青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

安倍でも加計でも森友でもない、、、誰も気付かない「最悪の存在」について語ろう。

2018-04-14 18:19:58 | その他
安倍でも加計でも森友でもない、、、誰も気付かない「最悪の存在」について語ろう。

今回の項は、非常に長くなりそうです。体調に鑑み、断片的に少しづつ(支離滅裂に、、、本人は繋がっていると信じているのですが、笑)書き継いでいくことにします。



まずは、現状報告から。

体調は非常に悪いです。殊に午後になると、頭が割れそう(といっても痛いわけではない)というか、吐き気を伴った何ともいえぬ状況に陥ります。意識が無くなりかけ、卒倒寸前(どちらか側に体が傾く)になります。無論、5年前のドングリ事件の後遺症です。早い話、蓄膿のグレイドアップ版といって良いのでかも知れません。

医者からは、一刻も早く手術するように、とは言われていますが、命に係わると宣言されているわけでもない(失明の可能性、内臓への影響は指摘されていますが)ですし、今の僕に保険のきかない手術費など捻出できる訳がありません(仮に出来たとしても手術には乗り気でない)。

そんなわけで、倒れたら、そのまま寝てしまうことにしています。今のところ何とか生き延びているのです。

僕の(チョウや野生生物の)シーズンに入りました。フィールドに出向かわないわけにもいきません。でも、こんな状態で大丈夫しょうか? 自分でも判断が出来ない。一日数10km山道を歩く自信はあります。といって、そのあとで倒れて取り返しがつかなくなってしまう事態も十分考えられる(その可能性は極めて高い)。

モニカからは「アジサイの纏めを早く完成させるように」という指令が来る。コツコツと進めているのですが、1000頁を請えてしまいそうで、客観的に考えれば、あと1年はかかるでしょう。それを6月までに終わらせろ、と。まず日本語で完成し、それを僕自身が英訳し、モニカが中国語訳する。その後どうするのかは知りません(笑)。とにかく完成さえしておけば、僕がいなくなっても何らかの利用は出来るでしょう。

アメリカンポップス「ジョニー・ティロットソンの時代」のほうはどうした?とも度々指摘されます。「早く刊行しないとファンクラブの会長さんに悪いではないか」と。でも、原稿が壊れたハード・ディスクの中に収納されていて、すでに修復は終えているのですが、それを受け取るには8万円近くを支払わねばならない。こちらも今の僕には到底無理です。

とりあえず、一昨日モニカの田舎に行って、畑の奥の山道を歩いてきました。意識朦朧のままだったので、どんな植物が生えていたのかもほとんど覚えていない。蝶はほとんどといなかった。目的のイプティマは結構飛んでいたのだけれど全く止まらない。ごく稀に止まってもすぐに翅を開いて、チェックが必要な翅裏を見ることが出来ない。季節(個体の日齢)、時間帯、気象条件、微環境などにより、取る行動が違うので、仕方がないです。何よりも補虫網を忘れてきてしまったので、サンプルも採れない(さすがに飛んでるのを手掴みは無理)。

前回(冬)山道で出会った野生のアキノノゲシも、畑の脇に生えていた苦麦菜も、完全に枯れていて(株自体が見当たらなかった)今回はチェックできませんでした。そのかわり、拠点としていた翁源の街中のホテルの向かいの道路沿いの狭い畑?で、油麦菜の花を見つけました。

これまで(アキノノゲシと同じと思われる)苦麦菜の花は、至る所で出会ったのだけれど、油麦菜の花を見かけることはなかった。何のことはない、咲く時期が違っていただけなのです。苦麦菜の花期の晩夏~冬は、僕が対象とする野生生物のシーズンオフなので、チェックが行き届いていたのだけれど、シーズン真っただ中の春~初夏には目を向ける機会が少なかった。むろん、大抵は花が咲く前に花茎が切り取られてしまう、というのが最大の理由には違いないでしょうが、、、。

レタスと油麦菜の頭花や種子が、同じの形状をしていることを改めて確認出来たのです。そのことは、これまでの諸々の分析から分かってはいたのですが、実際に確認できたことは大収穫だと思います(最初に取り組み始めてから、なんと20年近くかかったわけです)。

無論、これが結論ではなく、油麦菜・苦麦菜の物語(アキノノゲシやアレチヂシャを含むレタス属植物の東アジアにおける野菜化の試みについての考察)は、やっとスタートラインに立ったということです。

★★

そのあと、部屋に帰ってネットニュースをチェックしたら、嬉しい記事に出会いました。プロ野球「世代別ベスト9」というのが毎日アップされていて(同一の生まれ年を「同世代」と表現することに違和感を覚えると、以前書いたことがあるのですが、それはともかく)いつも楽しみにチェックしているのです。

昨日は、1944年(1944.4.2~1945.4.1)生まれの最強メンバー。サブタイトルは「心優しき豪傑たち~豪傑ぞろいの世代ではあるが、どこか人情味を感じさせる男たちが並んでいる」。

三塁手に島谷金二が選ばれています。

執筆者のコメント。「三塁にいる島谷金二も、たびたび打撃タイトルを争っては無冠に終わり、それでもチーム打撃を徹底した不器用な好漢。」素晴らしい紹介のされ方ですね。島谷氏本人に代り(笑)感謝の気持ちを執筆者に伝えたいほどです。

【1944年生まれのベストナイン】(1944年4月2日~45年4月1日生まれ)

投手 尾崎行雄(東映)
[控え:高橋直樹(東映ほか)、山下律夫(大洋ほか)、安仁屋宗八(広島ほか)、村上雅則(南海ほか)、白石静雄(広島ほか)]

捕手 木俣達彦(中日)[控え:村上公康(ロッテほか)]

一塁手 大杉勝男(東映ほか)

二塁手 大下剛史(東映ほか)

三塁手 島谷金二(中日ほか)

遊撃手 東条文博(ヤクルトほか)

外野手 竹之内雅史(西鉄ほか)
    井上弘昭(中日ほか)
    長谷川一夫(大毎ほか)

指名打者 高井保弘(阪急)[控え:伊勢孝夫(近鉄ほか)]

「実在するチームのような投打のバランスだ。現役時代は巨人のV9と重なる選手ばかりだが、その巨人でプレーした選手が1人もいない(青山注:高橋直樹は後年巨人でプレーした)のも隠れた特徴と言える。判官びいきのファンからの人気も集めそうだ。」という執筆者のコメントで締めくくられています。

投稿されたコメントも(全体数は少ないのですが)どれも好意的です。

「木俣、島谷、井上、、、なんと個性的なんだ」

「この世代も強いぞ!かなり強力だ。投打がしっかりと噛み合う世代だな。」

「いいメンツばっかり!たまらんね!!!」

とにかく、この年(学年)生まれのメンバーは、実に素朴で魅力的な実力者揃い。終戦時に一歳になるかならないかの年齢、戦前と戦後のはざまです。偶然かも知れないけれど、そのことも何らかの関連性を持つのかも知れません。

大衆の「空気」によって作られた「虚像」とは無縁の選手ばかり。100勝、1000本安打到達者は多いのですが、200勝、2000本安打は(大杉以外に)いない。タイトルにも無縁の選手が多く、巨人在籍者もほとんどいません。

目立った記録やタイトルに基づくポピュリズム的評価の、アンチテーゼの集大成であるようにも思えます。

★★★

さて、野球と言えば、もちろん大谷翔平です。

片っ端から常識を覆していきます。

常識への挑戦が成される為の2つの条件。「誰も持ち得ない圧倒的な能力を持っていること」「挑戦する揺るぎない意思」。常識は「空気」という巨大な壁に守られているわけですから、上の2つの要素がよほど堅固に備わっていないと、突破することが出来ません。

先駆者である野茂英雄は、失敗していれば(日本社会では)「裏切者」としてしか捉えられなかったでしょう。圧倒的な「実力」でもって信念を貫き通したのです。野茂の未曾有の活躍は、どんな政治家や実業家や国際学者や評論家よりも、アメリカ社会に向けてのインパクトを成し、日本とアメリカの距離を近づけたのだと思います。

ちなみに、今回の「現代ビジネス」のサクラの記事に、こんなコメントを見つけました。

>時間軸をしっかり捉えれば、明治期の日本人にとってソメイヨシノの日本の桜の風景は、当時最新の感動的な風景だったことになる。植樹は国内各地はもとより、国を越えて広がっていったわけだが、それは日本の代表的な花だからではなく「日本が産み出した新品種ならではのこれまでにない新しい風景」だったからだと思う。

ほとんどのコメントが、サクラ(ソメイヨシノ)に日本の「侘び寂び粋」を重ね合わせて捉えているのに対し、なるほど、この(正反対ともいえる)視点は面白いですね。

大谷の存在は、単に一スポーツとしての革命(野茂はそれを成し遂げた)のみならず、社会の革命に値すると思います。少なくても(野球が国技の、またはそれに準じる)アメリカとに日本に於いては、彼の出現は、人々の常識を根底から覆す、歴史的な事件と言って良いでしょう。

日本から世界に向けて齎らされた、常識を遥かに超えた信じ難いようなパフォーマンス。なにしろ、比較対象が100年前のベーブ・ルース(ある意味「アメリカの象徴」)しか存在しないという。日本人にとっても、人類にとっても、(皆が考えている以上の)エポックメイキングな出来事だと思うのです。

(具体的な見解は、最後に、あるいは項を改めて述べます、、、哲学的な話にさえ成ってしまいそうです)。

★★★★

ところで、「サクラ」の記事、思ったよりも反応があったのではないでしょうか?

編集U氏は、大人気・大成功と言ってくれるのですが、大半が「日本文化の賛美」および「嫌中韓」に基づく、(僕の意図を全く理解していない)勘違いによる賛同です。

多かった(ヤフーニュースの)コメントが「タイトルと内容が異なる」「理由」の答えが出ていない、との指摘(笑)。相変わらず「答」を示されないと納得しない(自分では考えない)という、日本人の面目躍如たる思考方向。もとよりタイトルは編集部が勝手に付けたもので、僕の預かり知らぬところなのですが(笑)。いずれにしても、無視をしましょう。

「文化の側面の紹介が抜けている」という指摘も少なからずありました。「日本の“侘び寂び粋”の文化は素晴らしい」(僕もそれ自体は否定しません)。「中韓の連中に分かるわけがない」(一応僕もそう思います)。「サクラの“起源”など、どうでも良い、サクラ文化を育てあげた日本の背景について、もっと詳しく述べるべきだ」。等々。

ソメイヨシノをはじめとする「桜」の文化が、日本人の作り出した「日本の素晴らしい文化」であることは、僕も全面的に同意します。でも、その実態や、そこに至る日本人の歴史感(侘び寂び粋など)については、(腹がいっぱいになるほど)数多くのメディアで紹介されています。

僕は「起源」を述べようとしているのです。僕の仕事は、人間とは関りのない永劫の昔(日本人とか韓国人とか中国とかが現れるよりもずっと前)から生を続けてきた「野生のサクラ」の、日本や東アジアでの実態を探ることです。そのことが、夫々の民族の文化の成立を照らし出すことにも繋がると思っています。

「日本人の作り出した歴史観や文化を知ることだけが尊く、その基となった野性植物との関系を探ることなどはどうでも良いこと」というのなら、そんな「文化」はロクでもない文化です。

僕は、日本の文化「侘び寂び粋など」それ自体を否定しているわけではありません。心底、誇りに思っています。

例えば(昨日のネットニュースにもあった)刺身や寿司の(危険性の)話題。考えてみれば、生の魚を食べる、これほど危険な行為はないです。日本の文化は、それを可能にしてみせているのです。これは凄いことですよ。「0から1」を作り出す、チャレンジ精神や大胆な思いっきりとはまた違った、細い糸に沿い渡り進むような、細心の心構えの上に成り立った、職人の技です。

寿司を素手で握るのは、衛生上の問題で疑問を感じる人もいるかも知れません。しかしそれは「本来なら危険な生の魚を安全に食べる」という、限りなくデリケートな文化の中に、セットとして成り立っているのです。

海外のように、ビニールの手袋をはめて寿司を握る姿は、確かに一見清潔に感じるでしょうが、(その安心感ゆえに)トータルな次元での大事な部分を見過ごすことに繋がるように思います。

これも昨日のネットニュース。新幹線の運転手が居眠りをしてホームを20mオーバーしてしまった。車掌が
気付いて、間一髪ブレーキをかけて停車した。記事にもあるように、一体となった危機管理、これが日本の素晴らしいところだと思います。

コメントには、運転手とか車掌とかは時代遅れ、全部AIに任せておけば事故が起こらない、と言ったような意見も少なからず寄せられています。理論上はそうかも知れないでしょう。いずれ、どのような対象に於いても、AIの手を借りることが必用になる時代が来るでしょう。しかし、どのような場合でも、基本は人間の責任の上で為されねばなりません。AIに任せっきりでは、絶対に破綻を来たしてしまいます。

ということで、日本人の、勤勉さ、連帯感、細心さ(粋の追及)等々、僕だって自慢しているのです(とてもお隣の国々には無理、笑)。

しかし、世界レベルで、その文化は通用するのでしょうか? 日本独自の文化として素晴らしいのであって、
別の文化にそれを求めてはならないと思います。お互いに、長所も欠点も、大いにあるのです。

★★★★★

中国にいると、一日に100回ぐらい(笑)ブチ切れそうになります。まあ、どれほど滅茶苦茶な国なのかは、長期間住んでみた人でないと分からないでしょう。

異次元と言ってさえよい超近代的な構造が、出鱈目なまま作り上げられているのです。あらゆるシステムが正常に機能しないまま、猛スピードで進んでいきます。

なぜ、これほどまでに異なる文化が、隣り合った国で成り立っているのでしょうか?

日本人は、サクラ(ソメイヨシノ)の木を丹精に心を込めて育て上げ、ルールに沿って皆で楽しく鑑賞します。

一方、中国人は、そのようなデリカシーは全く持ち合わせていない。だから日本のような見事なサクラの品種(ソメイヨシノ)も作れなかったし、人(日本人)が作った美しい花の枝を、平気で折ったり散らかしたりします。

どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。美しい日本と、醜い中韓。

日本人でなくたって、疑いもなく前者を支持をしたいところですが、光の当て方を変えてみたならば、必ずしも前者が正しいとは言えない。

マナーに沿って、デリカシーに満ちた愛情を込めて、サクラを大事に育んできた日本人の姿勢、その全てが、本当に正しいのでしょうか?

一切の先入観、付加概念を取り去って、根本的な次元から考えてみたいのです。

具体的には、6月ごろ「アジサイ」の項目で、そのあたりの話題を軸に述べていきます

★★★★★★

モリカケに移ります。

まず安倍から。人を呼び捨てにするのは良くないこと(スポーツ選手などは除く)ですが、こいつは心底嫌いです(明恵夫人はまだマシ、貴乃花親方も安倍よりは可愛げがあります)。

僕は、以前は典型的なノンポリだったのですが、今は違います。紛い無き左です。といって、右の人を、全て否定しているわけではありません。思想と人間性は別問題です。でも、こいつの胡散臭さは、記事や画面から漂ってくる“匂い”で分かるのです(笑)。

兎にも角にも、安倍さんが大嫌いです。第一次政権の時からです

でも、今突如として、安倍ディスリの大合唱が始まったようですね。にわか安倍否定論者に対し、筋金入りの安倍嫌いで、この安倍嫌い分野(笑)での第一人者だと自負している僕としては、なんだかなあ、、、という思いもあります。

ということで、ネットニュースのコメント欄は、安倍批判で溢れている(空気に流されるのがネトウヨの特質)のですが、信念を変えない筋金入りのネトウヨもいるようなのですね。「それでも安倍さんを応援する」「些細な嘘を言って何が悪い」「日本は安倍さんなしでは成り立たない」。心意気だけは関心します。

ちょうど、宇都宮さんが都知事選に出た(そして左陣営の“大人の事情”で撤退した)とき、あるいは「排除された」枝野さんが民進党と袂を別ったとき、ネトウヨの一部からは「敵だけれど(思想は全く受け入れられないけれど)あっぱれ」という声が聞こえてきました。その裏返しです(ずっと次元は低いような気がするけれど)。

この後、安倍ディスり、貴乃花ディスり、大谷賛歌の順で、述べていく予定です。「ジョニー・ティロットソンの時代~涙くんさよならの謎」「日本とアジアの生物地理~有用生物の原型は何故日本で作り出せないのか?」にも言及したいのですが、とてもそんな時間はありません(1年や2年では終わらなくなる、笑)。

ただ読者の方に分かって貰いたいのは、今書こうとしている内容(安倍+貴乃花)と、それらの話も、僕の中では全部(油麦菜の花も島谷金二も大谷翔平も)一貫した流れで繋がっていると言うこと(うまく伝えられる自信はありませんが)。

★★★★★★★

とりあえずは、安倍と貴乃花親方です。

貴乃花=安倍

相撲協会=官僚

モンゴル勢=野党

以上の組み合わせは、自信を持って言い切っておきます。

世間は、勘違いしているようです(そのため「貴乃花問題」では、いわゆる捻じれ現象が起こっている)。

貴乃花親方は、革新派でもリベラルでもありません。彼の本質は、超々保守です。安倍や日本会議の連中も真っ青になるほどの、遥か彼方の(飛んじゃっている)右です。桜井某氏とかと良い勝負だと思います。それについては、また明日。

「ポピュリズム」と「カウンターカルチャー」は、実は同義語なんですね。「エルヴィスとビートルズの狭間で~ジョニー・ティロットソンの時代」は、そのことを書いているのです。

★★★★★★★★

別のところ(連載を予定している別出版社からのネットコラム)で、こんな話を書きました。まだ発表していないのですが、詳しくはそれを読んでください(あるいはこのブログで記すことになるかも知れない)。

僕が、屋久島を最初に訪れた50年以上前のこと。鹿児島市内の旅館で、「島」出身者に対する差別に直面しました。差別を(東京をスタート地点にして)「上」から順送りに、繰り返していくのです。その、日本でのドン詰まりが「沖永良部島」(僕自身は、日本で最高に素晴らしい地だと思っています)、、、と言う話です。

似たような話です。

まず、“最下位”の立場にある森友が「悪人」としてスケープゴートとされます。次いで「明恵」バッシング。「官僚」を経て、今「加計」に到達しようとしているところです。間もなく“波”は本丸の「安倍」に襲い掛かるはずです。

これらの連中は、皆同じ穴のムジナ(日本会議メンバー)です。綻びが見つかったことから、順繰りに弱い者いじめ、責任の擦り合いをしているだけ。実は、仲間内の揉め事なのです。昔流行ったらしい左翼の総括とやらと、何ら変わりません。

見失ってはいけないのは、この一連の問題の本質はどこにあるのか?と言うこと。皆の共通項は?そして、最大の「悪者」は誰か?

次回に続きます。
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