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ソ連一方的条約破棄侵攻による日本民族の悲劇 「岸壁の母」

2012年03月08日 12時42分18秒 | 歴史

美しい国らの転載です。

昨日、三木圭恵さんの演説の動画記事を転載しましたが、その三木さんが演説の中でおっしゃっていた話が述べられています。

ソ連の条約無視の一方的侵攻により、満州にいた在留日本人は、敗戦後でもあり、国の保護もなく、非常に残虐な悲劇に見舞われました。残っていた日本軍も、すでに武器も十分にない状態であったときに、ソ連侵攻が始まり、急遽民間の日本人をすこしでも遠くへ逃がそうと時間を稼ぐために、自分達の身を犠牲にして、ソ連軍を引き止めるための戦いを始めました。その様子を、記事にされています。

これは日本の北海道への侵攻を企んだソ連軍の場合も同じような状況が生まれました。昭和20年8月18日に北海道領有を目論んだソ連は占守島に上陸し、日本軍は武装解除後に、再軍備して、北海道への侵入を阻止するために力のかぎり戦って、ソ連に勝利しています。あやうく日本は北海道すら奪われる瀬戸際でした。その後の停戦で、満州や北海道で生き残った将兵たちは、シベリアへ連れ去られ、抑留されて、過酷な奴隷動労を強いられました。明らかに国際法違反の捕虜虐待に当たるソ連の非道でした。

 

 


菊池章子 岸壁の母(台詞入り) 1978



岸壁の母(がんぺきのはは)は、大東亜戦争後ソ連による抑留から解放され、引揚船で舞鶴港に帰ってくる息子の帰りを待つ母親を昭和29年菊池章子が歌ったものです。

ソ連からの引揚船が着くたびにいつでも見られた光景であったが、時間の経過とともに、毎回、同じ顔ぶれの人々が桟橋の脇に立つ姿が見受けられるようになり、これがいつしか人々の目に止まり、マスコミによって「岸壁の母」として取り上げられ、たちまち有名になりました。
「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせさんでした。
息子の新二さんは、立教大学を中退し、軍人を志して昭和19年に、満洲国に渡り、そこで関東軍の石頭(せきとう)予備士官学校の生徒なります。
関東軍というのは、日本の関東地方とはなんの関係もない名称で、日本が支那から租借した遼東半島のあたりが昔、支那で関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊として関東軍の名前がついたのです。

牡丹江省にあった関東軍石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校でした。

昭和20年8月9日未明、突然、一方的に日ソ不可侵条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込みます。
以下の動画は、熊本出身で、ソ連と満州との国境近くにあった「関東軍石頭予備士官学校」の士官候補生だった荒木さんは、終戦時21歳。大東亜戦争後、シベリアで強制的に抑留された旧日本軍将兵、大阪府河内長野市の荒木正則さん(87)。
強制収容所に送られ、時に氷点下60度以下という酷寒のなか、第二シベリア鉄道の工事に強制的に従事させられた。
「民族の悲劇といえる抑留の史実さえ、忘れ去られようとしている現状を憂い、多くの若い世代にぜひ真実を伝えた い」と作られたものです。関東軍石頭予備士官学校生徒3600名が如何に戦い、武装解除した我々の先人に対し、ソ連が非道な行いをしたかお解りいただける と思います。

 


12月11日 シベリア強制抑留・日本民族奴隷の悲劇 

3600名の生徒は2組に分けられ、歩兵砲、機関銃隊1600名は、荒木連隊長の指揮下に、残り1600名は学校長小松大佐のもとに、東京(とんきん)城に布陣しました。

対する敵のソ連軍は、投下兵力158万人の大部隊でした。兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。
第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊などを持つ、ソ連最強軍団でした。
対する当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線、本土決戦にことごとく送っていて、極めて悪い状態でした。
互角の装備では、日露戦争や、それ以降の国境付近の衝突事件等では、ソ連は日本に敗れています。だから日本軍が怖かった。状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大兵力、新鋭武器を投下してきています。
当時の満洲に残った関東軍に残されていたのは、不十分な武器、弾薬以外にインフラ整備に使うダイナマイトくらいしかなかったのです。

東京(とんきん)城方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万の大軍。歩兵銃の弾もろくにない、重機関銃の弾薬さえも欠乏している石頭予備士官学校の生徒たち3600名が迎え撃ったのです。
このときの戦闘の模様が、当時まさにその石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の「実録 遥かなる回想」に記載されています。

以下、引用します。

支給された爆薬は、ランドセルくらいの大きさで、中にはダイナマイトがびっしり詰まり、30cmくらいの導火線がついていた。
いわゆる「急造爆雷」である。

その先にマッチ棒を3本、木綿糸でしっかりとくくりつけた。
敵戦車が接近したら、マッチ棒をすって点火させてから、爆薬を抱えたまま全力疾走で突っ込む作戦である。

点火後、3~4秒で爆発する。
これを「対戦車肉迫攻撃」といい、略して「肉攻」と呼んだ。

敵は明朝になれば必ず攻めてくる。
来ればどうなるかは、もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。

蛸壺のなかに寝転んで暮れゆく空を見上げていると、なぜか故郷のこと、母のこと、兄弟のこと、幼いころのこと等が次々思い出されてくる。

8月13日、代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、ついに磨刀石にその姿を現した。
地面を揺るがせながら、道路を一列になってゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。

この道路の両側には、草や小枝で擬装した蛸壺の中に「急造爆雷」を抱いた候補生が潜んでいた。

戦車が近づくと、次々と「先にゆくぞ」と叫んで、敵戦車に突入して行った。

戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、蛸壺を見つけたら、中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、飛び込むまでにやられる者もあれば、同時に爆薬が炸裂し、敵もろとも吹き飛ぶ壮絶凄惨な戦闘が始まった。

味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、小型迫撃砲も一斉に発射された。

この重機関銃陣地をつぶそうと、敵の戦車砲、機関銃が集中砲火を浴びせてくる。
後方の高台に布陣をしている友軍砲兵が援護射撃を開始し、榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。

敵は炎上する戦車を道路下に突き落として、次々と進撃してくる。

蛸壺の中では、爆薬を抱えた数百名の候補生が息を殺して潜んでいる。

やがて、肉攻壕の土が、ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。
耳を聾するキャタピラの音、重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。

敵の随伴歩兵がトラックから降りて、自動小銃を構えて、戦車の周りに見え隠れして続々と向かってくる。
ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、肉攻手は、即座に自爆だ。

重機関銃隊が、銃の偽装の小枝をそっと払った。
たちまり味方の重機関銃がうなった。榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れた。

ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。
肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。

ひとりの肉攻候補生が、蛸壺を飛び出すと、爆雷を道路に置いて伏せた。
ソ連戦車は急ブレーキをかけて爆雷の3M手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して爆雷を戦車の下に押し入れようとした。

戦車の直前で、爆雷は轟音を発し、半身は高さ20Mまでも白煙とともに砕きあがり、鮮血を撒き散らしながらぐるぐると回転して、またもとの位置に落下した。

東満洲の軍都、牡丹江の防衛最前線として磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、ソ連戦車体当たり戦法は、こうして開始された。


またひとり、小さな体で四角い爆薬の包みをかかえて飛び出していく。
一瞬、ものすごい閃光がひらめき、白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・

突然、戦車の砲頭の下から吐き出す紅蓮の火炎に巻き込まれ、すさまじい轟音とともに自爆した。

肉攻陣地があることを察知したのか、敵戦車はしばらく全身を躊躇(ちゅうちょ)したが、こんどは火炎放射機で周囲の肉攻壕を焼き払いながら、その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、敵の歩兵も散開して肉攻壕に、自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。

味方の重機関銃が銃身も裂けんばかりに撃った。
的戦車の砲身や機銃が、一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手、即死。

重戦車の巨砲が向きを変え、味方の陣地に向かって水平射撃の位置に砲身を構えた。

五体を揺るがすような炸裂が山野をゆるがした。
体は壕に叩きつけられ、舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。

陣地における指揮連絡はまったく寸断され、日が暮れて、生き残った者同士が、負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、集合場所さえ定まらない乱戦となった。

川上哲次候補生は、手記にてこのように報告している。

「道路上に、3~40両の敵戦車が轟音をあげてあらわれた。まるで動く岩のようであった。またひとりの肉攻手が、爆薬をかかえておどりでた。戦車はとまらない。

肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。
次の瞬間、肉攻手は、戦車のキャタピラに腕を挟まれ、逆さ宙づりになった。

おもわず息をのむ。

そのとき爆薬が炸裂した。
ピカッ、グワーン!

閃光が走り、ものすごい煙に包まれ、敵戦車は立ち往生した。
恐ろしくなったのであろう。ソ連兵は戦車から飛び出し、逃げ出した。

勇敢な肉攻手が2~3名、壕から飛び出し、敵の戦車に躍りあがり、掩蓋(えんがい)から中にはいる。

戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。

ズドーン!

すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、ぶっ放したのである。

「やった!」と壕の中では歓声があがった。

続いて戦車めがけて一発! そしてまた一発!
分捕り戦車は猛然と火を吐いた。

痛快極まるとはこのことか。
たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。

後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。

そのときの勇士は、鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。
鈴木候補生は、敵戦車の構造をよく知らず発砲の折、砲座で顔面を強打し、大腿部も負傷していた。
彼は、戦車から外に出て、中隊長や戦友に向かい、
「自分は負傷してこれ以上戦えない。速射砲の分隊長として、砲と運命を共にする責任がありながら、砲は射撃不能となった。自分はここで砲とともに自爆する。天皇陛下万歳!」
そう叫ぶと、10キロの爆弾を抱きしめ、壮絶な爆死を遂げた。

猪俣大隊長は、戦車砲撃の直撃を受け、一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。

代わって大隊の指揮は、梅津眞吾中尉がとられ、敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、死傷者続出の事態となった。

梅津中尉は、もはや組織的な戦闘は不能と判断し、生存者を集めて、後方の山中に入り、脱出した。

8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、わずかに105名になっていた。






上記の動画にもこの「磨刀石の戦い」の様子は紹介されています。

この戦いで、「岸壁の母」で歌われた端野いせさんの息子、端野新二候補生も、消息を絶ちました。
候補生のみなさんは、十分な装備も武器もなく、戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは、少量の武器弾薬とダイナマイトだけだったのです。しかも圧倒的兵力差。
候補生のみなさんは自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけし時間を稼ごうとされたのです。
ソ連の南下により、
続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸び、日本に帰還して欲しいの一念だったのです。
候補生のみなさんは、立派に戦いました。命令があったから散華されたのではありません。崇高な使命、同胞を思うこころ、祖国のために、戦ったのです。


先日、拙稿「筆者が涙した演説」の中で、三木けえ先生が熱き思いを込められ、訴えられたのはこの精神です。
候補生のみなさんは、今でいう成人式を迎えたばかりの世代です。
今の日本を見られたら何と仰せでありましょうや?・・・

端野いせさんは、昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてられ、新二さんの 生存を信じながらも昭和56年7月1日午前3時55分に享年81歳で亡くなられました。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりた い」と入院中も話され、一瞬たりとも新二さんのことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った「岸壁の母」を歌った二葉百合子さんが語っています。

石頭予備士官学校候補生のみなさんの気 高い魂を、彼らの勇気を、私たち日本人が語り継がないで、いったい誰が語り継ぐのでしょうか。そして、武装解除した多くの日本軍将兵を厳寒の地に抑留し、 日本人女子に対する強姦、殺戮、動物以下の扱いをしたソ連。ロシアに再び国名を変えても、卑劣さは何ら変わっていないロシアのお国柄も忘れてはならないで しょう。

いつか日本国民のすべてが靖国の英霊に感謝の誠をささげ、国を護るという気概を持ち「後に続く」精神を継承することを願ってやまないのです。





転載元 転載元: 美しい国

 


「太子信仰」 苦に耐える勇気 聖徳太子像の”眉間の傷”

2012年03月07日 09時07分22秒 | 歴史

聖徳太子のテーマで記事が続いたので、余談ながら、もうひとつ追加です。

親鸞聖人が、阿弥陀信仰に転ずるきっかけが、聖徳太子であったということを、先日本を読んでいて知りました。

親鸞二十九歳の時、建仁元年(1201年)京都洛中の六角堂に参籠し、百か日の願で後世の事(死後の助かり)をかけられた時、九十五日目の暁に聖徳太子の御示現にあずかり、この聖徳太子のお告げに導かれて、法然の門に入ることになったというのです。

親鸞は後日「皇太子聖徳奉讃」のなかで、

救世観音大菩薩

聖徳皇と示現して

多々(父を指す)のごとくすてずして

阿摩(母を指す)のごとくにそひたまふ

とうたい、聖徳太子が救世観世音の化身であられ、あたかも父母のごとく、あたたかく寄りそい、どんなことがあっても絶対に抱納して下さってつきはなすことのない慈悲の人格であると告白しています。また、先の和讃に続けて、聖徳王のお慈悲によって「仏智不思議の誓願にすすめいれしめ」られたとうたっています。つまり、阿弥陀仏の必ず衆生をことごとくすくいとるという誓願を信ずる信仰に向かわせられるようになったと、うたっているわけです。

親鸞が六角堂にこもったのは、観音信仰と言うより、聖徳太子を信仰してのことであったと思われます。

聖徳太子への信仰は、親鸞のように、鎌倉時代にかなりあったようです。この聖徳太子への信仰について、戸田義雄氏が書いておられるので、一部転載します。

 

埼玉県行田市荒木の天州寺境内にある太子堂に参詣した時の感慨は「目の保養」なんて言う程度のものではなかった。「心の長養」を得た感動のたかまりとでも言ったらよいだろう。この体験は決して偶然に生起したものではない。伏線があるのである。

ここの太子堂には、世にいう「聖徳太子十六歳孝養立像」がおまつりしてある。鎌倉期のもので、もちろん、国の指定を受けた重要文化財である。この種の御像中の最高傑作ではないかと、かねて写真を見てはそう思い浮かべていた。三十三年に一度のご開帳が定めであるから、私の生涯にこのめでたき機会があろうなどとは到底考えられぬことであった。

静かに扉が開かれる時の畏怖にも近いおののきに一時は縮み込んでしまったが、住職さんの「どうぞ」という声にわれにかえった。落ち着きを取り戻してから伏しおろがむにつれ、突然私の目を鋭くとらえたものがあった。

みけんに傷が

思わず私は声を放ってしまった。写真の上からでは、単に深い憂いをこめられたがために、額に寄せられたしわとのみうけとられたものーー。それが今こうしてじきじきに拝すれば、まぎれもないみけんの傷ではないか。それもお像制作後に、何かのすきに出来てしまった傷といったようにも思えぬのである。制作の当初から意図せられた傷であるとよぶほかはない。もっとありていにいうなら、はじめから「みけんに傷のある御尊像」であったのだ。(中略)

その後、みけんに傷のある太子像のもつ秘密のあかしを求めて、あれこれ見てまわる気になった。法隆寺舎利殿安置の「太子二歳像」には傷がある。しかし中宮寺蔵のそれにはない。以上の三体のうち、二体までが鎌倉期のもので、しかもみけんに傷をもつ型である。私はすでに鎌倉期に二種類の太子像、つまり、みけんの傷の有無によって分類出来るタイプの系統が生じたとみてとった。

この確信は、水戸市酒門の善重寺境内にある太子堂の十六歳太子孝養像をじかに拝するを許されたときにさらに強められた。これは室町期の作である。みけんの傷にまつわる民間説話が、民宗教化に果たした付会の跡をはっきり見てとることが出来る縁起がここには残っている。

天州寺の太子像は大江広元の四男、季光が造立したとある。季光は三浦の当主、泰村とともに北条に討たれ、三浦一族の滅亡と運命を共にした悲劇の人である。その彼が生前、源実朝が暗殺されたあと、出家を遂げた二人の兄の供養のために造立したのであった。実朝、大江季光の一門など、みな例外なく悲劇の主である。名もない民衆も、名だたる権門の人らも、等しく苦しむ者の共感から仰ぎまつったみ仏こそ誰あろう、若くして苦に耐えられる御姿の太子像であったのである。ここに、教理史の表面からはうかがい知られぬ日本人の真の救いの歴史、生きた宗教の展開史がよみとられる。

「悲心抜苦」とのたもうた太子を仰ぎ見る者らにとって、太子は何より救いの教説を高みから説かれる御姿であってはならなかったはずだ。われわれと同じように苦しまれつつ、ただじっとそれに耐えられる身近にあられます人格であられるはずであること、このことは「共にこれ凡夫のみ」(十七条憲法第十条)と仰せられたみことばによって客証せられておると信じたことである。しからばその忍苦の御姿を形相化する最高の表現様式はなんでなければならなかったか。ここにみけんの傷の発想が生じたと私はみる。

人間最大の恥辱はみけんに傷をうけることだとみる立場がありうる。その恥辱と苦悩にすら耐え給うた典型の御姿として太子をあらわし申さねばならなくなったというのであろう。かくて真の救い主は、栄光に輝く容姿にはなく、「忍苦の相」として、すぐ手の届くところにあって、われわれの目の前にお立ちくださる御姿でなければならなかった。

私は思う。昔も今も、真に苦悩を癒すものは、「その苦に耐える勇気」以外にないのではないかと。苦しむ者の苦しむ者への共感、この連帯の中に私は心の安らぎをえている。この安心のあり方は改めて問題にされてよくはないか。

 


混迷の時代にこそ聖徳太子に学ぶ(下)

2012年03月06日 21時29分08秒 | 歴史

 美しい国からの聖徳太子の続きの記事の転載です。

非常にわかりやすく書かれています。聖徳太子は日本にとっての国のあり方の基礎作りを行われた偉大な先人だったということがよく分かりました。日本にとって、もし国が乱れたり、激動の時代には、聖徳太子のご精神に戻ることで、日本の正しいあり方を見つけることが出来るということではないでしょうか。これがこの記事の筆者の主張であり、私もそのとおりだと賛同いたします。

 

 

 

 

世界遺産 法隆寺 西院伽藍遠景 



混迷の時代にこそ聖徳太子に学ぶ(上)より続きます。

聖 徳太子は、天皇陛下を中心として国民が統合された国のあり方を、理想とされました。国民は、豪族の私的な権力の下にあるものではなく、「公民」の立場とな り、天皇陛下を主と仰ぎます。一方、天皇陛下は国家公共の統治を体現し、「公民」を「おほみたから」(大御宝)とする伝統が再確認されます。この理念は、 大化の改新において実現され、公地公民制が創設され、開花しました。
そ れは、天皇―公民制というわが国独自の国家原理の樹立だったのです。シナの古代帝国の場合は家産制国家であり、国土・国民はすべて皇帝の私物であり、官僚 は皇帝に私的に仕える者でした。今日の教育では、日本もシナに学び、中央集権的な家産制国家をめざしたように見えますが、根本が違います。
シ ナでは帝国全体が皇帝の「私」のものであるのに対し、日本では国全体が「公」のものである点が違い、わが国では、天皇陛下は公の体現者となり、人民は私的 に所有されるのではなく、公民という公的存在になったのです。シナの皇帝が私利私欲で土地や人民を私有したのに対し、天皇陛下は公民を「おおみたから」と 呼び、自らの徳を磨かれ、人民のために仁政を行なわれたのです。
聖徳太子の理想、理念は、その後、形を変え、律令制として制度化されました。律令制国家は、「天皇と公民」の関係を、改めて構築するものでした。律令は、実に明治維新まで、千年以上もの間、わが国の基本法であり続けたのです。
 
官位十二階と十七条憲法によって内政の充実を図った聖徳太子は、外交の面においても、画期的な活躍をされました。
古 代の東アジアでは、シナ文明が栄えていました。シナの皇帝は、シナこそが世界の中心国(中国)であり、周辺諸民族は野蛮人だと見下し、軽蔑していました。 中華思想であり、これによる国際秩序を華夷(かい)秩序といいます。周辺諸国は、シナに貢ぎ物をして册封(さくほう)にありました。册封とは、シナ王朝の 臣下となり、自分に「王」の位を与えてもらうことを意味します。東アジアは、こうした册封体制が支配しており、シナを核とした中心―周縁構造だったので す。
聖徳太子は、大国・隋を相手に気概ある外交を行い、シナ中心の国際秩序から離脱し、日本の独立を守り、独自の文化を築く道を選択されたのです。
 
聖徳太子は、推古天皇16年に、シナ大陸にできた大帝国・隋の二世皇帝「煬帝」に対して、国書を送ります。遣隋使には小野妹子が遣わされました。国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」という言葉が記されていました。
「日出づる処」とは我国のことであり、その「天子」とは、日本の天皇陛下のことを意味します。この国書を見た煬帝は「はなはだ喜ばしからず」と伝えられています。「天子」とはシナの皇帝一人とされていたからです。
第2回の国書には、「東の天皇、西の皇帝に曰(もう)す」と記されています。聖徳太子は、もはや紀元1世紀以来使われてきた「王」という称号を用いませんでした。「王」は、シナの「皇帝」に仕える立場だからです。隣国朝鮮王朝は肇国以来、我国が併合するまで「王」だったのです。
「天皇」という言葉がここに初めて使われたのです。「天皇」の称号は皇帝と対等のものでした。これは、隋の煬帝の逆鱗(げきりん)に触れ、武力攻撃を招きかねないことでした。
し かし、聖徳太子は、シナの册封体制から離脱し、対等な国際関係を築こうとしたのです。これは画期的な外交方針の転換でした。大国「隋」をも恐れず、自己を 卑下しない気概があったのです。こうした聖徳太子の毅然とした姿勢は、国家外交の基本を示しているものと言えましょう。また、日本が海に囲まれ、大陸から の攻撃が難しいという自然条件に恵まれていたことが、こうした外交政策を可能としたのです。
一昨年、領海を侵した中国漁船らしき船を拿捕、起訴しながら中共の圧力に屈した、民主党政権と太子の外交姿勢は大きく異なります。
 
太子の意を受けて、大化の改新の後、天武天皇の御代に、「天皇」の称号が定着しました。また、「日出づる処」を意味する「日本」が、国名として用いられるようになりました。今年の大河ドラマ「平清盛」でも、NHKが天皇陛下を「王」としていますが、歴史認識が欠如していることも指摘しておきます。
最初に、公式文書に「日本」という国名が現われたのは、大化の改新の後、大化元年に、百済の使者に与えた詔勅とされています。その後、シナでは、咸亨元年の『新唐書』に、「倭の字を悪(にく)み、更めて日本と号す」と記されています。ここに1世紀以来、「倭」と記されてきたわが国の国号は、「日本」という名称に公式に改められたのです。
 大化の改新では、年号も、我が国独自のものを使うことを決めました。それまでは、シナの皇帝が年号を定めると、他の周辺国はそれと同じ年号を使用していました。しかし、我国は、こういう主体性のない状態を、良しとしませんでした。
聖徳太子の国家方針樹立によって、わが国では7世紀の初めに、君主を「天皇」と呼び、中頃には独自の年号を立て、また新たに国名を「日本」と定めたのです。
結果、我が国は政治的・外交的に、シナを中心とした政治秩序である册封体制から離脱し、それによって、独自の文化を発展させ、一個の独立した文明を創造する基礎が固まったのです。
 
太子は、積極的に外国文化を採り入れました。太子は、繰り返し小野妹子を隋に派遣され、当時の先進国シナに学ぼうとされました。しかし、自主的な姿勢を持ってこれを行うところに、太子の方針がありました。
太子が遣わした遣隋使には、留学生が一緒に大勢送られました。留学生たちは、帰国後、外国文化の知識をもとに、様々な形で、国家のために活躍します。
隋が滅び、唐という国家が興りました。その4年後、推古30年、聖徳太子は49歳の生涯を閉じられました。
大化の改新では、聖徳太子によってシナで学んだ留学生たちが太子の意思を受継いで活躍し、その後の国家建設においても、彼らの知見が大いに生かされました。
 
聖 徳太子による留学生の海外派遣が先例となり、明治維新の時にも、政府使節の海外視察や留学生の派遣が行われ、維新国家の建設に大きな成果を挙げました。大 東亜戦争後、有色人種が白色人種の植民地支配から独立すると、先進国に多くの留学生を送り込みました。彼らは帰国後、祖国建設に活躍しました。
これらは、明治以来の日本の方法を模倣したものであり、聖徳太子の政策にならったものともいえます。太子の留学生派遣には、世界史的な意義があったのです。
 
聖徳太子は、内政においては、天皇中心の国柄を明確され、和の精神による公共秩序をつくられ、神道を根本とした豊かな精神文化を創造し、外交においては、毅然とした独立自尊の外交を行いつつ、積極的に外来文化を摂取しようとしたと言えます。
こうした聖徳太子の姿勢は、明治維新においても貫かれ、21世紀の今日においても日本国の一貫した基本方針たるべきものです。
昨今の混迷した時代だからこそ、聖徳太子にに学び、原点に返り、自主性と創造性のある国家・文明を発展させ、且つ、お国柄を大切にしたいものです。


転載元 転載元: 美しい国

 

 


混迷の時代にこそ聖徳太子に学ぶ(上)

2012年03月06日 14時00分57秒 | 歴史

美しい国からの転載です。

聖徳太子が、日本国家の初期時代に、国家のあり方、天皇と国民の関係、官僚のあり方、国際社会における自主独立の外交方針、そうした国家運営のひな形とも言える基礎を作り上げられたことは、その後のわが国のあり方の理想として浸透していったのではないかと思います。

 

 

 

「唐本御影」


 

我国の歴史には、立派な人物、優れた指導者が、数多く現れています。中でも聖徳太子は、日本の国柄を明確にし、政治や外交や文化のあるべき姿を打ち立て、今日に至るまで大きな影響を与えています。
現在の若い世代には知られていませんが、筆者が子供の頃の一万円紙幣の肖像は聖徳太子でした。皇紀2590年より、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く使用されました。
また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになり、特に高度成長期に当たる皇紀2618年から皇紀2644年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されました。
日本の経済が世界に名乗りを挙げた時代でもありました。
教育勅語世代が社会の第一線から退き、お札から聖徳太子も消え、このころより、日本の政治・経済が衰退期に入ったといっても過言ではありません。

聖徳太子は、敏達天皇3年、用明天皇の皇子として生まれました。聖徳太子は死後につけられたおくり名で、没後100年以上を経て天平勝宝3年に編纂された『懐風藻』が初出と言われています。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載されています。
本来は厩戸皇子(うまやどのおうじ)といい、20歳の時に、皇太子となられ、推古天皇の摂政となられました。推古元年のことです。
推 古天皇から政治を任された太子は、政治の改革に乗り出しました。その頃は天皇の後継問題などのことで、朝廷内部に争いごとが起こり、豪族同士がいがみ合っ ていました。また、太子が摂政となる4年前に、シナでは統一王朝「隋」がシナを統一し、大帝国が誕生していました。隋は勢力を伸ばし、周辺の朝鮮などの 国々を従えようとしていました。太子は、天皇を中心とした強い国家を作ろうと考えて内政の充実を図られ、「和の精神」を理念として打ち立て、国家の骨組み を確立され、日本を豪族の連合国家から、天皇中心の中央集権国家にする橋を架けられました。また、外交においては、隋に対して独立自尊の精神をもって毅然 とした外交を行われ、また外国文化を積極的に採り入れて自国の文化を豊かにされたのです。

太子は、推古天皇8年、隋との外交を結ぶため、初めて遣隋使を派遣されました。
残念ながら、国内には記録は残っていませんが、、隋書には記載されています。
内 政において、太子は皇太子の立場で天皇を補佐し、政治の基本を作り上げました。古代日本においては、政治(まつりごと)と祭事(まつりごと)は同じでし た。太子は、日本古来の「神ながらの道」を根本とされ、天皇を中心とした政治を行おうとされたのです。そのために重要なものが、官位十二階と十七条憲法で あり、お国柄を表したものです。
 
太子は推古天皇11年に冠位十二階を制定しました。徳・仁・礼・信・義・智に,それぞれ大徳・小徳というように大小をつけて12種の位を作られ、それを冠の色によって区別し、個人の能力や功労に応じて位を与えられました。これは、官位は、豪族の中から氏(うじ)や姓(かばね)にかかわりなく、能力や功績によって授けるとするもので、豪族の支配する世の中から、公の官僚が政治を行う国にしようされたのです。これが我国の中央集権国家建設の基礎となります

推古天皇12年に十七条憲法を制定されます。十七条憲法は、日本で初めての成文憲法であり、また世界最古の憲法とも言われます。もっとも憲法といっても今日のような国家の基本法ではなく、官僚の職務心得であり、同時に人間の踏み行う道徳基準を示すされたものとなっています。
その中に、わが国のあり方、国柄が表現されています。
まずその内容を簡約にて示すと、各条の大意は次のとおりです。(樋口清之著『逆・日本史』祥伝社より引用)
 

 

第1条 和を以って貴しとなし、忤(さから)うることなきを宗とせよ〔調和・協力の精神〕

第2条 篤く三宝を敬え〔仏教への尊崇〕

第3条 詔を承りては、かならず謹(つつし)め〔忠君の精神〕

第4条 群卿百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼をもって本とせよ〔礼節の精神〕

第5条 餐(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄てて、明らかに訴訟を弁(わきま)えよ〔贈収賄の禁止〕

第6条 (略)人の善を匿(かく)すことなく、悪を見てはかならず匡(ただ)せ〔勧善懲悪〕

第7条 人各(ひとおのおの)任(よさし)あり。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし〔職権濫用の禁止〕

第8条 群卿百寮、早く朝(まい)り晏(おそ)く退(まか)でよ〔遅刻・早退の禁止〕

第9条 信(まこと)は是れ、義(こころ)の本なり、事毎(ことごと)に信あれ。〔誠実の精神〕

第10条 忿(こころのいかり)を絶ち、瞋(おもえりのいかり)を棄てて、人の違(たが)うを怒らざれ。〔叱責の禁止〕

第11条 功過(いさみあやまち)を明察(あきらか)にして、賞罰(たまいものつみなえ)かならず当てよ〔信賞必罰〕

第12条 国司・国造、百姓に斂(おさ)めとることなかれ〔地方官の私税禁止〕

第13条 諸(もろもろ)の任(よ)させる官者(つかさびと)、同じく職掌(つかさごと)を知れ〔職務怠慢の禁止〕

第14条 群卿百寮、嫉妬あることなかれ〔嫉妬の禁止〕

第15条 私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり〔滅私奉公〕

第16条 民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良典(よきのり)なり〔農繁期の労役の禁止〕

第17条 大事(おおきなること)を独り断(さだ)むべからず〔独断専行の禁止〕

 
十七条に及ぶ憲法に共通するものは、「和」です。第1条は、「和を以て貴しとなし」という言葉で始まります。「和」を説く条文が、最初に置かれていることは、聖徳太子が、いかに「和」を重視されていたかを示すものです。第1条には、次のようなことが記されています。
「和は貴いものである。むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。人々が上も下も調和して、睦まじく議論して合意したならば、おのずから道理にかない、何ごとも成し遂げられないことはない」。
 太子は、「和」という言葉で、今日の政治のような単なる妥協や融和を説いているのではなく、「人々が調和すれば、どんなことでも成し遂げられる」という積極的な理念を説かれているのです。
ま た、続く条文において、太子は「和」を実現するための心構えを説いています。すなわち、第10条では人への恨みや怒りを戒め、第14条では人への嫉妬を禁 じ、第15条では「私(わたくし)」を超えて「公(おおやけ)」に尽くすように説かれています。そして、最後の第17条には、「独り断ずべからず。必ず衆とともに論ずべし」と記されています。つまり、「重大なことは一人で決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである」という意味です。これは第1条に通じます。
 
太 子は十七条憲法を制定するにあたり、当時、シナから入ってきた儒教・仏教・法家等の思想を深く研究され、そのうえで、キーワードにされたのが、「和」でし た。儒教には「和」という徳目はなく、徳目の中心は、孔子では「仁」、後代では「孝」「義」(我国では忠)です。仏教にも「和」という徳目はなく、法家な どでも同様です。太子は、外国思想を模倣するのではなく、独自の考えをもって、「和」の重視を打ち出したのです。そして、これは、やまと民族の行動原理 を、見事に表したものと言えましょう。
 
第 2条には「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」とあります。聖徳太子は、仏教の興隆に力を入れました。しかし、太子は日本を仏教国にしようとしたの ではありません。聖徳太子の父・用明天皇について、『日本書紀』に「仏法を信じ、神道を尊ぶ」と書いています。「神道を尊ぶ」とは、日本の神々や皇室の先 祖を敬うことです。太子もまた、神々や祖先の崇拝は当然の前提として、新たに仏教を取り入れようと言割われています。敬神崇祖は、我国の文化であり、口に するまでもない当然の前提であって、それゆえ太子も憲法の中では、神道については特に触れていません。
 太子伝に、「神道は道の根本、天地と共に起り、以て人の始道を説く。儒道は道の枝葉、生黎と共に起り、以て人の中道を説く。仏道は道の華美、人智熟して後に起り、以て人の終道を説く。強いて之を好み之を悪むは是れ私情なり」と記されています。つまり、太子は、日本古来の神道を根本として堅持しながら、外来の仏教を積極的に採り入れたのです。同時に儒教・道教なども学んだうえで、日本固有の価値観である「和の精神」を思想として表現したのです。
太子は、仏教の受容において、固有の精神文化(神道)を保ちながら、外来の宗教(仏教)を摂取して共存させるという形を可能にしたのです。これは、わが国の「和魂洋才」「和魂漢才」と言われる外来文明を受容する最初の型となりました。外国の文化でよいところは採り入れ、自国に合った形で活用する、また固有のものを保ちながら、外来のものを摂取して共存させるのです。
こうした我国の文明は、文明の形成期にしっかりしたパターンが定式されたので、外来文化を積極的に採り入れても、日本独自の特徴を失うことなく、日本の伝統を維持していくことができました。それは聖徳太子が始まりといっても過言ではないでしょう。
 
次にに重要なことは、天皇陛下と公民の関係が樹立されたことです。聖徳太子は、天皇を中心としつつ豪族が政治権力に参加する政治制度を説かれています。その理念が「和」です。十七条憲法は、第1条の「和を以て貴しとなし…」という言葉で始まることは、先に述べましたが、以下の条文では私利私情や独断を戒め、話し合いに基づく政治を行うことを説かれています。
「和」の理念の下に、天皇を中心とした公共の秩序を形成するには、「公」が「私」より尊重されなければなりません。太子の憲法第12条には、「国に二君なく、民に両主(ふたりのあるじ)なし。率土(くにのうち)の兆民(おほみたから)、王(きみ)を以って主とす」 とあります。すなわち、国の中心は一つである、中心は二つもない。国土も人民も、主は天皇であるとし、国民統合の中心は、天皇であることを明記しました。 太子は、さまざまな氏族が土地と人民を私有していたのを改め、国土も人民もすべて天皇に帰属するという理念を掲げられたのです。
第3条には「詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め」とあります。太子は、豪族・官僚たちが天皇の言葉に従うように、記しています。そして、第15条には「私を背きて、公に向(おもむ)くは、是れ臣(やっこ)が道なり」とあります。すなわち、私利私欲を超えて、公共のために奉仕することが、官僚の道であると説いています。ここに我国における「公と私」のあり方が示されました。
 

 

転載元 転載元: 美しい国

 

 



聖徳太子  千四百年前の「日本国独立宣言」

2012年03月06日 13時24分51秒 | 歴史

みどり松のブログからの転載です。

聖徳太子の時代はその直前の時期に崇峻天皇が蘇我馬子に殺害されたという、日本史上唯一天皇が臣下に弑逆(しいぎゃく)されるという事態の起こった時代です。

これは非常に国家の乱れにつながる危機的な状況で、この危機を乗り切ったのは、ひとえに聖徳太子の優れた御治世の賜であると思います。


 

藤岡寛次氏の『青少年のための誇りある日本の歴史』から、引用転載しました。

聖徳太子の登場

は じめての女帝・推古天皇の下で、摂政として活躍したのが聖徳太子です。聖徳太子については、皆さんもご存知ですね。ある調査によると、日本人が最も会って みたい歴史上に人物の第一位は、聖徳太子ださうです。それほどの人気の秘密は、どこにあるのでせうか。今回はその聖徳太子について、お話してみませう。

聖 徳太子は敏達(びたつ)天皇三年(574)橘豊日命(たちばなのとよひのみこと=後の用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとこうじょ)との間に お生まれになりました。当時は厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれてゐましたが、その他にも上宮(かみつみや)、豊聡耳(とよさとみみ)といふ名でも呼ば れてゐたやうです。幼少期から太子の聡明さは際立ってゐたらしく、『日本書紀』によれば、十人の訴えを同時に聞いて誤たなかったと言ひますから、「豊聡 耳」といふお名前はそこからつけられたものでせう。

新井薬師寺 16歳の聖徳太子像



推古天皇即位の翌年(593)、厩戸皇子は皇太子となり、御年僅かに二十歳で国政の中 心に立たれることになりました。推古二年(594)に出された三宝興隆の詔は、日本の国の方針として、仏教を正式に採用するといふ宣言です。翌三年 (595)には、高句麗から慧慈、、百済から慧聡といふ高僧も来日してゐます。慧慈は聖徳太子の師となり、やがて太子と深い精神的絆で結ばれることになり ます。

聖徳太子は、半世紀にも満たない短いご生涯の間に、内政・外交・精神文化の全ての面において、比類のない傑出した御治績を上げた方でした。不世出の偉人と称へられる所以ですが、今回は太子の内政面と外交面の御治績を中心に見てまいりませう。


冠位十二階・憲法十七条の制定

太 子がまづ第一に手がけたことは、国内の政治をしっかりさせることでした。推古天皇の先代の崇峻天皇が、大臣(おおおみ)の蘇我馬子によって殺害されたこと は、(中略)。馬子は皇位を簒奪することまではしませんでしたが、臣下の分(身のほど)を弁へぬ蘇我氏によって天皇の権威は軽んじられ、君臣関係に深刻な 乱れが生じました。まづこれを正すといふことが、太子に課せられた第一の使命でした。

といっても、馬子は依然として国政の中枢に居座っ て、睨みを効かせてゐます。しかも馬子は、推古天皇にとっては叔父であり、太子にとっても、母方の大叔父(祖父母の兄弟)に当たります。太子といへども、 大臣である馬子の意向は無視できなかったに違いありません。しかし、推古十一年(603)には、新たに冠位十二階の制度を定めました。冠位とは、朝廷に仕 へる群臣の位階のことで、例へば最高位の「大徳」は紫といったやうに、冠の色によって十二の位階を定めたものです。これまでの大臣や大連などは「姓(かば ね)」といって、有力氏族に与へられる地位ですが、冠位は氏族ではなく個人に与へられるもので、優秀な人材を広く登用する狙ひがありました。

次 いで翌六〇四年には、有名な憲法十七条を定めてゐます。日本の国のあり方を定めた最初の法典ですが、人間を見つめる洞察力の深さといったら、他に並ぶもの がないほどです。今の日本国憲法などは、その足許にも及ばないでせう。例へば、最後の第十七条には「それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともに論 (あげつら)ふべし」とあります。これは今の言葉で言へば「民主主義」といふことになりますが、それだけでは国といふものは治まるものではありません。民 衆はそれぞれ自分の目先の利害といふことだけに囚はれるもので、そのことは今騒がれてゐる年金問題ひとつ取ってみても明らかでせう。「人みな心あり。心お のおの執(と=執着する)るところあり」(第十条)で、「凡そ人、私あるときは必ず恨みあり。憾(うら)みあるときは必ず同(ととの)ほらず。同(とと の)はらざるときは、私をもって公を妨ぐ」(第十五条)といふことになりがちです。それを防ぐためには、上に立つ者は「私を背きて公に向ふ」(同条)、 「私」心を去って「公」に向かふ姿勢がなければならない、と太子は説いてをられます。

とくに馬子にとって耳が痛かったのは、次の条でせう。「詔(みことのり)を承(うけ たまわ)りては必ず謹め。君は天なり。臣は地なり。天は覆ひ、地は載す。…上(かみ)行(おこな)ふときは下(しも)靡(なび)く。故に詔(みことのり) を承りては必ず慎め。謹まずば自ら敗れん」(第三条)。これは、端的に言って馬子(蘇我氏)に対する、太子からの警告でした。

「詔」といふのは天皇のお言葉のことです。「承詔必謹(しょうしょひっきん)」とい ふ熟語は、この憲法十七条に由来しますが、要するに臣下の地位にある者は、天皇のお言葉を謹んで拝承すべきである。地が天を覆ふことは出来ないやうに、臣 下が天皇の上に立つことは許されない。それを敢へてするなら、自滅するだらうと警告してをられます。詔(みことのり)を無視して天皇を殺害させたのは馬子 自身でしたので、この警告は痛烈な馬子批判といふことになりますが、別段馬子がこれに異議を唱へた形跡もありませんので、馬子も従はざるを得なかったとい ふことでせう。かうして太子は、摂政に任じられて十年にして、天皇の揺ぎない権威を回復されたのです。


日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す

さて、目を国外に転ずると、推古天皇の即位と相前後して、中国大陸では大変な事態が 生起してゐました。五八九年、太子十六歳の頃のことですが、中国では隋といふ新たな王朝が起り、広大な中国大陸を統一したのです。それは後漢の滅亡以来、 実に三百年ぶりのことでした。大陸に突如として、強大な軍事国家が誕生したのです。

周辺の国にとって、このことは大変な脅威でした。隋の隣国・高句麗は、北方にゐた遊 牧民族・突厥と結んで隋の脅威に備へようとしましたが、このことが原因で隋と戦争になってしまひます。一方、百済や新羅は、早速隋に朝貢して隋のご機嫌を 取らうとしました。さて、我が国はどうすべきか。これが、当時の外交上の一大問題でした。

それまでの日本ですと、新羅や百済と同様の対応をしたでせう。けれども、太子は違ひ ました。推古十五年(607)、憲法十七条を制定した三年後のことですが、遣隋使小野妹子を派遣して国書(国の元首がその国名を以て発する外交文書)を差 し出します。そこには、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや(ご機嫌いかが)云々」と書かれてゐました。「日出ずる処」とは、隋か ら見て日本は東に当たるので、日本のことをかう言ったのです。それにしても、百年前の「倭王武の上表文」に見られた、中国に対するへりくだった態度とは何 といふ違ひでせう。日本の天皇と隋の皇帝を、ここでは全く対等の地位にあるものとしてゐます。これは、日本の外交にとって革命的なことでした。

隋の皇帝・煬帝はこれを見てかんかんに怒りましたが、高句麗と戦を構へようとしてゐ た矢先でしたので、日本にまでは手が出せません。結局、隋は日本との国交に応じました。恐らく太子は、さうした国際情勢の機微(微妙な動向)にも通じてを り、隋と戦争にはならないことを見越した上で、かうした大胆不敵な策に出たものと思はれます。翌推古十六年(608)、再び太子は小野妹子を遣隋使として 派遣しますが、この時の国書には「東の天皇、敬(つつし)みて西の皇帝に白す」云々とありました。それまでの「大君」に代って「天皇」といふ号が使はれた のは、恐らくこの時が日本史上最初だらうと言はれてゐます。

聖徳太子は、日本の「天皇」を中国の「皇帝」と同列に置くことで、日本は中国の属国 ではないといふことを宣言し、又それを国際的にも認めさせたのです。それは或る意味で、日本国の「独立宣言」とも言へるものでした。六〇七年といふと、 ちょうど今から千四百年前のことです。そのやうな昔から、世界に向かって堂々たる自主独立外交を展開したのが聖徳太子だったのです。