フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

吉野みたらい渓谷の紅葉

2012-11-08 | 山登り

ご近所のNさんから、吉野のみたらい渓谷の紅葉を見に行きませんか、というお誘いがあった。みたらい渓谷は関西では有名な紅葉のスポットだが、これまでは行ったことがなかったので、お言葉に甘えて、ご一緒させていただいた。

南阪奈道路を通って、下市口から、大峰山の麓、洞川を目指す。以前は、深い山の中の道路を幾重にもくねりながらバスで行ったことがあるが、現在では、虻トンネルなどが開通して、実に走りやすい道になった。自宅からは1時間30分ほどで、観音峰駐車場に到着した。

みたらい渓谷を楽しむ前に、つり橋を渡って、観音峰を目指す。

ここには南北朝の戦いの史跡が数多く残されている。ご一緒させていただいたNさんは、私たちより少し年上のご夫婦だが、日ごろからプールや体操教室に通っておられるだけではなく、月に何度かハイキングをされているので、健脚そのものの軽やかな足取りだ。

登山道に沿って、南北朝の歴史が簡略にまとめられている石碑があり、ちょっと休憩して、それらに目を通しているうちに、神社跡についた。

「正平七年(1352)、吉野朝廷の人々が夢見た京都奪回がついに実現いたしました。が、それも束の間のこと、再び北軍が巻き返し、南軍北軍めまぐるしく京都を奪い合い、結局北軍の勝利に終わりました。 この後、後村上天皇に崩御し、長慶天皇が即位されました。さて、南朝軍の柱である楠木正儀が甘言に誘われて突然幕府方に寝返ったことから、長慶天皇は皇太子煕成(ひろなり)親王に三種の神器をもたせ、吉野の奥深くにお隠しになりました。その後楠木正儀をはじめとする幕軍の攻撃により、天皇もまた吉野の奥へと遷幸され、天川郷位衆傳御組はこれを警護し奉って河合寺の黒木御所に迎えました。そして、郷民をあげて長慶天皇や煕成親王らを坪内の御所ノ坊、沢原の光遍が、野川勢を中心とする逆徒が執拗に襲来したため、これを迎え撃って戦いをくりひろげました。この戦いで河合寺は焼失し、長慶天皇や煕成親王は観音の岩屋に避難されました。が、ここまでも追手があり、天川郷士たちはこれを撃退し、尾根づたいに洞川の龍泉寺へとご案内申し上げたのでございます。」

そこを少し登ると、大きな岩があり、

その岩の下に「観音の岩屋」があった。内部は暗くさほど広くなかった。

そこから来た道を駐車場まで戻り、昼食を取る。食後は、みたらい渓谷を下る。道は最初は杉林の平坦な道をたどり、その後、渓谷に沿って道を下っていく。

見るものを圧する巨岩、緑の縁、

それに黄色から真っ赤までのさまざまな色あいに染まったもみじの数々、その美しさを堪能する。

1時間ほど歩くと、自動車道に下りてきた。ここで川は分かれており、みたらい渓谷は河合方面にも続いている。

駐車場へ戻る道は、少しきつい階段を登らねばならなかったが、それを登り切ると平坦な道となり、観音峰駐車場に戻ってきた。

丁度夕食前に自宅に帰ってきたこともあり、その後は、Nさん宅で、夕食をご一緒した。車好きのご主人の車の話しあり、iPS細胞の山中教授の話あり、音楽の話ありと、いつも通り面白い会話をたっぷり楽しませていただいた。