古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

本牟智和気御子と肥長比売と檳榔(あじまさ)の長穂宮

2005年10月21日 22時02分30秒 | Weblog
 佐太神社の中殿の神紋、また佐太神社神宝の「御檜扇」は檳榔で作られたもののようです。「檳榔の長穂宮」は佐太神社のことだったのです。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_sata.html
 《・・・・ナガの語源はもともとサンスクリットのナーガからきたもので蛇をさすといわれている。また「檳榔の長穂宮」の檳榔はビロウ樹のことで、いわゆるクバ、南方産の木である。クバは南方で神聖な木とされ、平安時代には宮廷でアジマサの扇として珍重された。
 佐太神社の神紋は、奥殿、北殿、中殿それぞれ異なった紋を使用している。すなわち、北殿が「輪違い」、中殿が「十五本骨檜扇」、南殿が「二重亀甲」である。中殿の「十五本骨檜扇」は、佐太神社神宝の「御檜扇」を象ったものであろう。》
 
 佐太神社で降霊儀式が行なわれて初めて『天孫降臨』は可能になったということです。
 当然といえば当然でした。
 私の考えでは、我々の考えといいたいところですが、卑弥呼の子孫は佐太神社辺りに追放されていたからです。
 (おや、これは証明になるのかしら。本牟智和気御子の出雲での物語が『天孫降臨』と同一で、大嘗祭の儀式を表現しているものならば、佐太神社は檳榔の長穂宮であり大嘗祭の廻立殿になります。
観念上、佐太神社で卑弥呼の子孫は皇祖・天照大神(卑弥呼)と交わることによる神霊を継ぐ儀式が行なわれることになります。
そうしないと、大和には『天孫降臨』できない、すなわち根の国を出立して、大和で王権を授かることができないとされたのでしょう。
なぜなら、卑弥呼の子孫は佐太神社のある根の島に追放されていたからです。それ以外に、佐太神社を念頭に置いた、神霊降下の儀式が行なわれるはずがないからです。
納得されない方いるとしたら、私が、皇祖・天照大神と蛇神・肥長比売を同一視して論を進めているからでしょう。
これは何度も書いていますが、王朝の交代をなかったことにするためです。
卑弥呼の子孫でありながら、そしてそれを信じているにもかかわらず、当時の人々もそれを知っていたにもかかわらず、公式的には王権の継承は卑弥呼の子孫ではないことにしたのです。)
 
先ほどの引用と同じところです。
《佐太神社では古来、竜蛇は恵曇の古浦から上がるとされていた。古浦とそのとなりの江角浦とを合わせて神在浜と呼ばれるが、そこには板橋という佐太神社の社人が居住して、松江藩から食禄を受け、竜蛇上げの職を奉していたといわれる。
 竜蛇はセグロウミヘビとよばれる海蛇で、この海蛇が海上を渡ってくるときは金色の火の玉に見えるという。そして、佐太神社の境内にある舟庫に掲げられた額には「神光照海」とかかれ、「海を光らして依来る神」はセグロウミヘビであったと思われる》

島根鹿島町・恵雲(えとも)の神社
 http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=353142&l=1325829
 蛇があがってくるという古浦と佐太神社の位置を調べることにします。
この地図を見るとわかるように、鹿島町古浦、恵雲、武代にはそれぞれ神社があります。
 この三神社は直角三角形になるように見えます。
 しかし、近すぎるために計算式では駄目なようです。
 ただし、ここの三神社が直角になるからといって、又は、ならないからといってとりあえずは影響ありません。
 問題は、ここから佐太神社にはどのような直線が引けるかです。
 そしてこの直線と宇佐神宮と加茂岩倉遺跡と佐太神社を結んだ直線との関係です。
 それは直角になるしかないのです。
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