古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

恵雲の古浦と佐太神社・加茂岩倉遺跡・宇佐神宮の位置関係

2005年10月24日 00時06分30秒 | Weblog
佐太神社と蛇が上がって来るという恵雲の古浦の位置と加茂岩倉遺跡・宇佐神宮の位置関係を見てみます。

佐太神社→古浦の神社
 ①291.557度 ②111.539度 ③3.025773km
佐太神社→恵雲の神社
 ①307.040度 ②127.022度 ③3.588069km
佐太神社→武代の神社
 ①301.848度 ②121.834度 ③2.691638km
ア・佐太神社→宇佐神宮
 ①214.530度 ②33.6074度 ③266.3611km
三神社の位置からはどれも九十度にはなりません。
しかし、恵雲の神社からは角度が九十度より大きくなりますし、古浦の神社、武代の神社からは角度が九十度より小さくなります。
ですから、この中間のどこかに九十度になるところがあるはずです。
佐太神社→古浦の三神社から等距離の地点
 ①301.112度 ②121.094度 ③3.286711km
これもだめです。
そこで、目に付いた恵雲の神社と武代の神社の中間辺りの佐陀川河口の橋をX地点にしてみます。
北緯35度31分29秒、東経132度58秒42秒
イ・佐太神社→X
 ①304.743度 ②124.727度 ③3.088143km
イ①-ア①=90.213度、 (イ②-ア②=91.1196度になりますが、佐太神社から出る角度を重視します)
なるほど、海から来た蛇は、今度は佐陀川を上ることになるのか、となります。
物語としては、海から来た蛇は佐陀川をのぼり、佐太神社に通じる橋のところから上陸します。すると、正面に佐太神社が見えます。(たぶん)
百メートル、もっとかな、参道(たぶん)を進むと佐太神社にたどり着くことになります。
(あー、佐太神社の辺りも大場というんですね。大庭に通じます)

しかし、これは仮想です。
実際の蛇神は、九十度方角の違う宇佐神宮から来たのです。海から来る蛇は仮想です。宇佐からも仮想とはいえますが、実際に卑弥呼トヨが宇佐から東に出発したことが念頭にあるのです。
ですから、本当は佐太神社が宇佐から卑弥呼を呼び寄せたというほうが、正しいはずです。それを、九十度違えて海から来たことに変えたのです。

一つ確認しておきたいです。この本牟智和気御子の物語では加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡・神原神社古墳の辺りの地域が重要な役割を果たしていそうです。しかし、この地域は極秘とされていたようです。近年発掘されて初めて明らかになった地域です。「記・紀」の編纂時には、編纂者たちにはこの地域の存在は明らかだったにもかかわらず、表面的には書かれていないはずです。秘密にしているために、古事記に書かれている、この物語に登場しているはずの施設などの地理上の位置があいまいになっているものと思われます。
例えば、
「出雲の石くまの曾宮(そのみや)に坐す葦原色許男大(あしはらしこおのおおかみ)を以ち伊(い)都(つ)玖(く)祝(はふり)が大廷(おおにわ)か」

 「石くま」は加茂岩倉遺跡を指しているようですが、「大廷(おおにわ)」とは「大庭」で「大場」でしょうから、佐太神社の辺り、又は神魂神社辺りをさしているでしょう。ですが、加茂岩倉遺跡が知られている現在では、「大庭」は加茂岩倉遺跡などをも指していた可能性もあります。ですから、ここの描写はどちらを指しているかは不分明です。しかし、あえていえばどちらをも指しているといったほうが正しい気がします。
〔なぜなら「魏志倭人伝」に『卑弥呼以て死す』と書かれた卑弥呼は二人の卑弥呼を表わしていたからです。ですから、一つの地名で、二ヶ所表わしていてもおかしくはないのです。
また邪馬台国の位置は南ではなく、九十度違った東でした。仮想と真実の二つの邪馬台国があったのです。これも、一つで二つを表わしていたことになります。〕
 
 肥長比売は本牟智和気御子を追いかけますが、本牟智和気御子はどう逃げたかが問題です。御子は佐太神社から宇佐神宮の線上にある加茂岩倉遺跡に逃げたはずです。

(荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・神原神社古墳一帯は一つのブロックとして考えた方がいいのではないかと考えます。例えば東京駅には八重洲口、丸の内北口などとありますが、すべて東京駅です。同様に、三遺跡一帯を仮想の高天原エリアとします。そうしますと、方位が面倒ではなくなります。荒神谷遺跡から見て佐太神社は鬼門の方角になりますが、加茂岩倉遺跡からも鬼門として扱います。そうすると両遺跡から宇佐神宮は裏鬼門になります。荒神谷遺跡からみて熊野大社は東ですから、乱暴ですが、加茂岩倉遺跡からも東とします。etc、etc)

 肥長比売もその線上を追いかけることになります。しかし、御子は船通山から船を引き出し、神原神社古墳・荒神谷遺跡の線上にのせ、加茂岩倉遺跡に持ってきて、出雲大社→加茂岩倉遺跡→平城京行きの線上に乗り換え、雲につつまれた超高速船にして大和・平城京に逃げ出します。

 しかし、これは『天孫降臨』の話しです。この物語では、肥長比売(卑弥呼)が御子を追いかけて捕まえようとして逃げられた物語になっています。しかし、大和朝廷の真情としては、高天原の天照大神と同じで、本牟智和気御子に豊葦原瑞穂の国を治めよと命じて、送り出したと同じものです。
「魏志倭人伝」がエンドレスになってしまったために、「記・紀」では何度でも、同じ話しが繰り返し、形を変えて登場するのです。
 神原神社古墳で発見された鏡も問題になります。たとえ、その鏡が日本で作られたものであろうとも、位置の重要性から大和朝廷は本気で「景初三年」の鏡を置いたはずです。
 その鏡はどちらの方向に向いておかれていたのか、が問題です。
といっても、これはいろいろな場合が考えられますから、とりあえずは無理です。
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