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Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#52 続・スパイ行為 ②

2009年08月06日 | 1979 年 
   …前回の続き

現役監督の発言はインパクトが強く 開幕前に開かれたセ・リーグ監督会議で初めてスパイ行為が
取り上げられました。例年なら1時間ほどで散会となる、形式的な定例会議ですが今回は様相が
違っていました。「充実しきった話し合いの場」との事でメインテーマは「スパイ活動」でターゲットは
広島東洋カープでした。広島は当然 スパイ活動を否定しましたが広島に在籍していた選手の話が
紹介されました。 スコアボードから望遠鏡で捕手のサインを見て打者に伝達、その方法は急所を
保護するカップに信号の受信装置が付いていて、電流の刺激で球種を教えるというものでした。ただ
全選手がその装置を付けているのではなく中心打者だけだったそうです。この方法には親会社の
「マツダ」の技術が応用されていたそうです。

巨人はサインが盗まれていると判断して、次の試合ではサインを逆にしました。すると ある打者は
普段なら 何の苦もなく避けられる内角球をモロに体に受けました。「次はカーブ」で踏み込んだ所に
シュートが来て死球。ヤクルトは広島対策で乱数表を使うようになり広岡監督は 「試合時間は増々
延びる、でも広島戦は こちらのサインは筒抜けになる、使わざるをえない」 スパイ活動を無くすには
全面禁止にして違反球団には重いペナルティを課すしかないと提言しました。

この騒ぎの発端となったパ・リーグでは南海と阪急が特に盛んだったそうで、野村監督は大阪球場の
至る所に秘密兵器を設置してフルに活用していました。その野村の下でコーチをしていたブレーザーが
広島に移籍しノウハウを伝えたというのが定説になっていました。ブレーザーがこの年 阪神の監督に
就任したとたん、甲子園球場の銀傘の最前部にビデオカメラが設置されました。フォーメーションを研究
する為で他意は無いとしていますが他チームの監督は誰一人 信じていませんでした。



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#51 続・スパイ行為 

2009年08月02日 | 1979 年 
以前 スパイ行為についての記事を紹介しました。「暗黙の了解」や「噂の域」といった内容でしたが
今回は現役の監督がスパイ行為を認めた記事です。スパイ行為の元祖と言われていた野村監督が
解任された後に就任した南海・広瀬監督が実情を吐露しています。


聞き手 「広瀬監督が"泥まみれ野球"を標榜したのは野村カラーを払拭するのが狙いでしたか?」
広瀬  「ええ、野村さんが目指していたシンキング・ベースボールは正しかったんです。ただ、それがある時から間違った方向へ
     向かったきらいが、ボクには感じられたものですからね」
聞き手 「間違った方向とは?」
広瀬  「しょせん野球とは本来、チカラとチカラのぶつかり合いだと思うんです。チカラの劣るほうが精進してレベルアップするのが
     野球というか勝負事でしょ。そこに"余分な情報"が入って来ることで伸びるモノも伸びなくなるんです。自分の頭で状況を
     判断しなくても"次はカーブが来る"と分かってしまっては考える事を止めてしまいます。他人が前もって教えてくれるのなら
     誰だって苦労して相手投手のデータや癖などを研究しませんよ。それを断ち切る為の"泥まみれ野球"でした」
聞き手 「でも南海だけじゃないですよね?」
広瀬  「えぇ、まぁ…(苦笑い)。でもね、大人のチームなら構わんのですよ 例えば阪急なんかは選手が情報を使いこなせるだけの
     力量を持ってますから。ウチの場合は選手に、こなすだけのチカラも無いのに情報を与えるから そればかりに頼るようになる。
     記録を調べれば分かりますよ、ホームとビジターとの成績に差が有るのが。ビジターでは覗けませんからね」
聞き手 「そんなに差が出ましたかね」
広瀬  「ええ。だからシンキング・ベースボールと言っても自分が考えるんじゃなく、人が教えてくれると言うか誤魔化しみたいな事が
     優先してしまったら、もうそれは本当の野球とは言えないと思うんですよ。こういう話は内幕を暴露する事になるとしたら非常に
     不味いかもしれませんけど」


球界ではタブーであるスパイ行為をここまでハッキリと言及した事は、後にも先にも この時だけでしょう。
南海の「野村憎し」がこのような発言に繋がっていたのかもしれませんが波紋は予想以上に大きく広がり
これまで見て見ぬふりをしてきたプロ野球界も今回は動きました。  …つづく



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#50 江川・三角トレード指令

2009年07月29日 | 1979 年 
「空白の一日」から膠着状態だった江川問題に動きが出始めました。セ・リーグは巨人から
出された江川の選手登録申請を却下。対する巨人はドラフトをボイコットし「重大な決意」を
チラつかせつつプロ野球機構側に江川との契約を認めるよう提訴、この提訴に対する裁定が
コミッショナーにより下されました。


裁定主文・・・昭和53年11月21日に読売興業株式会社東京読売巨人軍が江川卓選手と成した選手契約について同日
         セントラル野球連盟会長が、その承認を却下したのは野球協約に違反せず撤回の必要性を認めない

裁定理由・・・提訴球団は江川卓選手と成した選手契約の有効性について種々主張するが、いずれも妥当性を欠く
         一方的かつ歪曲した解釈に立脚する誤った主張に過ぎず、その主張を認める余地は無い …以下略


コミッショナー裁定により江川の交渉権は阪神にあることが確定しました。「明快」「胸のすく裁定」
「さすが明治人の気骨」 等々 賞賛されました。しかし事態は一夜にして一転、前日には厳然と
野球協約の盲点を突いた巨人の非をたしなめた同じ人が今度は江川を一度阪神と契約させた後
巨人にトレードせよとのコミッショナー"指令"を出しました。この指令は前日の裁定の続きなのか
それとも新たな指示なのかでまた揉めたのでした。"裁定"は文書化されましたが、"指令"は口頭
小津阪神球団社長も「裁定なら従う」と発言。機構側は文書に残すことを避けてコミッショナーによる
"強い要望"という表現を使いました。

誰が見ても巨人の協約破り・横暴ぶりは明らかなのに他の11球団は結束して巨人と対決することは
ありませんでした。巨人の新リーグ構想に追随する球団があったそうです。それも2~3球団ではなく
相当数の球団が同調したそうです。なんとも情けない話ですが脅せば無理が通る事が分かった巨人は
その後、FA制度・逆指名など自らに都合の良い"改正"を成し遂げていくことになります。



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#49 名投手列伝 ③

2009年07月25日 | 1979 年 
今回は 「東の尾崎」・「西の池永」と称された池永正明投手です。歳は尾崎が2つ上でしたが
ほぼ同時期に活躍しました。尾崎は全盛時の5年間で98勝、池永は99勝 2人とも1年目に
20勝するなどライバルとして競い合うように成長しました。

池永はピッチング同様 その言動も"高校生離れ"していました。夏の甲子園大会で試合後の
インタビューで愚問を発した記者を睨みつけて 「そねぇなこと、答えんでも分かるじゃろ」とか
自ら二塁打した後に記者から「良く打ったね」と言われて「五番を打っとるけん、当たり前じゃ」
こうした応対に記者クラブから主催の朝日新聞社に対して「あの生意気さは度が過ぎるのでは
ないか」との厳重注意の申し入れがあった程でした。超高校級投手だった池永の不幸は野球
への適応性だけが進み過ぎて、社会へのそれが欠落してしまっていたことでした。

高校3年 夏の地方予選で敗退した池永は、自ら上京して各球団を訪問し売り込みをしました。
巨人・川上、大洋・三原、南海・鶴岡といった監督に直に会い「ボクを幾らで買いますか?」と
聞いて廻ったそうです。その時すでに西鉄が3千万円を提示していて、それを超える額を要求
しましたが「高校生に多額の契約金は出せない(巨人)」「生意気な態度が気に入らない(大洋)」
「3千万円は無理(南海)」となり西鉄入りが決まりました。実はこの3千万円の他に、学校筋・
野球部関係者・地元の有力者・親族などへの説得や謝礼で合計6千万円以上かかったそうで
西鉄の西亦球団社長にドラフト制の強行提案を決意させる引き金になったのは有名な話です。

順風満帆なプロ野球人生に黒い霧が蔽ったのは昭和44年 暮のことでした。池永本人によると
「先輩の田中投手に100万円を押し付けられ、返すことも出来ず預かっていただけ・・」との事で
「この金が八百長の胴元から出ていたとは知らなかった」と釈明しましたが昭和45年5月25日に
球界からの永久追放処分を受けました。 同じく追放処分を受けた選手からは池永を擁護する
発言がありましたが、池永を喚問して事情聴取した委員会では「たとえ八百長をやってなくても
あの ふてぶてしい、生意気な態度はプロ野球選手にふさわしくない」との声が多数でした。あの
夏の甲子園で顰蹙をかった少年のままだったようです・・・



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#48 大誤報

2009年07月21日 | 1979 年 
江川事件で揺れるプロ野球をめぐる報道で目立ちませんでしたが、週刊ベースボールでも誤報掲載が
ありました。江川事件の余波でドラフト会議をボイコットした巨人の選手補強は、ドラフト外で獲得する
しかありませんでした。当然、目ぼしい選手は残っておらず明治大の鹿取投手を獲得したくらいでした。

その巨人が松沼兄弟を2人揃って獲得したという情報に他球団のスカウトは驚きました。2人はドラフトで
指名されてもおかしくない逸材でしたが兄は早々に東京ガス残留を表明、弟も一時はプリンスホテルの
勧誘にグラつきましたが最後は兄のいる東京ガス入りを表明しました。兄は前年の都市対抗戦で1試合
17奪三振の大会記録を作り、年間ベストナインに選ばれる程の投手でしたが、弟と同じチームでプレーを
したいとの思いが強くスカウトも指名を断念しました。が、その間隙を突いたのが巨人で、ドラフト外なら
兄弟揃って同じチームに入れると説得して入団に漕ぎ着けたという記事を掲載しました。

当時のマスコミ報道は江川もしくは巨人に関連する事は重箱の隅をつつく様に、針小棒大に取り上げて
いました。例えば当時 江川はアディダス製のグローブを使用していました。アディダスと言えば今も昔も
3本ラインが象徴ですが、グローブにも3本ラインが入っていました。しかし野球規則でグローブに模様を
入れる事は禁止されています。厳密に言えばグローブに名前の刺繍を入れるのも禁止行為ですが警告を
受けた人は皆無。しかしマスコミは江川のグローブの3本ラインを指摘して違反行為だと大騒ぎしました。

記事でも松沼兄弟の件は「空白」をついた違反スレスレの行為だと批判しています。プロ・アマ間協定で
プロ1球団は、アマ1球団からは投手は1人しか獲得しないと取り決めていました。弟はまだ入社前だが
事実上は東京ガスの投手、だから今回の巨人の行為は限りなくクロに近いグレーだ!と主張しています。
余談になりますが、松沼兄弟は巨人ではなく西武へ逆転入団しました。週刊べ-スボールは翌週号で
経緯を説明し誤報の謝罪をしましたが、西武が東京ガスから事実上2人の投手を獲得する事については
一言も触れませんでした。



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