浪合神社近くに念流山(1050m)があります。
日本の剣道の創始者と言われている慈念和尚は、各地を修行した後晩年を浪合で過ごし、念流山山頂に有る摩利支天を本尊として
修行に努めたと言われています。
せっかく浪合に来たついでに山頂まで行ってみようと思いました。
あまり登る人もいないような感じもしたけれど、道は綺麗に整備されていました。
空の見えない森の中、約2m四方もあるような大きな石があり、
「座禅石」と書かれています。
慈念和尚が座禅を組み、瞑想したと言われている石だそうです。
山頂には幾つもの大きな石がありました。
その上に念流山摩利支天の祠が安置されています。
時々、山頂近くに摩利支天のある山があり、「摩利支天」て何だろう?・・って思っていたのですが、
今頃になって辞典で調べてみました。
幾つかある辞典の中で、この説明が一番しっくりきました。
「サンスクリット語マリーチの音写語。かげろう、日の光を意味することばで、その神格化でもある。
昔、帝釈天が阿修羅と戦った時、日と月を守ったと言われていて、自らは陰形、つまり姿を見せないがこの神を
念ずると他人はその人を見ず、知らず、害することなく、欺くことなく、縛することなく、罰することがないという。
日本では武士の守護神とされた」らしい。
その他、浪合には「浪合関所跡」がありました。
舗装された道路が行き止まり、100mほど歩くと・・・
向こうの方に「関所跡」が見えてきました。
説明より(略)
戦国時代、伊那谷を手中にいた武田信玄は、駿河・三河への進出を計画し、
この伊那往還を軍事用として整備を進め、街道の整備と共に南信濃の諸将の動向を監視するために、
6か所の関所を配置した。その中でもこの浪合関所は重要視されていた。
信州と三河を結ぶ伊那街道は、江戸・京都間の中山道や東海道の裏街道として庶民に利用され、
江戸時代に入ると厳しく「入り鉄砲、出女」が厳しく取り締まられた。
浪合関所南門は復元ですが、礎石4基や周りの石垣は当時のまま残されていて、
往時を偲ぶことができます。
関所が存続した期間は、信玄創設以来315年、明治二年に廃止された。
敷地内には古い稲荷神社も残されていました。