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小さな自然、その他いろいろ

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情報を重視した日清戦争

2012年04月01日 14時17分44秒 | 歴史

かつて日本は美しかったからの転載です。

日清戦争の頃の日本の情報網が実にしっかりとしたもので、それによって素早い対応ができたというのは、非常に学ぶべき点だと思います。

情報はほんとに大事なものですね。人の判断を左右するものですから、国家の行く末、国家の命運を左右するものです。現代の日本は、こうした情報をどれだけ重視しているでしょうか。現在、各国には諜報機関があり、これは日本で言われるスパイというような少しマイナスイメージを持ったものと違って、他国ではエリートです。ある意味、国家のために身を捨てて働いているくらいの立派なヒーローとして扱われているようです。

日本では、戦後諜報機関はなくなり、さらに外国の工作員やそれに協力するような日本人を取り締まるスパイ防止法も持っていません。

実際のところ他国では、国の重要なもの、必要なものと言われるものを、日本だけは持っていないことが多いのです。諜報に関することもそうであり、軍事に関しても、その法律面に関しても、さらには国際法を研究する人も少ないといいます。何か国としてかけている部分が、戦後の占領期間で、すっぽりと抜け落ちたままになっているといえるでしょう。

21世紀を迎えて、世界は動こうとしています。もはや冷戦時代の日米同盟の感覚では対処できません。激動の時代を迎えて、情報の遮断されたような平和ボケの国で、政治家すら何が起こっているのか知らず、また情報が例えあっても分析する知恵もなく、分析できたとしても判断を下す胆力もなく、どうやって国を引っ張っていくのでしょうか。

 

 

国家の風格は”情報”にあり。

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 明治27年(1894年)、朝鮮半島 で農民の反乱である東学党の乱が勃発し、6月12日に清国は出兵しました。日本へは天津条約に基づいて出兵を通告してきましたが、通告文の中に「属邦保 護」の文字がありました。日本の対韓政策は朝鮮の独立ですから、清国の兵力との均衡を保つため、出兵し、朝鮮半島の共同改革を提案しました。

 清国の出兵は6月1日に朝鮮政府から派兵要請があったからですが、日本は翌6月2日に在留邦人保護のために派兵を閣議決定しています。すばやい動きです。これは参謀次長・川上操六や外務大臣の陸奥宗光がしっかりとした情報網をもっており、どうせそうなるだろうと準備万端だったからです。この頃は政治家が個人で情報網を作っており、伊藤博文などは情報網を持っていなかっため日清開戦に慎重だったようです。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」によると川上はプロシャ主義に基づき、「平和」なときからの敵の政治情勢や社会情勢、それに軍事情勢を知っておかなければならないと 考え、明治17年(1884年)からベトナムで清の軍隊の実情を調査させています。調査は福島安正、小島正保、小沢徳兵、小沢豁郎らに命じ、さらに青木宣 純を南支に3年間潜伏させています。義和団の乱で活躍した柴五郎も北支に潜入させています。明治20年(1887年)には朝鮮の調査を行い、上陸地や輸 送、戦略目標の選定などを行っています。国家国民の安全を考えるなら当たり前の行動でしょう。

 日清開戦後、日本軍は成歓の戦い、平壌の 戦い、旅順の戦いと連戦連勝。日本軍は開戦前から清国は眠れる獅子というのは真っ赤なウソであり、精強な兵士はせいぜい3,4万、それでも国家のために命 をささげようなどというのはほとんどいない、ということを知っており、戦えば楽勝だということを知っていたのです。
 清国軍は若い男性を拉致して 兵隊に仕立てています。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあり、兵に良民なしとも言いました。散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなりま す。逃亡してしまうのです。だから督戦隊の監視下で団塊の状態で戦わされていました。かたまっていますから日本軍が砲撃しようものならひとたまりもありま せんでした。また、清国兵は逃げれないように足を鎖で縛られたりしていました。こういった情報も持っていたことでしょう。

 なぜ、当時このように情報を重視したのか。御茶ノ水女子大の藤原正彦名誉教授はその答えを「危機感」と述べています。江戸末期の黒船来襲から始まる、西洋の脅威。そして大陸から清国やロシアの脅威があり日本人は危機感を肌で感じ取ってきていたわけです。

 今の日本はどうでしょうか。中華人民共和国、北朝鮮から核ミサイルを突きつけられていますが、どれくらい「危機感」を持って情報収集につとめているでしょうか。国民の意識はどうでしょうか・・・



参考文献
 歴史通WiLL2010・1月「国家の風格は”情報”にあり」藤原正彦
 文春文庫「坂の上の雲」司馬遼太郎(著)
 PHP研究所「坂の上の雲のすべてがわかる本」後藤寿一監修
 朱鳥社「日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 転展社「大東亜戦争への道」中村粲(著)
参考サイト
 WikiPedia「日清戦争」「川上操六」

添付写真
 川上操六(PD)

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嘘を教える教科書はもういらない!

2012年03月31日 00時49分31秒 | 歴史

最 近少し忙しくて、ちょっと更新がなかなか思うようにできない時があります。数日、そんな感じで、ブログを放置している間に、さくらの花びらさんの記事がど んどん更新されていて、このかたの記事は読むといつも転載せずにおれないような感銘を受ける記事が多いのです。そこでとりあえず、さくらの花びらさんの水曜の記事を転載させて頂きました。


日 本の教科書なのに、日本を激しく悪者にして書いてあるのが日本の歴史教科書です。最近は既に、いろんな検証がなされて、これらの書いてある歴史が捏造であ ることも分かって来ているのです。今の歴史教科書は、占領軍による贖罪意識を植えつけて、二度と白人たちに逆らわないようにという洗脳のための歴史であ り、それをそのまま、占領後も占領軍の意思を引き継いだ共産主義者たちが、その方針を続けているのです。


河 村市長が南京大虐殺はなかったと思うと発言し、マスコミなどから、「何故素直に発言を撤回しない?」などと社説で叩かれ、政府は地方問題だと、名古屋と南 京市の問題であるかに責任逃避しており、経済界からは、日中関係が悪くなって経済に影響が出たら困るなどと言われながらも、信念をもって、発言は撤回し ないとおっしゃったことは、敬意に値すると思います。


鈴木史朗さんも、河村市長と同じ事を言っておられました。鈴木さんのお父さんが、終戦時に親切にしてもらったというのです。


大 体、あの当時の支那は統一された支那の軍隊はいなかったのであり、人種部族も多く、皆が日本を敵視していたわけではないのです。だから国民党の蒋介石 は、督戦といって、同じ支那人を鎖でつないで逃げられないようにして、戦わせるのです。これはアメリカ人などの白人が、現地人を日本兵と戦わせようとする 時に、縛り付けて逃げないようにして、銃を持たせて撃たせたり、背後から逃げようとすると撃ち殺して、前に進んで戦うしかないようにして、戦わせるやり方 です。


ま た、当時蒋介石くらい、支那人民を虐殺した人間はいない、と石原都知事なんかが言っていた気がします。同じ支那人でも、平気で殲滅するのです。それに、占 領した所をあとから来る日本兵が困るように、その街全体を破壊し、焼き討ちしたりして、何も残らないようにする作戦をよくとったといいます。


マスコミはこの南京虐殺に関して、全く検証しようとする姿勢もなく、ないと主張する説の説明すらしません。説明すれば、ない方が信憑性が高いことがわかりますが、真実が明らかになる方が困ると思って、やらないのではとすら思います。

 

 

 

 

 
 
 
嘘を教える歴史教科書というのは日本くらいでしょうか。世界でも珍しい国であります。
いや、日本だけではありませんでした。シナや韓国でも日本と同じように嘘の歴史を教えて子供に反日を植え付けているのです。
ただ、日本と違うのはシナや韓国は、自分たちは悪くない、悪いのは日本ということでありますが、日本の場合は自分で自分にことを悪いと決めつけて、シナや韓国は被害者だったと言わんばかりの教科書であります。
 
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高校教科書検定 南京事件 中国主張初否定も
河村たかし名古屋市長がその存在を否定したことで波紋を広げた「南京事件」。
過 去十数年の研究で、戦闘による死者は万単位であっても、民間人の大量虐殺はなかったことが判明しつつあるが、今回検定に合格した日本史教科書6冊のうち4 冊が、中国政府の主張する「30万人」や「20万人」といった犠牲者数を従来通り記述。一方で「30万人説は誇大」と初めて否定した出版社もあっ た。・・・・・・。
文部科学省は「日中の戦闘行為ではなく日本軍によって多数の死傷者が出たことが南京事件。特定の犠牲者数が書いてあるものについては、諸説や議論があることが分かる記述を求めている」と説明する。
南京事件に詳しい拓殖大学の藤岡信勝客員教授は「大虐殺説を唱える学者で今も30万人説を主張する人はほとんどいない。30万人説が検定を合格するのは極めて不適切。諸説があることの記述を求めるなら、虚構説の記述も求めるべきだ」と指摘している。(産経新聞2012.3.28)
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<歴史のまど> 首都南京で大虐殺おこる
1937(昭和12)年、日本軍は国民政府の首都南京を占領した。その前後数週間のあいだに、日本軍は南京市内外で捕虜、投降兵はじめ女性や子供を含む中国人約20万人を殺害し、略奪、放火や女性への暴行をおこなった。当時の中島師団長は、12月13日の日記に捕虜にはしない方針であり、佐々木部隊だけで約1万5000人を「処理」したと記した。
南京での大虐殺事件は、日本国内には知らされず、東京・名古屋・大阪などでは「南京陥落」を祝って提灯行列が行われていたが、・・・
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これが今回の高校教科書の内容の一部です。
これに対しての反論は多くの良識ある本で書かれていますのでここでは省きますが、「中島師団長」「佐々木部隊」の「処理した」は、よくネットでもおかしな奴(左翼?)がコメント入れてくるような内容であります。
南京を歴史教科書で取上げるのになぜこんな細かいことをわざわざ取り上げるのでしょう。高校生に教える歴史にしてはマニアっぽくないでしょうか。これはいかにも南京虐殺があったという証拠を教科書に書いたようなものです。証拠らしい証拠がない南京事件ですからこうなるのでしょう。
 
し かし、本来書くべきは、南京攻撃前の再三にわたる日本軍の降伏勧告に従わなかったシナ軍のことであり、松井石根司令官率いる南京陥落や南京での国旗掲揚式 の誇らしい瞬間であり、戦い後に速やかに戻ってきた南京市民と日本軍の和気あいあいとした笑顔、日本軍に感謝する南京の子供たちのことであります。さらに シナ国民党の指揮官である唐智生が戦いの途中で逃げたため支那兵が混乱し、逃げるシナ兵をシナ督戦隊が大量に撃ち殺したこと、国際法違反の便衣兵など、教 科書に書くべきはこちらの方が優先順位が高いはずです。
 
大体、目撃者のいない大虐殺ってあり得るでしょうか?
証拠が何一つない大虐殺って信じることができますか?
また、文科省の言う「日中戦闘行為ではなく日本軍によって多数の死傷者が出たことが南京事件」というものが一体どこにあったのでしょうか。
「日本国内には知らされず」も日本はかん口令さえ出ていないのですから「知らされず」ではなく「なかった」というのが正しいのです。
 
我が国の歴史教科書はいつになったら正しく書かれるのでしょうか。
正された暁には出来ればこういうことも書いて頂きたいと思います。
「我 が国の歴史教科書は戦後六十数年間、誤判と復讐と公正でない東京裁判の自虐史観を、シナや韓国に無用の配慮をして嘘の歴史を学校で教えていた時期があっ た。これは正しい歴史を教えようとするものではなく、誇りある日本が大嫌いな左翼、出版社の売れれば何でもありという儲け主義、そして日本の歴史を知らな い愚かな政治家のためにシナや韓国に政治利用された嘘の歴史を子供たちに教えてきたという悪弊であった。
このように日本は長い間、我々子孫と御国のために亡くなられた靖国神社の英霊たちを悪者扱いし、誇りも名誉も見出すことが出来ず、する必要のない謝罪と無駄な賠償をし続けてきたのです」
 
今回の教科書検定で韓国は日本が主張している「竹島」について書かれているので大騒ぎです。
しかし、シナは「南京事件」についての反応は特にありません。反応がないということ自体、日本のためになっていない教科書ということです。
河村市長があれほど頑張っているのです。あまりの頑張りにマスコミやシナはおとなしくなってきました。このままこれが鎮まるのは惜しい気がします。どうせならもっと南京事件を騒いでこの際一機に嘘を暴きだしてしまいましょう。
 
 
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お花見の始まり 江戸の一本桜

2012年03月29日 11時52分57秒 | 歴史

【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.html よりの転載です。一本の名木を愛でるのが本来の花見だそうです。こういう情緒は日本人ならではの感性ですね。桜の花が静かに咲いているのは、華やかさがあるとはいえ、何処かわび、さびに通じるものがあり、花の下に立つ、西行や芭蕉の姿を思い浮かべてしまいます。

 

 

『江戸の庶民の朝から晩まで』の中から、心に響く言葉より…


江戸で桜の名所として有名だったのは、上野の寛永寺だ。

この花見の習慣、もともとは「一本桜」といって、一本の桜の名木を楽しむものだった。

江戸には、三十三桜と呼ばれる名木があり、三間もあるような大きな老木が珍重された。


そして、たとえば武家であれば、酒をひょうたんに入れてお供をひとり連れ、その名木の下へ行って花を愛でながら酒を嗜(たしな)む。

町人でも教養のある者は、静かに歌を詠んだりして過ごす…これが本来の花見だったのである。


ところが、天保(1830年)の頃になると、「飲んで食べて騒ぐのが花見ってもんよ」という江戸っ子連中が現われた。

なにしろ、この連中は飲んでおおはしゃぎするのが目的だから、一本桜などには目もくれない。

「いっぺんに咲いていたほうが派手でいいじゃねぇか」というわけで、やがて桜の木がズラリと並んでいる場所が、人気のお花見スポットになっていったのである。


めずらしいところでは、吉原遊郭でも花見をすることができた。

といっても、もともと吉原に桜の木はない。

毎年三月になると、よそから桜の木を移植してきて、わざわざ桜並木をつくったのである。


「昨日まで ない花の咲く 面白さ」と川柳にも詠まれているが、夢を売る吉原ならではの手の込んだ趣向であった。

『江戸の庶民の朝から晩まで』KAWADE夢文庫



毎年この時期になると、「深山(みやま)の桜」の話を思い出す。

深山の桜は山奥にひっそりと咲く一本桜の大木だ。

はじめの頃は、誰も気づかないので、そこまでの道がない。

しかし、何年かたつうち、人々の間で少しずつ知られるようになり、多くの人が通い、その桜木までの道ができる。

さらに年月が過ぎると、道はさらに太くなり、ふもとに家も建ち、店もできる。


深山の桜は、自ら誇ることもしないし、宣伝することもない。

人や店も同じで、その人(店)に本当の魅力があるなら、威張ったり、虚勢をはらずとも、その人(店)にひと目会いたいと国中から人は集まる。


「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛禅師)



桜は己を誇らず、ただ咲いて、ただ散っていく。


深山の桜のような、魅力ある人でありたい。


日本の底力さんが、TPPのニュース

【「環太平洋連携協定(TPP)はビートルズだ」。野田佳彦首相は24日の都内での講演で、TPP交渉参加を検討している日本の立場を、英人気ロックバンドのメンバーに例えて説明、政府の方針に理解を求めた。

首相は「日本はポール・マッカートニーだ。ポールのいないビートルズはあり得ない」と強調。その上で「米国はジョン・レノンだ。この2人がきちっとハーモニーしなければいけない」と述べ、日本の交渉参加への決意を重ねて示した。】

について、「わからない。例えがさっぱりわからない。野田総理、例えというのは自分の言いたいことをわかりやすく相手に伝えるために存在するものだ。それがなんだ。TPPの何に関連して、日本はポール・マッカートニーなんだ。」とおっしゃっていた。

私もそう思います。こんな人に、日本の舵取りを任せていて大丈夫なのでしょうか、すべて官僚任せではないのでしょうか。官僚がきちんと国益を判断できればいいですが、省益や出世、あるいは米国の思惑に媚びることが習慣になっているとかがあれば、日本の国民はいい迷惑です。大体何のために政治家がいるのでしょうか。

今日も消費増税の党内議論の話で閣議決定するとかしないとか言っていました。野田総理は不退転の決意とか言われてますが、きちんと経済がわかって言っているのか、官僚に言わされているのか、いくら言葉だけは勇ましくても、信念の感じられない言葉は、言えばいうほど頼りなく、不安ばかり募りますね。深山の桜とまで行かなくても、せめて、少しくらい実力や魅力が今の政治家に欲しいものです。


張作霖爆殺事件の容疑者

2012年03月26日 13時23分52秒 | 歴史

国際派日本人養成講座からの転載です。


張作霖爆殺事件は、歴史教科書でも日本軍がやったと習いましたし、当時もそのように考えていたようですが、どうやらソ連が真犯人のようです。


日本人は外国の工作というものに、あまり疑いを持ってなかったというか、国際関係というものに、慣れていない国だったということですね。これは島国で、長年にわたって、内向きでやって行く時代が長かったということからきている、仕方のない特徴なんでしょう。或る意味馬鹿正直な国だったということです。

さらに戦後は、東京裁判の茶番劇と、GHQの公職追放令で、左翼、共産主義者が、国の官民あらゆる分野で、主導権を取ったことで、ソ連中国の工作活動は隠されて、それらすべてが日本軍の仕業にされてきました。日本人は、日本人を悪者とする歴史を作り上げられ教え込まれてきたのです。



 

 

■1.「深紅の炎が暁闇を破って」

 現代史家の秦郁彦氏は、その光景を次のように描いている。

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 ドドッ、ドカーン! ドカーン!

 耳をつんざく轟音とともに、深紅の炎が暁闇を破って噴き上げる。破片と火の粉が降り注ぎ、陸橋一帯は黒煙に包まれた。計2百キログラムの黄色火薬が、張作霖の乗る展望車を直撃したのである。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 東京裁判は「1928年の張作霖事件から1945年の終戦までの日本国の戦争犯罪を裁く」としており、その発端とされたのが、この爆殺事件だった。事件の経緯を、育鵬社の中学歴史教科書『新しい日本の歴史』はこう説明している。

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 中国では、辛亥革命のあと、軍閥による地方政権が各地に分立していました。孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、南京に国民政府を樹立しました。そして軍の近代化をはかるとともに、中国の統一をめざし、張作霖が率いる北京政府を打倒する戦いを開始しました(北伐)。・・・

 国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は、日本政府の説得で、満州に引き上げようとしましたが、途中、日本軍によって列車を爆破され死亡しました。
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 この記述で理解できないのは、日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、なぜ日本軍が爆殺しなければならなかったのか、という点である。論理がつながっていない。


■2.日本軍の仕業かどうかは未確定

 確かに、日本軍の仕業と思わせる証拠はあった。爆破現場から200mほど離れた所にある日本兵の監視所まで、爆弾点火のための電線が残されていたとか、使用されたのが日本軍以外には使っていない高級な黄色火薬であるとか。さらに首謀者とみられる関東軍参謀の河本大作大佐が、以前から張作霖を除くことを主張していたことも傍証とされている。

 しかし、列車の屋根は吹き飛んでいるが、架台やレールは無傷であり、列車の天井に爆薬が仕掛けられていた可能性も高い。列車の整備は中国側で行っていたので、日本軍はそこまで手が出せない。

 また張作霖を守るために、奉天軍側がその前日に警備の交替を日本側に申し出て、奉天軍兵士50名が警備していたことなど、関東軍の仕業とは言いがたい事実もある。

 したがって、前節の歴史教科書のように「日本軍によって列車を爆破され死亡しました」と断言できるほど、史実として確定されているわけではない。


■3.他にも動機を持った容疑者がいる

 本稿では、この事件の事実関係よりも、その陰にある興味深いポイントを一つだけ見ておきたい。それは当時も、また現在も、犯行を日本軍の仕業と決めつけて、他国の謀略の可能性を疑う姿勢が少ないことである。

 当時の日本政府も軍当局も、関東軍の仕業と信じて、なんとかうやむやに問題を収束させようとしたのだが、イギリスの情報機関は、こうした日本政府の態度を奇異に感じていた。

 事件のほぼ一ヶ月後の7月3日、北京駐在公使ランプソンは本国のチェンバレン外相あてに次のような公電を打っている。

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(殺意を抱く者は)ソヴィエトのエージェント、蒋介石の国民党軍、張作霖の背信的な部下など多岐にわたる。日本軍を含めた少なくとも四つの可能性がある。
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 それにも関わらず、日本政府の対応は以下のような奇異なものであったと報告されている。

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 1929年2月に日本の国会で、この問題についてさんざん質問攻めにあったにもかかわらず、首相も陸相も日本の無実を示す証拠を出さなかったし、無実を主張することもしなかった。
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 何事も、まずは自らの襟を正そうとするのは日本人の美徳であるが、陰謀の渦巻く国際社会では、この美徳一本槍では、やっていけない。


■4.張作霖排除は「ソ連にとって魅力的な選択肢」

 イギリスの情報機関は独自の状況分析をもとに、決定的な証拠はまだない、としながらも「ソ連が事件を引き起こした可能性には、一定の形跡がある」として、次のような報告をしている。

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a. ソ連は日本に劣らない満州進出・開拓計画を持っていた。
b. 1927年4月の在北京ソ連大使館襲撃(後述)以来、張作霖は長城の内側でも外側でも、自らの支配地でソ連に最も強硬に反抗してきた。・・・

d. ・・・したがって張作霖の強い個性と中国での権利を守ろうとする決意は、ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害であった。そのため張作霖の排除と、それに代わる扱いにくくない指導者への置き換えは、ソ連にとって魅力的な選択肢であったと思える。
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 張作霖爆殺の動機面から見れば、ソ連がもっとも怪しいというのである。


■5.「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」

 上述の「在北京ソ連大使館襲撃」の内容を知ると、このイギリス情報機関の分析が腑に落ちる。

 1927(昭和2)年3月に蒋介石の北伐軍が南京に入城した際に、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が、外国の領事館や居留地を襲い、日本人や欧米人の死者を出した。

 当時の国民政府内には、中国での共産革命を進めるためのコミンテルン(世界共産革命をめざすソ連の支援組織)の勢力が浸透していた。これらの共産分子が、蒋介石と欧米諸国の対立を煽ろうとして、この事件を起こした、と見られている。

 この事件の背後にソ連と中国共産党の策謀があるとして、日本や欧米諸国の意を受けて、奉天軍が北京のソ連大使館を捜査し、ロシア人・中国人80名以上を検挙したのが、この「在北京ソ連大使館襲撃」である。

 まさに英国情報機関が分析した通り、反ソ反共の張作霖は「ソ連が満州での野望を実現する上での一番の障害」であった。

 こうして見れば、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などというよりも、ソ連の方が明確な張作霖爆殺動機を持っていた、とする英国情報機関の分析の方が、はるかに説得力がある。


■6.張作霖爆殺後の長男・張学良の鮮やかな方向転換

 しかし、後をついだ長男、張学良は、ソ連にとって「扱いにくくない指導者」となったのか。

 張学良は6月21日に父親の死亡を公表し、2日後に葬儀を終えると、7月4日には東三省保安総司令となって、満洲の支配を継承した。

 ところが、張学良は、父親が敵対してきた蒋介石に対して和平を宣言し、10月には国民政府の委員に就任し、さらに12月29日には居城である奉天城内外に一斉に、国民政府軍の青天白日旗を掲げて、蒋介石に与してしまった。

 蒋介石と戦ってきた父親の方針を、わずか半年ほどで正反対に転換したのである。しかも、蒋介石側も、この急激な方針転換をいぶかった形跡もなく、即座に政府内の委員に任命している。

 後に公開された蒋介石日記で、前年の1927年7月20日に「張学良も忠誠を伝達し、入党してきた」という記述が発見されている。

 張学良は父親の爆殺の10ヶ月ほど前に蒋介石の国民党に忠誠を誓い、爆殺後、自ら実権を握ると、半年で蒋介石に荷担したのだ。

 こうして見ると、「張学良が父親を爆殺して、蒋介石と組んだ」という見方も、動機論として説得力がある。


■7.張学良への置き換えの最大の受益者

 ソ連と張学良が、日本軍以上に張作霖爆殺の動機を持つ容疑者として浮かび上がってきたが、実は両者は奥でつながっていたようだ。

 12月29日に奉天城に翻った青天白日旗に混じって、実に多くの赤旗が掲げられていた、という報告がある。南京事件の後、蒋介石も上海で共産党指導者ら90名あまりを処刑していた。張学良が真に蒋介石に忠誠を誓っていたら、赤旗など上げさせなかったろう。張学良のもとでのみ、共産党勢力が大手を振って歩けたのである。

 7年後の1935年末に張学良から中国共産党への入党申請があり、中国共産党はモスクワのコミンテルンにその可否を求めた電文を発信した、という証言がある。

 張学良の共産勢力との結びつきを示す極めつけが、1936年12月の西安事件である。当時、蒋介石は中国共産党を崩壊寸前にまで追い詰めていたが、張学良が蒋介石を西安で軟禁し、以後、共産党との協力を約束させた。

 この西安事件から日本と蒋介石が戦う羽目になり、さらに日本の敗戦後、蒋介石は、国共内戦に敗れて台湾に逃げ込む。中国が共産勢力の手に落ちたのは、張学良による西安事件があったからだと言って良い。

 したがって、張学良を「扱いにくくない指導者」としたことの最大の受益者は、ソ連とその手先だった中国共産党であったと言える。


■8.「ソ連にこの犯罪の責任があり」

 張作霖爆殺事件の半年後、英国外務省あてに送られた「張作霖の死に関すメモ」ではこう結論づけている。

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 調査で爆弾は張作霖の車両の上部または中に仕掛けられていたという結論に至った。ゆっくり作動する起動装置、ないしは電気仕掛けで点火されたと推測される。

 ソ連にこの犯罪の責任があり、犯行のために日本人エージェントを雇ったと思われる。決定的な判断に達することはできないにしても、現時点で入手できる証拠からみて、結局のところ日本人の共謀があったのは疑いのないところだ。
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 爆殺が実際に行われた現場の証拠を洗ってみれば、日本人の共謀があったのは疑いがない、という。しかし、日本の軍人が関与したからと言って、それが日本軍の仕業だと言うことはできない。

 たとえば、朝日新聞記者だった尾崎秀實(ほつみ)は、ソ連の工作員として、世論を誘導して日本を蒋介石との戦争に引きずりこんだのだが、だからと言って、それが朝日新聞の犯行とは言えないのと同じである。

 犯罪の首謀者とは、その手先に使われた人間ではなく、自らの動機をもって、その犯罪を計画した人間でなければならない。この意味で、張作霖爆殺事件の首謀者はソ連だと、英国情報機関は判断したのである。


■9.伏せられてきた共産主義の脅威

 この英国情報機関の推定が正しいとは、現時点でも断言できないが、少なくともソ連と張学良が日本軍以上に明確な張作霖殺害動機を持っていたことは明らかだろう。

 ここで興味深いのは、[1]の著者・加藤康男氏の次の発言である。加藤氏は、河本大佐が張作霖殺害を実行する動機を持っていたことを認めつつも、

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 だが同時に、権力を掌握したスターリンも張作霖の殺害を国家的に実行しようと試みていたのは明白だった。

 それにもかかわらず日本の国内で、張作霖殺害の動機が論争になったことがほとんどないのはむしろ奇妙な印象を受ける。[1,p148]
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 加藤氏は「奇妙な」と言うが、戦後日本を支配してきた左翼的な史観では、ソ連や中国共産党の謀略は伏せられてきたのであり、ここでもその影響が出たと考えれば、これは「当然」だろう。

 ソ連や中国共産党の暗躍を隠して、すべてを日本軍の侵略のせいにしようとするから、「日本政府の説得にしたがって満州に引き上げようとする張作霖を、日本軍が爆殺した」などという論理の通らない歴史観が出てくる。

 1937(昭和12)年の盧溝橋事件から上海事変に至る、日本が日中戦争の泥沼に引きずり込まれる過程でも、ソ連と中国共産党の策謀があったことは、[a]で述べた。

 戦前の我が先人たちが直面していた共産主義の脅威の実態を明らかにしなければ、日中戦争の悲劇の真の原因は分からない。それは、我が国が現在も直面している脅威にも気がつかない、ということにつながるだろう。

(文責:伊勢雅臣)

 

 ■リンク■

a. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h14/jog263.html

b. JOG(446) スターリンと毛沢東が仕組んだ日中戦争
 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogdb_h18/jog446.html

 


ヘレン・ケラーが尊敬した日本人

2012年03月20日 14時33分47秒 | 歴史

今日届いた【人の心に灯をともす】http://merumo.ne.jp/00564226.htmlからの転載です。

ヘレン・ケラーが目標にした人物が、日本にいたなんて、しかも江戸時代の人だったとは驚きですね。塙保己一の名前は聞いたことはありますが、詳しくは知らなかったのですが、読んでみると、たしかにすごい人ですね。障害を持ちながらでも、ここまで出来るということを、世に示したのです。また保己一の周囲の人々も素晴らしいですね。これが江戸時代であったことも、すごいです。

池川明氏の胎内記憶のお話でも、子供たちが言うには、障害を持つことは、その子が選んでそのような身体に敢て生まれてくるのだと言っているということです。これは多くの胎内記憶をもつ子供が皆一様に同じ事を言っているようです。人生は修業の場であり、自己を高めるために生まれてくる時に、既にかなりの修行がすんでいる人は、普通の状態ではつまらないので、よりハンディをつけて難易度を高くして、挑戦するのだとか。そんな挑戦を楽しむように生まれてくるようです。

たしかにヘレン・ケラーや塙保己一をみると、そんな気がしてきます。

 

 

 

『13歳からの 道徳教科書』の中から、心に響くお話です…


アメリカの教育家・社会事業家のヘレン・ケラー(1880~1968)の名前は、世間に広く知られています。

  

目が見えず、耳が聞こえず、話すこともむずかしいという苦難の中で、言葉を覚え、知識を身につけ、21歳でみごとハーバード大学付属のラッドクリフ女子大に入学。

その後は、視聴覚に障害を持つ人々に対する偏見や差別をなくすため、アメリカ国内はもとより世界各国で講演を行ったほか、数々の福祉事業の発展に生涯をささげた人です。

では、そのヘレンが、人生の目標として尊敬した日本人がいたことをご存知でしょうか。

その人の名は塙保己一(はなわほきいち)。

 

 塙保己一


ヘレンは、その塙保己一について次のように述べています。

「私がまだ小さいとき、母は塙先生のことを、繰り返しこう話してくれました。

『ヘレン、日本には幼いときに失明し、しかも点字も何もない時代に、努力して学問を積み、一流の学者になった塙保己一という人がいたのですよ』と。

時にはくじけそうになったこともありましたが、この母の励ましによって現在の私があるのです」



塙保己一は、今からおよそ200年前の江戸時代後期の国学者です。

7歳のころに病気で失明しましたが、勉強好きで記憶力のよい保己一は、学問で生きることを決意し、15歳で江戸に出て、雨富(あめとみ)検校のもとに弟子入りします。

雨富検校は、当時、目の不自由な人の仕事とされていた三味線や琴、鍼やあんまなどを行う人々を監督していました。

ところが学問好きの保己一は、その生活になじめません。

悩み苦しんだ保己一は、川の淀みに身を投げてしまいました。

幸い一命はとりとめたものの、仲間内では「落ちこぼれ」扱いされたのでした。


しかし、保己一の望みを知り、その才能を見抜いた雨富検校は、「三年間だけ好きな学問をしてよい」と言って励ましてくれました。

意欲を取り戻した保己一は、懸命に勉学に打ち込みました。

人並みはずれた記憶力を持つ保己一の噂は広まり、縁が縁を呼んで学者への道が開けていき、やがて大学者として世間から認められるまでになったのです。


保己一は、いったん大きな挫折を経験したことから、その際に自分を支えてくれた師匠の温かさや多くの人々の励まし、その大切さ、大きさに気づきます。

そのため彼は、自分に与えられた能力と人生を、自分のためにではなく、人々のため、世の中のためにささげることを決心しました。


34歳のとき、保己一は各地に散らばる貴重な古書を集めて本にすることを志しました。

40年後の74歳のときに完成したのが『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』です。

『群書類従』は、法律、政治、経済、文学、医学など、あらゆるジャンルの貴重な史料が収められた666冊におよぶ大全集で、今日でも日本の故事を研究するのに欠かせない書物です。

『13歳からの道徳教科書』育鵬社



奇跡の人、ヘレン・ケラーが尊敬し、目標としていた唯一の日本人が塙保己一。

日本を初めて訪れたときも、塙保己一ゆかりの温故学会を訪れ、保己一の像と対面している。


保己一の日本の史料編纂(へんさん)は、現在も営々として引きつがれている。

編纂の形式は、最初に要約を記し、後に史料を原文で引用していくという方法をとっているが、これは保己一がつくりあげたやり方を、現在でもそのまま踏襲しているという。


点字もないし、録音する道具もない時代、、不屈の意志力と熱意で、幕府を動かし、金策し、今でいう大学と研究所を創設し、出版事業までやってのけた保己一。


ある夜、保己一が源氏物語の講義をしていたが、風のため灯かりが消えてしまったという。

弟子があわてて、「先生、ちょっとお待ち下さい」と言ったところ、事情を知った保己一は、「さてさて目明きとは不自由なものだなあ」と笑ったという。

「障がいは不自由であっても、決して不幸ではありません」と語るヘレン・ケラーと共通するどこか突き抜けた、さわやかさがある。


江戸時代の川柳で、「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」と詠われたほど、庶民にも人気があった保己一。

不撓不屈(ふとうふくつ)の人、塙保己一を日本人の誇りとしたい。