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ベルナール・ミロー氏の神風特攻隊への所感

2012年03月17日 16時52分39秒 | 歴史

外国人から見た神風からの転載です。

このサイトは以前にもアンドレ・マルローの言葉を載せていたのを転載しましたが、とても参考になるので、もっと見てみたいと思い訪問しましたら、アンドレ・マルローと同じくフランス人の著書が紹介されており、やはりマルローとよく似たことを言っていました。フランス人というのは、非常に繊細な芸術感覚を持つと言われるだけあって、日本人の感性というものを理解しやすいのだろうかと思ったりします。非常に深く神風特攻隊のことを研究していて、今の日本人よりもよほど、特攻隊の若者の心情を理解していると思いました。

日本人が日本人のことを知らない、理解しないということは悲しい事です。日本らしさを知らない日本人、しかし本当は自らのうちに必ずあるはずなのに、それを気づかないでいる日本人が悲しいですね。

東日本大震災で、思わず発露した日本人の本姓が、日本人としてのあり方を問い直すきっかけになってほしいものです。


 

著作「神風」ベルナールミロー


 

 特攻に関する著作のうち、外国人によるものもいくらか見受けられる。私は二冊、訳されたものを読んでみた。両方とも実によく研究されている。
 
このベルナール・ミロー氏の著作は日本人が特攻にまで至ったこと を表層のみではなく、日本の歴史を深く研究し、日本人でさえ気づかないところにまで掘り下げて特攻を研究している。その一部をここに引用する。残念ながら このベルナール・ミロー氏の「神風」は絶版となっており、図書館で借りるか、古本屋で探すしかない状況だ。ちなみに私の場合、神田の古本屋に注文して約半 年後に入手することができた。


●ベルナール・ミロー略歴(「神風」より引用)
 1929年パ リに生まれる。ジャーナリスト。第二次世界大戦に関する記事には定評がある。20歳のとき太平洋戦争に関する極めて重要な資料を収集。「太平洋戦争」のタ イトルで上梓された二巻(「日本の進撃」「アメリカの逆襲」共にロベール・ラフォン刊)は、太平洋地域の戦闘に関する権威となっている。

●緒言
 「緒言」 (2001/4/29写真追加)においてこの著書の目的が明確にあらわされている。すなわち、日本人の伝統的思考の作用を理解し、日本軍の精神的世襲財産 と戦術的自殺攻撃(特攻)のつながりを明らかにしていくということである。簡単に言えば、日本人は伝統的にどのような思考を行っていたのか、そこからどの ように特攻へと至っていったのかを明らかにするということである。しかも、西欧人の偏見を避け、できるだけ客観的にと述べている。

●「驚くべき日本」
 第1章「驚くべき日本」
の「自己犠牲を勇気づけるもの」という最初の項目で「特攻」の本質的な特徴に触れている。すなわち、日本人の行った特攻の本質的な特徴は
 
「単に多数の敵を自分同様の死にひきずりこもうとして、生きた人間が一種の人間爆弾と化して敵にとびかかるという、その行為にあるのではない。その真の特徴はこの行動を成就するために、決行に先んじて数日前、ときとしては数週間、数ヶ月も前から、あらかじめその決心がなされていたという点にある。そ してこの特殊な点こそが、我々西欧人にとっては最も受け容れがたい点である。それは我々の生活信条、道徳、思想といったものとまさに正反対で、真向から対 立してしまうことだからである。我々の世界には、いまだかつてこれと同様のことも似たようなことも事実としてあったためしをきかない。あらかじめ熟慮され ていた計画的な死--くり返していうが、これは決して行為ではない--、そうしたものの美学が我々を感動させることはあっても、我々の精神にとってはその ようなことは思いもつかぬことであり、絶対にあり得ないことである。」(「神風」より引用)であると述べている。そして、本書の目的を着実に著している。

●「遺書」
 
第9章(最終章)の「遺書」の項にて次のように述べている。
 
「た だ著者はもうひとつだけ、大変重要なことをこれにつけ加えておきたいと思う。それは戦後かなりの広範囲に行われたアンケートによってこれら特攻に散華した 若者たちの人となりに、新たな光をあてることになったある事実である。特攻隊員に関して真実を知りたいと願う有志の手で、多くの調査報告がなされている。
  これらの調査のほとんど全部が一致して報告していることは、特攻に散った若者の圧倒的な大多数のものが、各自の家庭にあっては最も良き息子であったという ことの発見である。きわめて稀な少数の例外を除いて、彼らのほとんどは最も愛情深く、高い教育を受け、すれてもひねくれてもいず、生活態度の清潔な青年た ちであった。そして両親に最も満足を与えていた存在だったのである。」

さらに、西欧における特攻についての偏見に対し次のように述べている。

  「このようにすぐれた息子たちであっただけに、そのような者が特攻に散華したことは遺族たちの悲嘆と痛惜をいっそう深めたのであったが、またアンケートの 結果判明したこのような事実は、我々西欧社会のあいだにあまりにも普及して通説になってしまっている観念、すなわち彼らが人間らしい感情をもち合わせず、 人間の尊厳について無感動な、いまわしい集団心理に踊らされた動物だったという見方に、真向から痛撃を加えて、それがいかに甚しく誤っているかということ をいやおうなく悟らしめるのである。
  ほんのひとにぎりの狂燥的人間なら、世界のどの国にだってかならず存在する。彼ら日本の特攻隊員たちはまったくその反対で、冷静で、正常な意識をもち、意欲的で、かつ明晰な人柄の人間だったのである。

  多くの特攻隊員たちの書き残したものや、彼らを知る人々の談話の中からうかがい知られる勇気を秘めたおだやかさや理性をともなった決意というものもまた、 彼らの行為が激情や憤怒の発作であったとする意見を粉砕するに十分である。彼らから憤怒のえじきになり、激情の発作にかられた人間を想像することは不可能 である。数日、いやときには数週間というもののあいだ、ずっと憤怒の発作にかられつづけている人間など、この世に実在しはしない。」

ここでいう西欧人は、今現在の日本人にも当てはまると私には感じられる。

●「彼らの教えたもの」 
 第9章の「彼らの教えたもの」
では著者はこのように述べるにまでいたっている。
  「この日本と日本人がアメリカのプラグマティズムと正面衝突をし、そして戦争末期 の数ヶ月間にアメリカの圧倒的な物量と技術的優位の前に、決定的な優勢を敵に許してしまったとき、日本人は対抗手段を過去からひき出してきた。すなわち伝 統的な国家への殉死、肉弾攻撃法である。
  このことをしも、我々西欧人はわらったり、あわれんだりしていいものであろうか。むしろそれは偉大な純粋性の発露ではなかろうか。日本国民はそれをあえて 実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最後の国民となったと著者は考える。
  たしかに我々西欧人は戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、無感動のままでいることも到 底できないのである。彼らを活気づけていた論理がどうあれ、彼らの勇気、決意、、自己犠牲には、感嘆を禁じ得ないし、また禁ずべきではない。彼らは人間と いうものがそのようであり得ることの可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである。」

そして最後において著者が最も述べたかったことを次のように記述している。

 「本書の目的は、そのような皮相的 な見方から一歩踏みこんで、西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮 の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達した点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすること にあった。
  著者は日本において2000年間眠りつづけてきたハスの実が、栽培されて開華したことを耳にしたことがある。その花に著者は神風の精神をなんとなくなぞらえてみたくなった。

  たしかに日本人の実行したこの突飛な飛躍はむなしい。結果としてのいたましい敗戦に、この行為はあまりにも不合理とも見えよう。そしてこの行為に散華した 若者たちの命は、あらゆる戦争におけると同様に無益であった。しかし、彼らの採った手段があまりにも過剰でかつ恐ろしいものだったにしても、これら日本の 英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものにつて教訓を与えてくれた。彼らは1000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられて しまったことの使命を、とり出して見せつけてくれたのである。」

 


大ウソ、南京大虐殺なんぞ、ひねり潰せ

2012年03月15日 12時36分20秒 | 歴史

My favorite ~Osaka, Japan~からの転載です。

かなり前の記事ですが、このブログ主の小気味の良いズバリと本質をついた言い方が実に気に入リました。具体的な例証も、この南京事件がプロパガンダのための捏造であることをはっきりと象徴的に明示していますね。

 

 

河村たかし名古屋市長は23日午前、南京事件を否定する発言について「撤回したら
(政治家として)生きていられない」などと報道陣に述べ、撤回しない姿勢を改めて示した。

また「衆院議員時代にまとめた政策集『河村ビジョン』に書いている」と、
一連の発言は従来の自身の外交論に基づいていると説明した。

「河村ビジョン」は08年に発表。「『南京大虐殺記念館』や『盧溝橋記念館』などにも行き、
言うべきことは言う。主張しなければ、外交は成り立たない」と記している。
http://mainichi.jp/photo/news/20120223k0000e010187000c.html
 
 
南京大虐殺は無かった。
 
無いもんは無い。
 
 
 
シナの言うことは全部ウソ。
 
作るもんも全部パッチモン(ニセモノ)。
 
食品もニセモノ(毒)を混入して儲かれば良いとしか考えてない。
 
 
 
南京大虐殺なんて
 
その集大成とも言える大ウソだ。
 
 
 
アイリス・チャンの「レイプ・オブ・ナンキン」に
 
掲載された写真も
 
歴史的史料として検討できるものは
 
一枚も無かった
 
 
 
 
作者のアイリス・チャンは
 
シナ共産党にそそのかされて書いて
 
美人だということでアメリカで話題になったが
 
最期はオカシクなって自殺したなぁ。
 
 
 
 
例えばこんな感じ
 
 
イメージ 1
 
 
全てがこんな感じで
 
シナ人を日本兵に変装させて
 
悪さをしてる写真を撮っては日本を非難。
 
 
 
だがシナ人のやることなので(=アホ)
 
ウソ丸見えですぐバレる。
 
 
 
 
お次ぎは
 
ライフ誌にも使われた有名なプロパガンダ写真。
 
イメージ 2
 
赤ん坊がひとりぽっちで泣いてる・・・
 
こういう写真にアメリカ人は弱い。
 
 
 
「爆撃跡で泣く幼児」ってキャプションだが
 
爆撃とは関係ない場所(武器集積地の上海南停車場)で
 
米国籍の王小亭が撮影した。
 
 
 
実際は↓こうやって撮ってトリミングしたわけだ。
 
イメージ 3
 
反日プロパガンダ映画「バトルオブチャイナ」で使用するために使われた。
 
王って写真家は反日を半世紀以上続けているハースト系の通信社の
 
上海支局長も兼ねていたこともバレている。
 
 
 
 
写真説明を勝手に変えるのは
 
シナ人の特技だ。
 
 
 
特技といってもウソとバレるので
 
特技と言うより、「宴会芸」ってところか。
 
 
 
アサヒグラフの写真も
 
イメージ 4
 
 
本来は
 
「わが兵士に護られて野良仕事より日の丸村に帰る女性や子どもたち」
 
だったのだが、
 
その後、シナは前方の写真に白いボカシを入れて
 
女性の笑顔を消し、
 
「日本軍に強姦、凌辱、輪姦、銃殺されるために連行されている婦女子」
 
と「宴会芸」をするw
 
 
 
 
 
南京大虐殺では30万人殺されたというが、
 
人口は20万人なので殺しようがない。
 
 
 
しかも大虐殺後に南京市内の人口が増えてるのはナゼか?
 
 
 
日本軍が統治して住みやすくなったので
 
民間人が戻ってきたのが真実だ。
 
 
 
民間人大虐殺を行ったのなら
 
その「実行犯」がいるはずだが、
 
誰だ? その日本兵は?
 
 
 
 
かなりの人数でないと30万人も殺せないんだが、
 
なんとその実行犯とされているのは
 
たった二人である。
 
 
 
いわゆる「百人斬り」でこれまたでっち上げられた
 
向井・野田の二名の少尉しかいないとされている。 (゜Д゜)ハァ?
 
 
 
もうどこまでシナ人ってのは
 
いいかげんで、ズルくて、卑怯なヤツらなんでしょう。
 
 
 
 
こんなヤツラと議論して
 
ヤツらが引くとは思えない。
 
 
 
 
 
 
ところが・・・だ・・・
 
 
 
 
安倍政権時代に 
 
日本人は、このインチキ写真に本気で怒ってると
 
伝えられたシナ人は虐殺記念館から先ほどの幼児の写真と
 
アサヒグラフの「日の丸村」の写真など3枚を
 
撤去したのである。
 
 
 
 
日本が怒ればシナは引くのである。
 
 
 
 
怒れ!日本人!
 
頑張れ!河村市長!
 
 
 
 
「減税」よりもシナ人に怒りをぶつけて
 
論破せよ!
 
 
 
アイツらは結局、
 
強いものには流される生き物なのである。



「数百万人ものユダヤ人らが大量殺戮されたホロコーストはユダヤ人らの空想」 ウォルター・ジョーンズ

2012年03月14日 22時41分20秒 | 歴史

Me pudet imprudentiae meae. (DOL冒険発見物)日本の底力!からの転載です。

第二次大戦の敗戦国を悪者にするためには、捏造も行ったということですね。確かに負けたほうが必ず悪い国というのは、おかしい話です。そのように戦勝国が歴史を作るのだということです。

しかし日本人は、戦勝国の言うままに歴史を信じこまされてきたのであり、日本は悪いことをしたと、今も思っている人がほとんどです。そして戦前の日本は間違っていたと、思っています。

南京大虐殺など、本当になかったのです。私も以前は、三十万人は嘘でも、たとえば数十人くらいの規模で虐殺があったのかもしれないと思っていた時もありますが、全く一人も虐殺はしてないのが事実であり、普通の戦闘行為はあっても、市民を虐殺などしてはいないのです。完全なでっち上げです。

日本の研究家が、細かいところまで、検証して、その結果、中国が言っていることが、すべてありえない矛盾や不整合があって、それが嘘だとバレています。又それを捏造した人間なども、わかっているのだから、いまさら、この南京大虐殺を「なかったとは言えない」などと答弁する政府は、どうかしています。


 

ユダヤ資本にとって最大のタブーが来たな。世の中には触れてはいけない禁則事項というものが存在する。だが、それが本当に 発生していたかなんていうのは安易に信じてはいけない。映像や写真があろうが、いくらでも合成や捏造はできるのだ。南京大虐殺も然り。このホロコーストも そうだ。

私たちは決して、相手の主張を一方的に鵜呑みにしてはならない。ユダヤ人にとって、ヒトラーを悪にするのは商売上に多額な利益が存在したことはいうまでもない。ユダヤ人は可哀想。ユダヤ人は戦争犠牲者だ。だが、金融を牛耳ってるユダヤグループが本当に可哀想なのか。

世界はこの究極のタブーに挑戦する時代が来たのだ。まあ、その真相が暴かれるのが今年になるかはわからない。だが、勝者が勝手に作った歴史が真実とは限らない。世界とはかくも資本主義という利益に支配されている。一体何があったのか。徹底的に検証するべきなのだ。

第2次大戦中の非道な行いをした。戦争の敗北者を徹底的に悪にするにはこのようなことが必要なのだ。だが、実際、悪なのはアメリカやロシアだったりする。アメリカは日本の広島、長崎に核爆弾を落とした。ロシアは自分たちで虐殺の事実を認めた。


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「数百万人ものユダヤ人らが大量殺戮されたホロコーストはユダヤ人らの空想」 ウォルター・ジョーンズ

米共和党下院議員、「ホロコースト発生の事実なし」



アメリカのウォルター・ジョーンズ共和党下院議員が、「第2次世界大戦で、ナチス・ドイツにより数百万人のユダヤ人や、その他の人物らが殺されたと主張する、いわゆるホロコーストが発生した事実は存在しない」と語りました。

プレスTVの報道によりますと、ジョーンズ議員は29日水曜、アメリカの新聞ハフィングトン・ポストとのインタビューにおいて、「ホロコーストは発生しておらず、このような出来事は20世紀最大の真っ赤な嘘と見なされる」と述べています。

また、「第2次世界大戦末期に、ナチス・ドイツにより数百万人ものユダヤ人らが大量殺戮されたというのは、でっちあげの虚言であり、ユダヤ人らの空想に過ぎない」としました。

さらに、「このようなことは、歴史に残る虚言であり、ユダヤ人らはこの虚偽の物語を創作するために数百万ドルを費やして、この事柄に関する書籍を執筆し、映画を制作した」と語っています。

ベトナム戦争の退役軍人であるジョーンズ議員はまた、アメリカの現状と第1次世界大戦後のドイツとを比較し、「アメリカは、経済、政治、文化、そして軍事面で支離滅裂の状態にある」と述べました。

そして、「サントラム元上院議員やギングリッチ議員のような好戦主義者、そしてロムニー議員のようなイランへの敵対姿勢を示す者の発言は、滑稽で笑止の沙汰である」としています。

米共和党下院議員、「ホロコースト発生の事実なし」





義和団事件と柴五郎

2012年03月10日 22時27分24秒 | 歴史

メルマガ【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.html よりの転載です。

義和団の乱で、活躍した柴五郎中佐がこれ程に素晴らしい指揮官だったとは、日本人として、非常に誇らしい話です。日本軍が規律正しかったことを、絶賛されています。この規律正しい日本の軍隊の伝統が、大東亜戦争時でも、それほど変化したとは思えません。南京事件など、蒋介石の宣伝省によって雇われた人間による捏造されたプロパガンダというのが真実だという話ですし、河村市長の発言を撤回するようにというマスコミの社説などによる圧力は、日本人としてどうかしているとしか思えません。歴史の検証は、どんどんやるべきであり、こうした言論への撤回圧力は、まさにマスコミ自身が、言論の自由を封じ込めるものではないでしょうか。

 

 

【神として敬慕された駐在武官】№928


黄文雄氏の心に響く言葉より…


1900年の義和団(ぎわだん)の乱当時、北京の諸外国公使館に対する20万の義和団軍の攻撃を最後まで防ぎ、大活躍したことで世にその名を知られ、北京市民にも神として敬慕されたのが、『北京籠城(ろうじょう)記』で知られる北京公使館付武官の柴五郎中佐である。

義和団は、排外主義を掲げ、外国人や外国人になびく中国人を襲い、次第に暴徒化していった。

これにより、北京の各公使館は完全に孤立する。

これが「北京籠城」である。


当時、公使館区域には、外国人925人、中国人クリスチャン3000人ほどが逃げ込んでいたが、各公使館の護衛と義勇兵は481人に過ぎなかったという。

北京公使館区での籠城戦では、日本軍の活躍が際立った。

その日本軍を指揮したのが、柴五郎中佐である。

 


柴中佐の勇猛さや優れた指揮官ぶりは外国人の賞賛の的となった。

それだけではない。

彼は、全籠城者三千数百名の食糧の分配や傷病者の看病などにも、細かな配慮を怠らなかった。


籠城戦に参加したロンドン・タイムズの特派員モリソンは、事変後に柴中佐以下、日本人の大活躍を大々的に報じた。

こうしたことが功を奏して、イギリスの対日感情は好転し、やがて「栄光ある孤立」を謳(うた)っていた同国が、日英同盟を結ぶきっかけになったともいわれれている。


柴五郎は、1872年に開設された陸軍士官学校の3期生で、同期には明治の軍人を代表する英才、異才が多かったことで有名だ。

「坂の上の雲」で有名な、秋山好古(よしふる)も同期だった。


2ヶ月におよぶ籠城中、日本軍がもっとも規律が正しく、その占領地の北城もすぐに治安が回復したので、商店も営業を再開したという。

そのため、市民は布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。

それに引き替え、ロシア軍に占領された区域は悲惨であった。

その地の住民たちは続々と日本の占領区に逃げ込み、保護を求めてきた。

北京市民の駆け込み寺と化した日本軍占領区で、軍全体を指揮する柴五郎は市民にとって守護神だったのである。

柴に帰国命令が出され、それが噂として一般に伝えられると町は大騒ぎとなり、老若男女こぞって別れを惜しみ、涙ぐんだという。


イギリス公使館の書記生ランスロット・ジャイルはこう述べている。

「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。

日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。

わがイギリス水兵がこれに次ぐ。

しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」


イギリス義勇兵のシンプソンは、以下のように記している。

「少なくとも500名の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか10数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。

この小男はいつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。

彼は部下を組織化し前線を強化した。

彼はなすべきことはすべてやった。

自分はこの男に傾倒してしまった。

自分はまもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。

…なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」

『世界から絶賛される日本人』徳間書店



柴五郎は、気骨の人、そして情の人であった。

そして、自らの功績は極力伏せ、あるいは功績を他者にゆずるなどした、無私の人であったという。


明治に活躍した日本人は、勇気と大胆さを合わせ持ち、同時に清廉(せいれん)潔白だった。

その人がいるだけで、その場が和やかになり、治(おさ)まった。


「柴五郎中佐」

かつて、世界から大絶賛された日本人がいたことを忘れないでいたい。



同じテーマの記事で、かつて日本は美しかったからの転載です。

世界が称賛した柴五郎。

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 明治33年(1900年)、清国で義 和団事件が起こります。義和団は排外運動を行う宗教的秘密結社で外国人宣教師等を殺害し、ドイツ公使と日本公使を殺害します。この頃、清朝は改革を推進す る光緒帝が失脚し、改革派は粛清され、西太后が実権を握っていました。政治力の落ちていた清朝は袁世凱の進言に耳を貸さず、義和団の呪術的なものを信じて 味方してしまいます。各国に宣戦布告してしまったのです。

 このとき活躍した日本人で柴五郎は有名です。柴五郎は会津藩の出身で10歳の とき戊辰戦争があり、敗れた会津藩士は青森県陸奥の不毛の地で極貧生活を強いられます。柴五郎はそれでも生き延びて東京へ出て陸軍幼年学校へ入学します。 そして義和団事件を通じてその名を世界に轟かせることになります。
 明治33年6月、北京で義和団と清国兵によって外国人への攻撃がはじまりま す。公使館付武官として赴任していた柴五郎中佐は状況を冷静に分析し、部下を叱咤激励しながら北京篭城戦を指揮します。当初白人らは日本人などあてにして いませんでしたが、やがて柴五郎の抜きん出た能力が評価されるようになります。

英国義勇兵のシンプソンという青年
「日 本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付のリュウトナン・コロネル・シバである。(中略) この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめてい た。彼は部下達を組織化し、さらに大勢の教民たちを召集して、前線を強化していた。実のところ、彼のなすべきことをすべてやった」

英国公使館書記生ランスロット・ジャイルズ
「日本兵がもっとも優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これにつづく。しかし、日本兵はずば抜けて一番だと思う」

英国公使マクドナルド
「北京篭城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」

アメリカ女性 ポリー・C・スミス
「柴 中佐は、小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷(こうみんこう)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。(中略) 柴 中佐は、王府での絶え間ない激戦でつねに快腕をるふるい、偉大な士官であることを実証しました。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援 を求めるようになったのです」

 北京篭城は55日間持ちこたえ、8月14日にはイギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアと日本の連合軍が北京を攻略し、翌日陥落。事態は収束し、清朝の西太后は西安に逃げてしまいます。

  この後、英国のマクドナルドは駐日大使になります。日英同盟の締結を推進していきます。脳裏には柴五郎中佐の活躍があったことでしょう。この当時、英国は 「光栄ある孤立」を誇りとしてどこの国とも同盟を結んでいませんでした。日英同盟は世界に冠たる大国イギリスが小国日本と同盟を結んだということで、世界 中が驚愕したのでした。
 この義和団事件でロシアも派兵していますが、北京の救援には行っていません。何をしていたかというと満州を制圧したのでした。そしてロシアは朝鮮半島をうかがい、日露戦争へと発展するのでした。



参考文献
 祥伝社黄金文庫「紫禁城の黄昏」R.F.ジョンストン(著) 中山理(訳) 渡辺昇一(監修)
 オークラ出版「世界から愛された日本」『世界に轟いた会津武士道』岩田温
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 PHP研究所「歴史街道」2009.11『日露戦争の真実』渡辺昇一
 PHP研究所「歴史街道」2010.06柴五郎と北京籠城
参考サイト
 WikiPedia「義和団の乱」「光緒帝」
添付画像
 明治35年(1902年)7月、ロシア・ペテルブルクを訪れ、歓待を受けたときの写真。中央が柴五郎。「歴史街道」2010.06より

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人権国家フランスの正体 ~ ベトナムと明号作戦

2012年03月09日 23時08分55秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

日本が侵略国家であり、アジアの国々に多大な迷惑をかけたという謝罪の言葉が、日本の政治家の決まり文句のようになっています。

連合国が正義であり、悪の枢軸国だった日本をやっつけたという、極東軍事裁判の史観が戦後ずっと日本の教育現場での教えられてきた事による成果でしょう。

しかし、きちんと本当の歴史を検証したことがあるのでしょうか。アジアの国々の歴史を見たのでしょうか

 

 

 

侵略国家は白人の国家。日本は侵略国家ではない。明号作戦!

S


 1858年8月31日、ベトナムのダ ナン軍港に侵入してきたフランスの軍艦の砲声によってベトナムの歴史は暗転しました。圧倒的なフランスの軍事力の前にベトナムは植民地時代に入ったので す。明治17年(1884年)、清仏戦争によりベトナムは清国との朝貢関係は絶たれ、完全に植民地化されました。この後、ベトナム人はフランスの高圧的態 度に憤慨し、クーデターを起こしますが、フランス軍に鎮圧され、ベトナムの皇帝である咸宜帝(ハムギてい)はアルジェリアに流されます。フランスは九歳の 成泰帝(タインタイてい)をつけ、皇帝のあらゆる権力を奪い名ばかりの皇帝にします。その後、第一次世界大戦中の蜂起を機に咸宜帝は維新帝(ズイタンて い)とともにレユニオン島の流しにされました。こうしてフランスはベトナム皇帝の権力を奪い侮蔑してベトナム人を悲憤させるわけです。

 当時ベトナム人の中にはフランスびいきで裕福な家もありました。。名誉白人に相当するのだと思いますが、こういう人はパリへ留学ができます。フランスは人権の国ですからパリへ行けば人権なるものを学び帰国します。

アンドレ・ビオリス(フランス作家)「インドシナSOS」 GHQ焚書図書開封2より
上流階級に属していたベトナム人がフランスから帰国して・・・

「彼は民主主義思想を持って帰り、フランスと協力をしようと考えていた。
  船から上がると総ての「フランス帰り」と同じようにたちまち彼も迫害の的になってしまった。彼の言うには、新聞を創刊し、それによって彼が私たちフランス 人から教えられた原理に従い、人間としての権威に欠くべからざる最小限度の自由を穏やかな調子で主張し始めたのだった。
 しかるに総督府はあらゆる手段を使って、この新聞を潰そうとした。すべての印刷所に命じて印刷を禁止した。郵便局はこれを配達しないか、さもなければ彼に返送した。彼は口頭または文書で抗議した。ふんじばられた。(逮捕された)」


 フランスの主張する自由と人権をベトナムに持ち込もうとすると逮捕されたのです。ひどい話です。有色人種は人ではないから自由も人権もないということでしょう。フランスの人権は自己都合のものです。

 下流階級のベトナム人がどのような扱いをうけたでしょうか。

囚人の収容施設にて

「茅 ぶきのバラックが長い列を作っていて、その中の一棟に入ったとき、私たちを迎えたものは呻き声と鉄の響きと、私の小鼻から離れない腐敗の臭気だった。窓が 無いので、暗さに慣れようとする私の眼に徐々に映って来るのは、足を鉄の鎖でつながれて二列にされ、木の枠に窮屈そうに詰め込まれて、坐ったり寝たりして いる囚人だった。バラック一棟に二百人の囚人が収容されていて、彼等は一斉に、その熱病患者のような絶望的な眼を私たちに向けて哀願の手をさしのべた。私 には黒い皮膚がその骨の上にこびりついた顔と、衰えて皹の入った唇と、一面に膿を持った傷だらけの手足が解った。
(中略)
 その生理的な衰弱は赤痢に対する抵抗力がないために、死ぬものが少なくない状態なのだ。死体の運搬は毎朝行われ、バラックの一棟に一日に平均2,3人の死亡があるということだった。
  囚人は大部分ここへ入れられてから数ヶ月経っている。彼等は何をしたというのだろう?博士と州知事とが協議して名簿を調べている間に、私はこのような質問 で数名の囚人に尋ねてみた。そしてそれを私に従ってきてくれたベトナム人が通訳してくれた。不幸な囚人たちは私の問いに低いもの憂い声で答えた。彼等は税 金が納められなかったのだ」


 人権国家の正体です。一応、フランスの名誉のために書いておくと上記引用はアンドレ・ビオリスさんというフランスの女性作家がベトナムでおこっている非人道的な行為をフランス本国で告発したものです。

  そして第二次世界大戦期、日本軍はベトナムに平和進駐し、フランスと同居することになりました。戦局が逼迫した昭和20年(1945年)3月9日、日本軍 は反仏クーデターを発動(明号作戦)。3万の日本軍は9万のフランス軍を撃破します。そして阮朝(グエンちょう)の保大帝(バオダイ帝)はベトナム帝国と してフランスからの独立を宣言しました。ラオス、カンボジアも同様に独立しました。保大帝は
「戦争終了後は友邦日本とともに苦難を越えて共同してゆきたい」と 語りました。日本敗戦後も多数の日本兵士がベトナム軍に参加しフランスと戦っています。(第一次インドシナ戦争) 昭和61年(1986年)に8人の元日 本兵がベトナム政府から表彰を受けています。フランスは人権国家で日本は侵略国家だったなんてわけありません。まったく逆だったのです。



参考文献
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 中公新書「物語 ヴェトナムの歴史」小倉貞男(著)
 WEB草紙「ベトナム秘史に生きる日本人」玉居子精宏(著)
  http://web.soshisha.com/archives/vietnam/2007_0802.php
参考サイト
 WikiPedia「ベトナム」「阮朝」「ベトナム帝国」

添付画像
 成泰帝(PD)

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