古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

天武天皇が名張の駅家を焼くはずがありません

2018年11月03日 13時35分46秒 | Weblog
壬申の乱の初めに大海人皇子(天武天皇)は隠(名張・なばり)の駅家(うまや)を焼く、とありました。
しかし、天武天皇が命じた日本書紀の編纂ではこんなことが書かれているはずはありません。
これではまるで大海人皇子(天武天皇)が謀反・クーデターを起した風に読めてしまいます。
大海人皇子(天武天皇)は自分の身が危ういということでやむを得ず、逆らうことになった、となっていますが、もし自身で描くとするならば、もっと世のため、人のため、という正当性を主張したはずです。
いかにも仕方なく立ち上がったのだ、という風にされてはいますが、謀反を起したには変りありません。
これは最初の日本書紀の天武天皇編纂のものではありません。
うまく天武天皇編纂に見せかけたものですが、改変されています。
図形を見る限り、名張は特殊な位置にあることがうかがえます。




大海人皇子(天武天皇)が隠(名張・なばり)の駅家(うまや)を焼くはずがありませんし、名張での呼びかけに誰一人として参集しなかった、などと天武天皇が書かせるはずはありません。
《及夜半到隱郡、焚隱驛家、因唱邑中曰「天皇入東國、故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。》
夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及わむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式をとりて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。(日本古典文学大系『日本書紀・下』)

名張の駅家の位置は正確にわかっていないようですが、今まで見た図形では、名張は、全国に号令をかける発信基地であると同時に全国の情報を収集する位置にあるはずです。
《律令国家の全国支配には、迅速な交通・通信の制度が不可欠であった。駅制あるいは駅伝制と呼ばれるのは、古代律令国家における交通通信制度である》
《駅路のシステムはネットワーク》p39~p43 
道路の日本史 武部健一 中公新書
https://kotobank.jp/word/駅伝制度-36215
日本の駅伝制度
沿革
馬による急使の往来は、すでに大化前代にみられる。大化改新の詔(みことのり)(646)で、駅馬(えきば)、伝馬(てんま)を置くことが示され、701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)によって制度的確立をみた。律令国家の中央集権政治のもとで、中央と地方とを結ぶ官吏、公使の旅行、政令伝達、報告など、交通、通信に大きな役割を果たした。律令国家の衰退とともに11世紀以降崩壊したが、人馬による全国交通の骨格がつくられ、中世、近世に及ぶ宿駅制への原型となった。[田名網宏]

以前テレビ番組で藤原京の時の全国の道路網が6300kmとあって驚いたことがありました。
https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/063a3222926ce6375a93306bc4bdcc24
藤原宮・京の建設と全国の道路網の整備の財源はどこにあったのでしょうか。
2015年06月14日

(これは平安京の時代の図かもしれません)
さて、名張の駅家を焼いてしまったなら、律令制で築かれたと言われる全国道路の整備網の意味は根本的に崩れてしまうのではないでしょうか。
実質的というだけでなく、占いをよくするという呪術に長けていたとされる天武天皇が、この名張の位置の重要性を無視するわけがありません。
反乱だったとしても、その後の展開を考えると、名張の駅家を焼く意味がありません。
天武天皇(大海人皇子)は、ここで全国に号令をかけ、自身が悪政・百済に立ち向かったことを表明し、人々が集まってきた、と書かれるべきところです。
天武天皇編纂の最初の日本書紀にはそう書かれていたのではないでしょうか。

何度も書きますが、乙巳の変(大化の改新)から壬申の乱までは完全な虚構です。
天武天皇は唐に向けて、自身は唐に逆らわないというメッセージを発信する必要がありました。そして645年乙巳の変~672年壬申の乱の間は、百済王・豊璋が実権を握っていて、663年白村江の戦いに向かったのも、百済のせいだったことにしました。そして、壬申の乱で残っていた百済勢を壊滅させ、親唐政権に変わったことをアピールします。
(百済王・豊璋を追い込んだでしょうが、壬申の乱ということではありません)
そのアピールの一端を郭務悰に頼み、莫大な賄賂を持たせて帰国させます(口止め料、および唐王室への口利き料)
悪いのは全て百済だったことにして、唐の追求をさけることにします。(ただし、唐のほうも状況が不安定になっていました)

しかし、後に百済が実権を握ることになり、日本書紀の書き方は変化します。
(ただし、繰り返しますが、百済といっても、もともと、卑弥呼・臺与(とよ)の子孫が百済から戻ってきたものです。天武系は高句麗から戻ってきた卑弥呼・臺与(とよ)の子孫と考えています。そして「魏志倭人伝」が卑弥呼復活を勘違いしなければ起きなかったことです)
そして、686年天武崩御の時、大津皇子の即位を高市皇子は妨げようとします。その時百済王・豊璋の子、藤原不比等は高市皇子側につきます。なぜなら、大津皇子が即位すると、天武天皇の政策を受け継ぎ、残っていた百済人が陽の目を見ることもないし、百済奪還も夢のまた夢になるからです。(とはいっても、どちらにしろ無理な話ですが、百済再興の可能性は残るからです。)
不比等は死の床についていた豊璋から「百済を再興してくれ」の遺言を受けていたはずです。
不比等は高市皇子側につくしかありません。
(孝徳天皇と中臣鎌足が仲良しであったと書かれていますが、高市天皇と不比等の関係が良かった、という意味です)
駅制・駅家などについてちょっと本をめくりましたが、その前に、面白いことに気づきました。
名張と藤原宮跡と平城宮跡の位置関係です。
名張を、とりあえず、勝手神社でやってみました。



△名張-藤原宮跡-平城宮跡は見たところ
頂角・名張で45度、底角・藤原宮跡、平城宮跡では67.5度の例の大和三山の二等辺三角形になりそうです。
勝手神社ではピッタリいきませんが、名張の駅家の位置だったならピッタリだったんではないかと思わせます。
ぴったりになる地は名張ではいくつもありそうです。
ですが、とりあえず勝手神社で
△勝手神社-藤原宮跡-平城宮跡
勝手神社→藤原宮跡
 ①242°52′55.81″ ②62°43′51.11″ ③27,521.543(m)
勝手神社→平城京第一次大極殿跡
 ①288°46′22.78″ ②108°36′49.67″ ③27,093.805(m)
藤原宮跡→平城京第一次大極殿跡
 ①356°44′09.32″ ②176°43′42.27″ ③21,295.598(m)

勝手神社での角度
 288°46′22.78″-242°52′55.81″=45°53′26.97″≒45.8908
藤原宮跡での角度
 360°-356°44′09.32″+62°43′51.11″=65°59′41.79″≒65.9949
平城京第一次大極殿跡での角度
 176°43′42.27″-108°36′49.67″=68°06′52.60″≒68.1146

藤原宮跡
北緯34度30分07.93秒、東経135度48分26.89秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343007.93&l=1354826.89
34.5022 135.8075

平城京第一次大極殿跡
北緯34度41分37.89秒 東経135度47分39.25秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344137.89&l=1354739.25

勝手神社
34°36'56.09"N 136° 4'27.13"E
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343656.09&l=1360427.13


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