古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

橘三千代の父は物部連麻呂ではないでしょうか。

2011年05月10日 12時23分16秒 | Weblog
「蘇我馬子の妻は物部守屋の妹である」という記述が書紀にあります。
《崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月》
「蘇我大臣之妻。是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計、而殺大連矣。」
〈蘇我大臣の妹は守屋の妹で、大臣、妄りに妻の計を用いて守屋を殺した。〉

蘇我馬子に藤原不比等の場合があることは何度もいっています。
(620年蘇我馬子と聖徳太子が編纂した国記は720年不比等の長屋王が共同で編纂した「日本書紀」が100年前に移動したものです)
そうしますと、物部守屋は物部連麻呂が投影されている部分があるはずです。
その場合、不比等の妻は橘三千代で、その三千代が物部連麻呂の妹となります。
しかし、年齢が定かではありませんが、美千代は物部連麻呂の妹ではなく子供ではないか、と推測します。
《崇峻天皇即位前紀用明天皇二年(五八七)七月》の記述では、守屋と妹の蘇我馬子の妻とは仲が悪そうです。
しかし、この表現には何らかの意図が隠されていると考えます。

この守屋の時代に物部氏は滅亡したことになっています。
先ほどの記事の直前です。
《大連并(あはせ)て其の子等(こども)を誅(ころ)す。
(大連ともども子供たちも殺した。)
或有逃匿葦原、改姓換名者。或有逃亡不知所向者。
(葦原に逃げ隠れたり、名前を変えたり、どこに逃げたのかわからない者がいた。)》
そうだとすると、物部氏の名を継ぐ者はいなくなっているはずです。
では、その後、なぜ、物部連麻呂が登場しているのでしょうか。

敏達元年(572)物部弓削守屋大連を大連とすること、故(もと)の如しとありますが、文庫本の注釈によると、欽明紀に守屋の名前は見えないそうです。
(検索したところ、確かに一致は一件もありませんでした。)
この敏達元年(572)の100年後の672年は壬申の乱です。このとき物部連麻呂の名前が大友皇子の最期をみとったものとして、突然現われます。
それまで、物部連麻呂の名前は出てきません。(検索の一致で確かめました)

物部氏は守屋のときに滅亡したはずなのに、なぜ100年後に再び物部氏が現われたのでしょうか。
これは、物部守屋が実在しようとしなかろうと、100年後の物部連麻呂が守屋に投影されているとみるべきです。

ですから、守屋の時に物部氏が滅亡したと書かれているということは、物部連麻呂の時に物部氏が滅亡したと書かれているのと同じことです。

さて、守屋の死後、
或有逃匿葦原、改姓換名者。或有逃亡不知所向者。
(葦原に逃げ隠れたり、名前を変えたり、どこに逃げたのかわからない者がいた。)》となっています。
『改姓換名者』とは、姓は変えたけれども、実質的には物部氏のはずです。
さて、物部連麻呂は石上麻呂と改名しています。
ということは、守屋のときに物部氏の名前は消えて、物部連麻呂のときに突然復活し、また名前を変えたことになります。
改名が二度起きたのでしょうか。
もちろん、違います。
物部連麻呂の時に起きたことが、過去に起きたことになっているのです。

さらに、三千代も改名しています。
《和銅元年(708年)・元明天皇より橘宿禰の姓を賜わる。》(だそうですが、元明天皇からというのは虚偽だと考えます。)
『改姓換名者』とは、三千代が、物部連麻呂の娘で、橘の姓をもらったとすると、いうより、『橘』と改名したことを指します。
そして、『橘』が物部と関連すると考えると『橘』「たちばな」には物部をにおわせるものが含まれていることに気づきます。
一般的には「橘」の解釈は
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%81%E3%83%90%E3%83%8A

《日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えるということで喜ばれた。
古事記、日本書紀には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。古事記の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘[1]、左近桜」として橘が植えられている。ただし、実際に『古事記』に登場するものが橘そのものであるかについてはわかっていない。
奈良時代、その「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、葛城王に橘姓を下賜したことにより橘氏が生まれた。》

常緑で永遠をさす、というのが表面上の意味で、それも大事なのでしょうが、同時に「たちばな」→「たち・ばな」→「太刀・ばな」となり、物部の武力を感じさせる「刀」が「橘」に隠れています。
無理に橘の「ハナ」を解釈します。
「太刀・花(華)」と解釈すれば、「橘・(三千代)」は「物部氏の花(華)」と読めます。
また、「太刀・鼻」とすれば、「太刀の切っ先からすべて物部氏」となります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1026188255
《橘三千代は、前夫との子は大臣に、不比等との子は皇后に、そして孫は天皇になっています。》

橘三千代が物部連麻呂の娘だとすると、
三千代と不比等の子が光明子で,聖武天皇の皇后になりますし、聖武・光明の御子は孝謙天皇(阿倍内親王・重祚して称徳天皇)となっていますから、物部連麻呂からすると、孫は皇后で,曾孫が天皇ということになります。
橘諸兄もいましたし、物部連麻呂の代で物部が滅亡したということはなかったのです。
なぜ名前を変えたのかといえば、文武天皇の霊を、後には長屋王の霊を畏れたためでしょう。
滅亡していたならば、怨霊に祟られることもありません。
しかし、藤原氏と物部氏の連合が続いていたことになります。

ところで、三千代は『県犬養宿禰東人の女。』となっています。
崇峻天皇を殺したのは東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)で、県犬養宿禰東人=東漢直駒と考えます。(東漢直駒は蘇我馬子に殺されます。)
そして、これらは物部連麻呂を指すと考えるのですが、一致しているのは「東」だけです。
そういえば、県と直は字が似ています。(思い込みは怖いのですが、思い込みます)
後は「駒」と「犬」が動物で、人と親しいとこが似ているでしょうか。
犬は忠義と考えられていたようです。
ですから、「犬養」も物部氏が改名したものかもしれません。(いいかげんな推測です)
その場合、物部は裏切り者ではない、と言外に含みを持たせたかったのかもしれません。
しかし、橘三千代が物部連麻呂の娘とした場合だけ、物部連麻呂の文武天皇に対する‘裏切り’は許せるのではないでしょうか。
いや、許せるかどうかよりも、仕方ないだろうな、というのが感想です。
(家康と信長の場合、家康はあの時点で信長に勝てるわけはありませんから、結果は逆ですが、これも仕方ないのかな、と。)
また不比等はやらなければやられるのですから、正当防衛になります。
(そういう概念はあったかどうか知りませんが)

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