古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

本牟智和気御子の続き

2005年10月20日 00時02分18秒 | Weblog
 この本牟智和気御子の出雲での話しが、大嘗祭について述べているものとすると仮宮は大嘗宮になります。(遠回りします。)
(実際の大嘗祭では大嘗宮は悠紀殿・主基殿の二つのようです。)
 私の能力ではうまくまとめられませんので、本牟智和気御子の出雲での話しを引用します。
 http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/kojiki_naka/frame/kojiki_naka_frame.htm
古代史獺祭 列島編から引用させていただきました。
『故、出雲に到りて大を拜み訖(おわ)りて還り上る時に、肥(ひ)の河の中にき橋(すばし)を作り假宮(かりみや)を仕え奉りて坐しましき。 爾くして出雲の國造の祖、名は岐比佐都美(きひさつみ)、青葉の山を餝(かざ)りて其の河下に立ちて將に大御食(おおみけ)獻らんとする時に、其の御子詔りて言いしく、「是の河下に青葉の山の如きは、山と見て山に非ず。若し出雲の石(いわくま)の曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大(あしはらにしこおのおおかみ)を以ち伊(い)都(つ)玖(く)祝(はふり)が大廷(おおにわ)か」と問い賜いき。 爾くして御伴に遣わせし王等、聞き歡び見て喜びて御子をば檳榔(あぢまさ)の長穗宮(ながほのみや)に坐せて驛使(はゆまつかい)を貢上(たてまつ)りき。
爾くして其の御子、一宿(ひとよ)、肥長比賣(ひながひめ)に婚(あ)いき。 故、竊に其の美人を伺えば蛇也。 即ち見畏みて遁逃(に)げき。 爾くして其の肥長比賣、患えて海原を光(てら)して船より追い來たり。 故、益(ますま)す見畏み、以ちて山の多(た)和(わ)【此の二字は音を以ちてす】より御船を引き越して逃げ上り行きき。』

 私には、仮宮と青葉の山のように見えるものとの位置関係が良く理解できませんでした。河下と書かれているために、かなり離れているものと考えていましたが、勘違いのようです。(勘違いしていたのは私ぐらいかもしれません)
 本牟智和気御子の居る仮宮の目の前の川下に、青葉の山のように飾られたものがみえ、そこで出雲国造の祖が本牟智和気御子に大御食を献上したというふうにとらえたほうがいいようです。

(今までは、出雲国造の祖は誰に大御食をたてまつったのか理解できていませんでした。葦原色許男大神とすると変な気がします)

 御子は「青葉の山の如きは、山と見えて山に非ず」と初めて言葉を発します。
 青葉の山のようなものは、仮宮を飾るものだと考えられます。この仮宮は大嘗宮になるわけです。
 初め、これが何のことだかわかりませんでしたが、下記の山車の説明から理解できそうです。
http://www10.plala.or.jp/ss7/2.htm
《山車の起源は、天皇がご即位されるときに斎行される「大嘗祭」のとき、悠紀の国、主基の国から神供の物を大嘗宮に運び込む行列の先頭に曳かれる造り山「標の山」であると思われる。 「代始和妙」には、「標の山というは、大嘗宮の前に両国の国司列立すへき所のしるしの木に大なる山を作りさまざまの作物を飾りて是を引立る事あり」と記されており、高さは「方四丈高三丈八尺」とあってゆうに10メートルを超える大きなものであったようである。
そして山車が初めて祭りに登場したのは、九九八年京都の祇園御霊会であると言われている。
その後全国へ祇園信仰が広まり、それぞれの地域の特性に根ざした山車が出来、歴史を重ねて来ました。》
 
 これを読みますと、大嘗宮の前を山のように飾り立てたのは、悠紀の国・主基の国の両国の国司が目立たせるためだったようです。
山車を使うのは九九八年が最初かもしれませんが、古事記の編纂されたときには既に派手に飾られたことが窺えます。
やはり本牟智和気御子の話は大嘗祭にかかわるもののようです。

‘石くま’(いわくま)は加茂岩倉遺跡にあたると考えられます。‘石くま’(いわくま)が岩倉ではないかという発想だけですから、たいしてあてにはなりません。ですが、ここは出雲の話で、他に似た地名もなく、可能性としてなら十分ありえます。
しかしもうひとつ気になるのは、御子の「祝の大庭か」という最後の言葉です。これを(大庭・おおば)ととれば神魂神社のあたりになります。
大嘗宮が二つあるのと関連があるかもしれません。(とりあえず無視)


本牟智和気御子が檳榔の長穂宮(あじまさのながほのみや)にいる時に肥長比売とまぐわいをした事になりますから、肥長比売も檳榔の長穂宮に来た(本来なら降臨か?)はずです。檳榔の長穂宮は、儀式上は大嘗宮になるはずです。
しかし、、肥河の仮宮も大嘗宮になるようですからおかしいといえます。
ところが、大嘗祭には、もう一つ廻立殿(かいりゅうでん)という建物が大嘗宮の北側に造られます。
(悠紀殿・主基殿が東西にあって、その北側に廻立殿)

檳榔の長穂宮は廻立殿に相当するかもしれません。
廻立殿では天皇は禊をされるとなっております。しかし、禊だけではなく、肥長比売とのまぐわいが、廻立殿で行なわれる可能性があります。
大嘗祭は天皇即位後の初めての新嘗祭といわれています。新嘗祭は新穀を皇祖・天神地祇に供え、天皇ご自身も召し上がるという儀式らしいです。しかし、大嘗祭にはそれ以外に、儀式上の肥長比売とのまぐわいが行なわれるのではないでしょうか。天皇が廻立殿で禊をされるのは、肥長比売とのまぐわいのためではないでしょうか。
 ただ、古事記の文章では檳榔の長穂宮が何処なのかはわかりません。初めて言葉を発したのは出雲においてです。ですが、出雲から外れた所に檳榔の長穂宮があったのかなと。
しかし、御子は最後に‘山のたわ’から船を引き出します。これは船通山以外ありえないように思えます。
すると、檳榔の長穂宮が出雲以外にあったとすると、御子は一旦出雲の外に出て、再び出雲に逃げ帰ったことになります。
ここで、グーグルで「檳榔の長穂宮」を検索してみました。
檳榔の長穂宮で、宇佐神宮が引っ掛かってこないかと期待したからです。
ところが、びっくりしたというか、なーんだというか、佐太神社が最初に出てきました。
    引用が長すぎたために続く。
 








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