かつて日本は美しかったからの転載です。
日清戦争の頃の日本の情報網が実にしっかりとしたもので、それによって素早い対応ができたというのは、非常に学ぶべき点だと思います。
情報はほんとに大事なものですね。人の判断を左右するものですから、国家の行く末、国家の命運を左右するものです。現代の日本は、こうした情報をどれだけ重視しているでしょうか。現在、各国には諜報機関があり、これは日本で言われるスパイというような少しマイナスイメージを持ったものと違って、他国ではエリートです。ある意味、国家のために身を捨てて働いているくらいの立派なヒーローとして扱われているようです。
日本では、戦後諜報機関はなくなり、さらに外国の工作員やそれに協力するような日本人を取り締まるスパイ防止法も持っていません。
実際のところ他国では、国の重要なもの、必要なものと言われるものを、日本だけは持っていないことが多いのです。諜報に関することもそうであり、軍事に関しても、その法律面に関しても、さらには国際法を研究する人も少ないといいます。何か国としてかけている部分が、戦後の占領期間で、すっぽりと抜け落ちたままになっているといえるでしょう。
21世紀を迎えて、世界は動こうとしています。もはや冷戦時代の日米同盟の感覚では対処できません。激動の時代を迎えて、情報の遮断されたような平和ボケの国で、政治家すら何が起こっているのか知らず、また情報が例えあっても分析する知恵もなく、分析できたとしても判断を下す胆力もなく、どうやって国を引っ張っていくのでしょうか。
国家の風格は”情報”にあり。
明治27年(1894年)、朝鮮半島 で農民の反乱である東学党の乱が勃発し、6月12日に清国は出兵しました。日本へは天津条約に基づいて出兵を通告してきましたが、通告文の中に「属邦保 護」の文字がありました。日本の対韓政策は朝鮮の独立ですから、清国の兵力との均衡を保つため、出兵し、朝鮮半島の共同改革を提案しました。
清国の出兵は6月1日に朝鮮政府から派兵要請があったからですが、日本は翌6月2日に在留邦人保護のために派兵を閣議決定しています。すばやい動きです。これは参謀次長・川上操六や外務大臣の陸奥宗光がしっかりとした情報網をもっており、どうせそうなるだろうと準備万端だったからです。この頃は政治家が個人で情報網を作っており、伊藤博文などは情報網を持っていなかっため日清開戦に慎重だったようです。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると川上はプロシャ主義に基づき、「平和」なときからの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を知っておかなければならないと 考え、明治17年(1884年)からベトナムで清の軍隊の実情を調査させています。調査は福島安正、小島正保、小沢徳兵、小沢豁郎らに命じ、さらに青木宣 純を南支に3年間潜伏させています。義和団の乱で活躍した柴五郎も北支に潜入させています。明治20年(1887年)には朝鮮の調査を行い、上陸地や輸 送、戦略目標の選定などを行っています。国家国民の安全を考えるなら当たり前の行動でしょう。
日清開戦後、日本軍は成歓の戦い、平壌の 戦い、旅順の戦いと連戦連勝。日本軍は開戦前から清国は眠れる獅子というのは真っ赤なウソであり、精強な兵士はせいぜい3,4万、それでも国家のために命 をささげようなどというのはほとんどいない、ということを知っており、戦えば楽勝だということを知っていたのです。
清国軍は若い男性を拉致して 兵隊に仕立てています。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあり、兵に良民なしとも言いました。散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなりま す。逃亡してしまうのです。だから督戦隊の監視下で団塊の状態で戦わされていました。かたまっていますから日本軍が砲撃しようものならひとたまりもありま せんでした。また、清国兵は逃げれないように足を鎖で縛られたりしていました。こういった情報も持っていたことでしょう。
なぜ、当時このように情報を重視したのか。御茶ノ水女子大の藤原正彦名誉教授はその答えを「危機感」と述べています。江戸末期の黒船来襲から始まる、西洋の脅威。そして大陸から清国やロシアの脅威があり日本人は危機感を肌で感じ取ってきていたわけです。
今の日本はどうでしょうか。中華人民共和国、北朝鮮から核ミサイルを突きつけられていますが、どれくらい「危機感」を持って情報収集につとめているでしょうか。国民の意識はどうでしょうか・・・
参考文献
歴史通WiLL2010・1月「国家の風格は”情報”にあり」藤原正彦
文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
WikiPedia「日清戦争」「川上操六」
添付写真
川上操六(PD)