古代日本史への情熱

記・紀・源氏は魏志倭人伝の奇跡的で運命的な間違い方(逆)の構造どおりに記述されている。倭人伝にあるのは現代史と未来史

716年に出雲大社は現在の位置に移る

2018年11月10日 18時34分16秒 | Weblog
716年に出雲大社〔杵築大社〕は現在の位置に移った、とされています。
出雲大社が現在地にできたのは、710年の平城京遷都とされている時だったのではないか、と考えたこともありましたが、716年と知って多少納得するところがありました。
(検索すればすぐわかることなのに、見た覚えがありません。忘れることが多い。やばい。まぁ、いいか。その説は最下段にリンクしました。)

ともあれ、その場合、真の平城京遷都は716年と考えます。
といいますのは、私の想像では、平城京は藤原京の副都として造られました。
710年の時点では、あくまでも、藤原京が首都でした。

平城京造営のきっかけは藤原不比等と文武天皇の確執もしくは反目があったからです。ここに物部連麻呂が絡みます。
何度も書いているのではしょりますが、連麻呂は不比等に味方し、文武天皇を殺害します。崇峻天皇-蘇我馬子―東漢直駒の関係です。
また、継体天皇、物部麁鹿火、磐井の乱にも反映されている気がしています。

https://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/ee1cbaa32447a3ae18bddb7ff6272870
継体天皇が与えた斧鉞は『七支刀』ではないでしょうか 2009年11月30日
527年継体天皇が物部麁鹿火に磐井の乱を鎮圧したならば筑紫を与えると宣言したのは、706年藤原不比等が物部連麻呂に文武天皇を倒したならば難波を与えると宣言したことを裏付けるものと考えています。

不比等は連麻呂に七支刀を与えて王位を保証し、藤原京を任せます。
継体天皇は物部麁鹿火に筑紫を与えましたが、これは実は筑紫のことでなく、澪つくし(みおつくし)とし、筑紫ではなく難波のことだった、としました。
しかし、藤原京のことだったのではないか。
当時の道路事情では、藤原京を押さえることは難波も押さえられたのではないか。(都合よく解釈します)

さて、716年に現在地に出雲大社が造られたとします。それはなぜか、というと、私流の解釈では、
まず、現在の状況では、皇大神宮(伊勢神宮・内宮)→平城京・朱雀門→出雲大社→武寧王陵は一直線上になっています。
どう考えるかというと、その直線とまるで関係なく、まず初めに皇大神宮(伊勢神宮・内宮)が造られていました。
次に平城京が考えられたときに、皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-百済・武寧王陵(ムリョンワンヌン)の直線上に副都・平城京をおきました。
百済から戻ってきた卑弥呼・臺与(とよ)の子孫が主体となって造った副都だからです。もともと首都にするつもりはありませんでした。
しかし、716年というと物部連麻呂の亡くなる前年です。(717年薨去)
連麻呂は王位を辞退します。(天皇であってもおかしくはありません。七支刀。)
子孫のことを考えたとき、王位にあっても、権力争いは子孫を幸せにするはずがない、と連麻呂は考えたのではないか。
(瀧原宮-平城宮-白兎神社-平壌・安鶴宮跡も一直線になりそうです。保留)

平城京を都に昇格させることになります。そこで、別の場所にあった出雲大社を線上の杵築に移動させました。
(何処にあったのか検索してもわかりません。)
ともかく、順番としてはそうなります。

で、とりあえず、皇大神宮(伊勢神宮・内宮)の位置です。


△皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-焼津神社-熱田神宮は直角三角形。
△皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-焼津神社-伊吹山は直角三角形。
これらはすでに検討しています。覚えています。
△皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-藤原宮跡-伊吹山は正三角形、
△皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-伊吹山-藤原宮跡は二等辺三角形になりそう。
これらもやっている可能性はありますが、
これらの位置は日本武尊と関連が深いのではないでしょうか。

△伊吹山寺-難波宮跡-皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
伊吹山寺→難波宮跡
 ①224°45′34.32″ ②44°15′11.68″ ③114,737.097(m)
皇大神宮(伊勢神宮・内宮)→難波宮跡
 ①283°06′58.86″ ②102°26′03.92″ ③113,088.300(m)
伊吹山寺→皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
 ①164°35′29.42″ ②344°46′29.74″ ③110,771.714(m)

伊吹山寺での角度
 224°45′34.32″-164°35′29.42″=60°10′04.90″≒60.1680度
難波宮跡での角度
 102°26′03.92″-44°15′11.68″=58°10′52.24″≒58.1812度
皇大神宮(伊勢神宮・内宮)での角度
 344°46′29.74″-283°06′58.86″=61°39′30.88″≒61.6586度

伊吹山と皇大神宮(伊勢神宮・内宮)の距離が少し短い。
伊吹山も広いですから、どこかにピッタリとなる位置があるでしょう。

△伊吹山寺-皇大神宮(伊勢神宮・内宮)-藤原宮跡
伊吹山寺→皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
 ①164°35′29.42″ ②344°46′29.74″ ③110,771.714(m)
伊吹山寺→藤原宮跡
 ①208°24′32.17″ ②28°03′59.76″ ③115,324.696(m)
皇大神宮(伊勢神宮・内宮)→藤原宮跡
 ①273°48′50.03″ ②93°17′39.77″ ③84,464.993(m)

伊吹山寺での角度
 208°24′32.17″-164°35′29.42″=43°49′02.75″≒43.8174度
皇大神宮(伊勢神宮・内宮)での角度
 344°46′29.74″-273°48′50.03″=70°57′39.71″≒70.9610度
藤原宮跡での角度
 93°17′39.77″-28°03′59.76″=65°13′40.01″≒65.2278度

やはり、ここも伊吹山と皇大神宮(伊勢神宮・内宮)の距離が短い。
例の頂点が45度、底角が67.5度の二等辺三角形に近いと思えます。

伊吹山寺
北緯35度25分04.89秒 東経136度24分17.58秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=352504.89&l=1362417.58

皇大神宮(伊勢神宮・内宮)
北緯34度27分18.00秒 東経136度43分30.60秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=342718.00&l=1364330.60

藤原宮跡
北緯34度30分07.93秒、東経135度48分26.89秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343007.93&l=1354826.89

難波宮跡
北緯34度40分49.57秒、東経135度31分23.91秒
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=344049.57&l=1353123.91

http://shinyash.jp/201706/izumotaisya.html
『出雲国造世系譜』によると、出雲大社は西暦716年に島根県松江市大庭町から島根県出雲市大社町杵築の地に遷宮されたと記されているが、それが本当かよく分からない。

https://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/55ad5c42041c47d98e411042c731afb8
出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。

http://www.y-tohara.com/izumo-kumano.html
 この地位の逆転がおこったのは、出雲国造家が本貫の地・意宇郡から西方・出雲郡杵築の地へ移ったこと(西遷)が関係するのではないかという。
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