「火事だ!」
「一番奥の客室から火の手が上がったぞ!」
普段は優しい潮風が、この日は別人のように容赦なく吹き付けた。火の手は無常にも、風に煽られ更に激しくなる。
「誰か逃げ遅れた客はいないか? 全員無事か?」
乗員乗客皆が必死に消化に務める中、僕は必死にジュリーを探した。昨夜、それぞれの寝床へと分かれる前、ジュリーは小説を書き始めたところだと話していた。時々、うたた寝してしまい、手元のランプが消えてしまっていることもあると… 今夜の風だ。もし、ジュリーが寝入ってしまったあと、倒れでもしたら…
「ジュリーがいない!ジュリーが!」
僕がバケツの水を頭からかぶり、火の中へ走り出したその時、乗員の一人が叫んだ。
「まさか!あの火の中か?無理だ、ジョン!よせ!死ぬ気か⁉」
誰かが僕の腕を掴む。
「約束したんだ!諦めないと…ジュリー!」
僕は声にならない声でまくし立てた。諦めるもんか‼ 約束したんだ!君は死んじゃだめだ!君の家族が待ってる!かあさんが待ってる!だけど僕には誰もいない、君しかいない。身代わりになるなら僕だ! 僕は必死に僕の身体を抑えつける大人たちから逃れようともがいた。せわしなく行き来する乗員たちの姿が一瞬、ぼやけた。周囲の緊迫した声も次第に聴こえなくなっていく。
やがて身体がふわっと軽くなり、意識が遠のく中、火の中に倒れているジュリーが見えた。
「目を覚ませ!諦めるな、ジュリー!」
僕はありったけの声を張り上げた。ジュリー、頼むから目を覚ましてくれ、と…。辺りは火の海だった。熱い…頭からかぶった水も一瞬で乾ききっていく。
じっと動く気配が感じられなかったジュリーの身体が炎に包まれた中で微かに動いた気がした。彼女の指先が、ピクリと動くのが遠目にも感じられたのだ。僕の声が届いたのだろうか。
ほつほつと燃え上がる炎、飛び散る火の粉、パチパチと燃える音。すべてが一瞬止まった。時が止まった。僕の目の前に、一筋の黄金の道が出来たかと思うと、ジュリーが倒れている場所へと一直線に伸びていた。黄金の道…ジュリーがいつか行きたいと言った、黄金の島国、日本へと続く道のようにも思えた。眩いばかりの光が炎を押しのけるように広がった道。黄金の道を目にした瞬間、ジュリーの未来への道筋がここに示されたのだと僕は確信できた。天使は夢物語じゃない。本当に存在したんだ…。燃え盛る炎とは対照的に、黄金の道は静寂と希望に満ちていた。
「勇気ある若者よ。本当に自分の命と引き換えるのですか? 後悔はないのですか?」
誰だ⁉ 誰かが僕に話しかけてくる。すべてが静止画のように止まり、動いているのは自分自身と… 何処からか聴こえてくる声の主… もしや天からなのか…⁉
「あの娘は助からない、それがあの娘の運命なのです。」
声の主はいう。
「そんな運命、僕が変えてやる!あの子は…ジュリーは死んでは駄目なんだ!家族と再会して、夏休みを楽しく過ごして、それから…」
「それから?」
声の主は問う。
「それから…」
僕は天を仰いだ。キラキラと輝くのは…羽! 羽だ!すると、声の主は…天使なのか?
「どうか、あの娘を…ジュリーを連れて行かないで!ジュリーは作家になるんだ。多くの子供達に夢と希望を与える作品をこれから書いていくんだ。それが彼女の運命の筈なんだ。僕はすでに家族を失って独りぼっちなんだ。僕を救ってくれたのがジュリーなんだ…乗員たちに怒鳴られてばかりの僕に、いつだって笑顔を向けてくれた。落ちぶれた僕と一緒に船上パーティーでステップを踏んでくれさえした。彼女がいなければ、僕の心はとっくに死んでいたんだ。死んだまま生きていた。彼女は死ぬべきじゃない! こんなの、間違ってる…」
それまで羽以外はぼやけていた天使の表情が初めてはっきりと見えた。天使はにっこりとほほ笑んだのだ。どこかジュリーに似ていた。ジュリーと同じ、栗色の瞳。ジュリーと同じ笑顔が、僕の胸に静かに灯りをともしたようだった。
「お行きなさい。本来、人の運命は書き換えられないもの。しかし、あなたの強い想いに触れ、つい、姿を現してしまいました。本当にあなたの命と引き換えて良いのですね?」
僕は迷わず叫んだ。
「はい!」
人生で最も力強い、「はい!」だった筈だ。船員たちにも聞かせたかったよ、などと思うほど、この時の僕の心には余裕すら出て来た。いつも怒鳴られてばかりだったけど、人生の最期にやっとまともな仕事が出来そうだよ。乗員のおっちゃんたち… 少しは褒めてくれるかなぁ。
「分かりました」
天使の承諾を得て、僕は顔を上げた。ありがとう!と心の中で頷いた。
「では、お行きなさい、彼女の元へ」
天使の声は静かでありながら、どこか力強さを感じさせた。僕は走り出した。牛に追いかけられた時よりもずっと速く。全速力で。ジュリーのもとへ。
ジュリーを揺り動かした直後、僕の身体はふわりと軽くなり、宙を舞った。空へ…天へ…。ジュリーからどんどん離れていく僕の身体。だけど決して離れはしない、僕の心。
その先の記憶は…
僕には...
もはや、無かった。
ただ...眩い光に目を細めながらも、道の先にジュリーが前を向いて立ち上がる姿を思い描いた。