出来なかったように水沼も球をファンブルしてもおかしくなかった。しかも三塁走者の藤瀬は猛ダッシュで本塁寸前まで到達していたので水沼が少しでもミスをしていたら間違いなく同点になっていただろう。水沼の冷静沈着なプレーがあったからこその結果だった。しかしまだ二死二・三塁とピンチが続く。ここで再びサチが来て「まだ試合は終わっとらん。気を抜くな」とアドバイス。改めて気持ちを切り替えて石渡に相対した。ここまで来ると前述した「流れ・勢い」は近鉄から広島へ移っていた。勝負球はカーブと決めていた。勝利の瞬間、何をどうしたかは憶えていない。後で映像を見るとピョンピョン飛び跳ねたり水沼に抱き付いたりしているが全く記憶がない。身体の芯から喜び、感動した時はそういうものなのかもしれない。

日本シリーズ終了後にも嬉しい事があった。ペナントレースのMVPに選出されたのだ。これは本当に嬉しかった。自分自身の喜びだけではなく救援投手という役割に最高の栄誉が与えられた事が嬉しかったのだ。従来の受賞者は優勝チームの本塁打王とか首位打者、投手で言えば20勝投手などが主だった。選手も世間もMVPとはそういうモノだと思っていた所にワシのような云わば " 縁の下の力持ち " 的な選手に光が当てられたのが嬉しかった。若かりし頃のワシは「投手は先発・完投こそ生き甲斐。リリーフ役など真っ平御免」と言い続けていたが、阪神から移籍した南海の監督だった野村さんに「江夏よ、プロ野球界に革命を起こしてみないか」と説得され嫌々ながら救援投手を務める事となった。この年にMVP受賞の知らせを聞いた時に真っ先に思ったのが野村さんのあの言葉だった。「あぁ、ホンマに革命を起こしたんやな」・・充実した年だった。

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