青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

遺書 25

2020-08-15 14:36:51 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




今日2020年8月15日は、75回目の「終戦記念日」です。

岡山県の北部、津山の西に、勝山町という町(現在は真庭市)があります。僕が小中学生の頃、そこに住むことが夢だったのです。国土地理院発行の五万分の一(二万五千分の一)地形図マニアだったと言ってよい僕は、その地形(緩やかな丘陵地帯)が、何とも魅力に感じていました。それに、蝶(特にゼフィルス)も沢山いそうです(実際、ずっと後になって、隣接した新見市の雑木林の山中にテントを張って、何日もゼフィルスの撮影をしていたこともあります)。

1945年8月13日、永井荷風(66歳)は、岡山駅で長蛇の列の切符売り場窓口に並び、勝山行の切符を入手しました。伯備線の新見で姫新線の津山経由姫路行きに乗り換え、勝山に疎開する谷崎潤一郎(59歳)を訪ねたのです。谷崎は、全財産を銀行から引き下ろし、特上の牛肉で荷風をもて成したそうです。荷風は岡山の田舎に疎開を考えていたらしいのですが、谷崎に迷惑をかけるのは心苦しいと、一度東京に戻ることにしました。そして8月15日、岡山駅に着く手前で、玉音放送を聴きます。

僕が生まれる、“たった”3年前の出来事です。

1962年は、終戦から17年目。5月14日に西宮ヨットハーバーから堀江憲一という青年(ジョニーと同じ年の24歳)が、“無許可”で太平洋に向けて出港しました。8月11日にサンフランシスコ湾に付き、翌12日に上陸、意外な大歓迎で、「終戦17年目の記念日」には取材攻勢を受けていたと思われます。日本にも、そのニュースが伝わり、本来なら「避難轟轟」なのでしょうが、向こうで大歓迎を受けたからには、日本も右に倣わねばなりません。一躍時の人になりました(1995年野茂の時もそうだったわけですし)。

堀江氏が西宮港を出航した同じ5月14日は、ジョニー・ティロットソンの実質最大のヒット曲「涙ながらに」が、BillboardのHot100に初チャートインした日です。Pops, C&W, R&Bの3チャートでトップ10に上り詰め、8月11日の週は最後のチャート(C&Wのほうでは、まだ一か月チャートインしていました)で、入れ替わりに次の「夢の枕を」が初チャートされた週です。それから、もう58年も経つのですね。今も毎日のように「涙ながらに」や「夢の枕を」を聴いているので、58年前、という実感が湧きません(そして、終戦からは17年しか経っていない)。

多くのアメリカン・ポップス・ファンが知っていることでしょうが、「涙ながらに」は、ジョニーの父親が亡くなった時に、その悲しい心情を「失恋歌」に置き換えて作ったものです。ジョニー・ティロットソンの父親については余り資料がないのですが、「ミンストレル・ショー」に入れ込み過ぎて、経済的に破綻をしてしまい、ジョニーが子供の頃は、決して裕福な家庭、という状況ではなかったようです。

「ミンストレル・ショー」。「アメリカの文化の原型」であるとともに、2020年のアメリカにおいては「一発アウト」の存在。2つの概念は、果たして並立することが可能なのでしょうか?

昨日、モニカから、中国の新聞に転載されていたという、「ニューヨーク・タイムズ」記者の手記のコピーが送られてきました。モニカ曰く「素晴らしい記事」。苦労して読んでみました。いやもう、涙があふれてきます。ほんとうにそうなんだよなぁ~。

日本の(中国・香港絡みの)メディア報道は、「民主主義の女神・周庭さん」の話題一辺倒。「頭の良い善良な人」だったら誰にでも書ける、ステレオタイプ的「正論」。うんざりしています。なんで日本のメディアは、このような良質の記事を取り上げないのだろう、、、。

今、一生懸命、日本語訳に取り組んでいるところです。



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