古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

宝皇女(皇極・斉明天皇)の出身の推測

2017年09月16日 14時47分37秒 | Weblog
白村江の戦いの責任をなすりつけるために天智天皇は創られたと考えています。
ただし、最初の構想の段階では天皇ではありません。
最初のシナリオとして想像するところはこうです・
百済王・豊璋(百済王子・豊璋)は正統な蘇我氏(天武系)を倒し,日本での政権を樹立します。ところが、660年本国百済が滅亡します。百済王・豊璋は朝鮮での百済を復興させるために、日本全体を白村江の戦いに向けて主導します。ですが、あえなく敗戦。大海人皇子(天武天皇)は百済王・豊璋の横暴に終止符を打ち、正統な政権に戻すために挙兵します。
(672年壬申の乱ということになりますが,元々は672年以前の事件ということで創作されたでしょう)

http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/c5ea0330d4744eaa7cea5485d2d7f3d9
645年と672年の間 2016年01月28日

唐への反逆を,すべて、百済王・豊璋一人のせいにして、大海人皇子(天武天皇)系,その他の豪族たちの安寧をはかることができるならば,それに越したことはありません。
百済王・豊璋を生け贄として差し出し、戦争責任を負わせることが計画されたと思われます。
ただし,現実的には、百済系が完全に消えたということではありません。
そして、後に天武系が滅び百済系が主導権を握ったことにより、それまでの善と悪が反転し、百済王・豊璋を天智天皇に変化させ、天武系の王権を悪の蘇我氏として規定し直すことになります。

しかし、百済滅亡・白村江の戦い以前は,百済と日本の仲は親密だったのでしょう。
また,朝鮮に百済が滅亡した状態ですと、必要な資源の流入もままならず、日本にとっての生命線だったかもしれません。
しかし、百済は無くなったのですから、それに合わせた施策をとらねばなりません。

それはそれとして、このあたりで奇妙なことがあることに気がつきました。

乙巳の変の時の天皇は皇極天皇(後に重祚して斉明)でしたが、以前にも書きましたが、皇極は舒明天皇の皇后で、諱は宝皇女でした。
《敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。
はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。尚、この2人の詳細は不明。
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から一代おいて即位した女帝になる。》

舒明天皇は、高向王と結婚して,すでに漢皇子を産んでいた人を皇后にしたことになります。
以前も奇妙な気がしていました。
天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母ということになる人です。
天皇にも即位する方です。
その方に、既に子供がいたというのです。
(以前も,宝皇女は光明子ではないか。その他に、高向王が崩じた後で后に迎えられたのではないかとか考えたことがありました。それならばなんとか許容できるでしょうか,と以前考えました。)

また、鏡王女(かがみのおおきみ)は、はじめ天智天皇の妃だったが、後に藤原鎌足の正妻となる、というのもあります。
皇極・斉明天皇は宝皇女です。
そういえば,孝徳天皇が寵妃・阿倍(あへ)氏に、鎌足の寝所の世話をさせました。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ce6325e108cda7d26e59fa5fd8e16209
「隠された十字架」の変なところ③ 2006年02月03日

橘三千代は美努王と離別し藤原不比等の妻となる,というのもありました。

さて、舒明天皇は、高向王と結婚して,すでに漢皇子を産んでいた人を皇后にしたことになります。
やはり奇妙です。
この見方をちょっとひねってみます。
高向王は自分の妃を舒明天皇に下げ渡した。
下げ渡したでは,あまりに変ですから、譲ったとしときましょう。
それでも,変な感じです。
そこで、発想を飛躍させます。
舒明天皇も自分の妃を高向王に譲ります。
それでも,この等式は成り立ちそうにありません。
高向王と舒明天皇ではイーブンにならないからです。
しかし、成り立ちうる場合があります。
高向王が百済王だった場合です。
あり得ないでしょうが、皇后を交換するとなったら、互いの国の秘密を筒抜けになることもあるでしょう。
それよりも,互いの信頼を強固にする手立てとしてあり得るかもしれません。
国同士の場合は同盟の証・強化となると考えたのかもしれません。
皇后ではいくら何でも行き過ぎですから。一歩譲って,互いの寵妃の交換としてもいいです。
(孝徳天皇は寵妃阿倍(あへ)氏に鎌足の寝所の世話をさせました。)

では、高向王が百済王となりうるでしょうか。
そうでなければ、釣り合いがとれません。
百済王を高向王として表現することならば,「実際にあったことを勘違いして記述するという魏志倭人伝」の手法?を真似することになります。
強引ですし,無理もありましょうが,進めます。《コメント欄は長いことみていません》
「高向王」を分解して「高・向・王」にします。
「高」を「高句麗」として「向」と合わせて、「高句麗に向き合う・王」とすれば
「高向王」が「百済王」に変換できないか。
無理と思われましょうが,こうすると,今まで理解不可能な部分だったところが,解釈することも可能です。
まず「宝皇女(皇極・斉明天皇)」が「百済国王(おそらく義慈王)」の皇后ならば、
舒明天皇に嫁ぐ前に産んでいた「漢皇子」とは「百済の皇太子もしくは単に皇子」で「百済国王・義慈王の皇太子(または皇子)」となります。
それならば,舒明天皇が皇后として受け入れることも可能かもしれません。

そして、百済滅亡後、斉明天皇は軍隊とともに、朝鮮に向かい九州朝倉の地で崩御します。
《天皇ではないと考えていますが、日本書紀上では天皇ということになっています》
なぜ、女帝自ら出陣、しかも海の向こうに、しようとしたのでしょうか。
《百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。》ウィキペディア・斉明天皇
なぜそこまでして百済を助けようとしたのでしょうか。
百済の皇女・皇后・寵妃ということで百済人〈百済出身の皇族〉だったからではないでしょうか。
「宝皇女」の「宝」は,以前も考えましたが〈百済〉のことでしょう。(宝の国・神功皇后)
舒明天皇の皇后・皇極〈重祚して斉明〉天皇は少なくとも百済出身の王族・義慈王の寵妃だったから、でないと困ります。

百済と大和朝廷で妃の交換があったのではないか、という発想で考えました。
人質として日本に来た百済王(王子)豊璋にもそれがあったでしょう。

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