フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

G・ガルシア=マルケス「百年の孤独」を読み終える

2020-02-06 | 濫読

いつかは読みたいと思いながら、なかなか手に着かなかった、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」(1967年)を読み終えた。
ガルシア・マルケスは、この作品などによって1982年にノーベル文学賞を受賞している。
「マコンド」という仮想の土地を舞台に、様々な苦難を経て、その建設に当たったホセ・アルカディオ・ブェンディアとウルスラ・イグアラン夫妻に始まる一族の、
始まりから終焉まで、およそ100年にわたる歴史が書かれている。
読み始めてみると、「事実」と「幻想的世界」の境界がないまま、短いストーリーがとめどもなく続いていく(「リニア―な時間の流れをほとんど踏み外すことなく記述」訳者: 鼓直(つづみ ただし))という展開に戸惑った。これは、文学的には「魔術的リアリズム」といわれる表現方法とされていて、日本の作家では中上健次の「枯木灘」などが有名である。
 
おまけに、登場人物の名前がややこしい。ホセ・アルカディオの子供が同名のホセ・アルカディオでその子供がアルカディオ、もう一人の子供がアウレリャノで、その子供がアウレリャノ・ホセ、その後の子供たちにもホセ・アルカディオやアウレリャノという名前が付けられている。この同じ名前・同音の繰り返しは、ややこしくなる以外にも独特の心理的効果を与えている。
要は、「ラテンアメリカの世界は、西欧的な感覚では理解できませんよ」ということを暗示しているのであろうか。
 
さらに、この小説を特徴づけるているのは、個性的な人物が次から次と出てくることだ。誰の言うことにも耳を傾けず己の生きたいように生き、死んでいく人々。
チョークで3メートルの円を描き、その中に立ち、その中へは母親すら入れないというアウレリャノ大佐や、不毛の愛を経帷子に織り込んで死んでいくアマランタという女性、部屋に閉じこもって誰とも合わず羊皮紙の秘密を読み解き続けるアウレリャノ・・。自分の生きざまを通すということは、「孤独」を愉しむということなのだろうか。
しかも、暮らしに困らないほどの資産を得ても、安逸に流れずしたいことをして、挙句は、家は荒れ放題、日々の食べるものに困るという生活に転落していく。これは、ひょっとすると、西欧に植民地化されてきたラテンアメリカの人々の生き方に対する作者の批判なのだろうか。
 
物語の背景として、赤蟻、蜘蛛、黄色い蛾、蠍、シダ、オレガノ、ベゴニアと言った動植物が頻繁に出てきて、コロンビアの亜熱帯気候の湿った暑い世界が広がる。
 
さらに、政府軍と自由党との内戦やバナナ・プランテーションにおける労使紛争等が出てくるなど、コロンビアの独立以来の歴史も織り込まれている。総じて、一度読んだだけでは、全容を理解できない仕掛けになっているが、個々の短い話は、「そんなことがあるはずはないな」などとつぶやきながらも、不思議な面白さがある。そして、最後は思わず唸ってしまうような結末を迎えるのだ。
読み始めてからしばらくの間かなりの違和感があり、やめようかなとも思ったが、途中であきらめずに最後まで読んでこその、喜びを得ることができた。


「マチネの終わりに」平野啓一郎 を読み終えて

2020-01-11 | 濫読

 
 「その時こそ、死者たちは、銘々が最後の最後まで捨てずにおいた、いつも隠し持っていた、私たちの未だ見たこともない永遠に通用する幸福の硬貨を取り出して、一斉に投げ与えるのではないでしょうか。
ふたたび静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たちに向けて」
(主人公洋子の父親である監督が作った映画「幸福の硬貨」 リルケ「ドゥイノ悲歌」より)

平野啓一郎「マチネの終わりに」を読み終えた後、さわやかな心地よい風が心の中に吹いている。

途中、「二人の恋人が交わした話をもっと具体的に展開してくれたらいいのにな」という不満が常に付きまとったり、まさか、こんなことはありえないだろうと思い続けたりしながらも、最後のシーンを迎えたとき、静かな感動で満たされた。

コンサートの最後に演奏される「幸福の硬貨」


心に残った言葉
・ 人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。」~「花の姿を知らない  まま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない」
・ トーマス・マンの「ヴェニスに死す」と、「ヴェニスに死す症候群」~「中高年になって、突然。現実社会への適応に嫌気がさして、本来の自分へと立ち返るべく、破滅的な行動に出ること」
・ 「マリアとマルタの姉妹」 キリストは世話をするマルタの不満に対して、側で黙ってキリストの話を聞くマリアから、それを取り上げてはならないと語る。
・ 「初めて本当にバッハを好きになれた気がしたの。やっぱり、(1618年~1648年の)30年戦争の後の音楽なんだって、すごく感じた」

ギタリストが主人公の物語なので、色んなギター曲が出てきた。村上春樹の小説を読むときでもあったが、これはどんな曲かなと、you tubeで確かめるという楽しみがあるのもいい。

ロドリーゴ「アランフェス協奏曲第2楽章」
バッハ「無伴奏チェロ組曲第1番、3番、5番」
フェルナンド・ソル「幻想曲作品54」
バリオス「大聖堂」
ロドリーゴ「トッカータ」などなど

you tubeで「マチネの終わりに」と題するプレイリストを作り、それを聞きながら読み進めた。
 
ラストシーンとなったニューヨーク「セントラルパーク」 https://wondertrip.jp/87450/

楊逸(ヤン・イー)「時が滲む朝」

2015-01-28 | 濫読

中国人の作家が日本語で小説を書き、芥川賞(2008年第139回)を取った作品ということで、一度読んでみたいと思っていた。

1988年の7月、中国西北部に住む謝志強、梁浩遠は大学への入学試験を受け、二人そろって、秦漢大学(架空の大学のようだ)に合格する。二人は将来の夢を語り合いながら、大学生活を楽しむ。ところが1989年6月(第2次)天安門事件が起こり、彼らは国を愛する気持ちから運動に参加していく。

運動の指導者として学生を指導する甘先生や、英露という女性活動家とも親しくなる。
民主化を求める運動は政府により弾圧される。ある日二人は飲み屋で運動をめぐって市民と論争となり、殴り合いとなって当局に逮捕され、大学退学処分を受ける。

梁浩遠は日本の残留孤児、梅と結婚して日本にわたり、東京で中国の民主化、香港の中国返還反対、北京オリンピック開催阻止の署名活動などを続ける。謝志強は、中国に残ってデザイナーとして生計を立てる。

しかし、1997年に香港が中国に返還さんれるや、世界の中国同朋が狂ったように喜ぶ姿を見ると、梁浩遠も心を動かさざるを得なかった。梁浩遠の運動への賛同者も一人一人と少なくなっていく。

2000年末に、亡命していた甘先生と英露が中国に帰る途上東京に立ち寄り、梁浩遠に会う。これから、小学校の教師として暮らすと言って中国に帰っていくところで物語は終わる。

この本の帯に「中国民主化勢力の青春と挫折」と書かれているので、政治的な展開になるのかなと思っていたが、ほとんど突っ込んだ展開はない。現代中国の大きな流れに抗しながらも、結局は、中国人として生きていかざるを得ない主人公たちが、淡々とほろ苦く描枯れていた。

読後、主人公たちによって歌われる尾崎豊の「I Love You」の切ない旋律が心の中に響いた。

(参考)

 1989年11月 ベルリンの壁崩壊

 1991年12月 ソ連邦解体

 2001年7月  北京オリンピック開催決定

 


芹澤光次朗「人間の運命」全7巻を読み終える

2013-09-07 | 濫読

 今年の3月から読み始めた芹澤光次朗の「人間の運命」全7巻をようやく読み終えることができた。さすがに大河小説は読みごたえがあった。途中少し疲れてしまった時もあったので、時間がかかった。

筆者のモチーフは「私達の世代の生きた証言を後に来る人々に残したい」とのこと。そのモチーフ通り、明治大正昭和の時代風景が詳細に描かれていて、それだけでも読みごたえがある小説だ。時代の流れに翻弄されながらも、決して妥協せずに生き抜いていく主人公次郎の生き方に感銘した。これはそのまま筆者芹澤光次朗が生き方そのものであったのであろう。

登場する人々も多種多彩だ。貧しい漁村の漁民、子供のころからの友人、宗教家、大地主、実業家、官僚、軍人、政治家、小説家などなど。自伝的小説と言われている通り、フィクションとしてよりは、「事実としてそうであった」というストーリーの展開なので、すこし流れがギクシャクしているところもあった。

しかし、これだけ細かく公私にわたって当時の状況を再現するのためには、その資料として、自己の生活についてのどれだけ綿密な記録が残されているのであろう。実業家の娘である妻が、国の官僚として出世するのではなく、小説家の道を選んだ夫をほとんど評価しないところなど、そんなものかと驚いた。

戦後のことになると、急にストーリーが途切れてしまう、芹澤が連合国=アメリカに占領される社会をどのように捉えるべきなのか、理解に苦しんでいる姿があると思われた。こういう小説を読むと、第2次世界大戦前後の社会とはどんな時代であったのか、ということについて、俄然興味が湧いてきた。

 


トルストイ「戦争と平和」読み終える

2013-02-04 | 濫読

昨年の1月から読み始めたトルストイの「戦争と平和」(中村白葉訳 河出書房新社)を1年1か月がかりで読み終えることができた。途中、何回か中断してしまったが、なんとか諦めず読み進むことができた。奥付は昭和41(1966)年2月25日となっている。47年前である。そのとき、この上下2巻本を買い込んで読み始めたものの、挫折し最後まで読むことができなかった。それを、今になってようやく読み終えた。内容の理解はともかく、実に感慨深いものがある。

フランス革命の動乱のなかで権力を手に入れたナポレオンのロシア侵攻とそれと戦うロシア皇帝、貴族、軍、農民の生きざまが描かれている。ロシア貴族の華やかな社交界と退廃的な生活、領主と農奴、アレキサンドル皇帝とさまざまな政治的派閥。ボルコンスキー公爵家のアンドレイ公爵とロストフ伯爵家のナターシャの恋愛は破綻し、アンドレイ公爵は戦火で倒れる。信仰心篤いマリアとニコライ、富裕な貴族の庶子ピエールとナターシャが結ばれる。これらの恋愛のストーリーは何かぎこちなく、面白くはなかった。「アンナ・カレーニナ」とは大違いだ。

なんといっても、モスクワ西郊外ボロジノ(1812年)におけるフランス軍とロシア軍の会戦がハイライトであろう。現代のようにレーダーも無線もない戦いは、敵軍の動きも自軍の動きもほとんどつかめないまま激突した。結果として、両軍数万の兵士が倒れ、戦いの決着がつかないまま、クトーゾフ率いるロシア軍が撤退した。それにひきつられるようにナポレオンはモスクワを占領する。しかし、ロシアから講和を引き出せないまま、今度は突如としてナポレオン軍がモスクワを撤退しはじめる。ロシア軍の追撃が始まるとナポレオン軍は潰走した。

トルストイのナポレオンと彼を持ちあげる「歴史家」に対する批評は厳しい。
「ロシアの歴史家たちにとって、(口にするのも奇怪な、恐ろしいことであるが)ナポレオン=このいついかなる場所においても、流謫の地においてすらも、かつて人間らしい品位を示したことのない、もっとも無価値な、歴史の道具にすぎない男=ナポレオンは、賛美と感激の対象となっている」

他方で、ボロジノ戦では撤退し、モスクワを明け渡し、潰走するナポレオン軍の追撃戦に反対したクトーゾフ将軍を国民的感情の保有者として称えている。
「単純で、謙虚で、したがって真に偉大であったこの人物は、歴史が考え出したヨーロッパ流の英雄、人々を指導しているあの似非英雄の型におさまることはできなかった。下司にとっては偉大な人間などはありえない、なぜなら、下司には下司相応の偉大の観念があるのだから。」

ピエールがフランス軍の捕虜になった時、同室に居た農民プラトン・カタラーエフ、彼の中に愛すべきロシア国民の姿を見つめている。「彼は、毎日、朝も晩も、横になるときには『神さま、石ころみてえに寝て、まるパンみてえに起こして下され』と言うし、朝起きるときにはいつも肩をすくめながら『寝たらまんまる、起きたらしゃんしゃん』というのだった」

エピローグの第2編に「自由と必然」についての論文が付け加えられている。論旨は分かりにくいが(理解力が弱いので)、自然の法則と同じように歴史的な事象についても法則があると語っている。それはあたかもコペルニクスの地動説が個々の人にとって自覚できないが真実であるのと同じように、歴史的な事象についても、人々は自由に行動しているものと「自覚」しているが、その背景には法則があるのと同じだ、としている。

1812年 ロシア戦役
1828年 トルストイ誕生
1861年 ロシア農奴解放
       アメリカ リンカーン大統領就任 南北戦争
1862年 ユゴー「レ・ミゼラベル」
1863年 リンカーン奴隷解放令布告
1868年 明治維新
1869年 「戦争と平和」刊行 トルストイ41歳
1877年 「アンナ・カレーニナ」
1895年 樋口一葉「たけくらべ」
1904年 ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」
1905年 夏目漱石「吾輩は猫である」
1910年 トルストイ82歳、10月28日未明、妻に最後の書を書き残して家出する。
       11月7日リャザン・ウラル鉄道のアスターホヴォ駅で死去